2020/10/18
かつて生き、共に歩んだ愛する故人に対し、わられはもはや何もなし得ない。ただ在りし日を偲び、人の生死をお取り仕切りくださる万物の創造主に心を向けつつ、「今」を生きる。それだけが確かな事だ。中世の修道士たちは「メメント・モリ〜汝の死を覚えよ」を合言葉に生きた。ユダヤでも「今日が人生最後の日、今日は人生最初の日」そのように生きよ、と教えた。昨日できた事が、今日もできる事の恵みを感謝。今日という日の出会いの中で、互いに励まし合う事の喜び。明日の事は神に委ねる希望を抱いて今日を生きる。マザー・テレサから神父になるよう勧められた片柳弘史氏は、死について次のようにたとえている。「芋虫から見れば、蝶になることは死。芋虫が、死んだ仲間を思って『あいつはもう地面を這えない。葉っぱを食べられない』と悲しんでいるとき、その仲間は蝶として空を舞い、花の蜜を吸っています。人間の死も、それと同じなのかもしれません。」<こころの深呼吸p.324教文館2017>芋虫のような生であっても今日を精一杯に生きよう。(2020.10.18 召天者記念礼拝)
「花は咲くときはがんばらない。ゆるめるだけ」ある中学生が大切にしている言葉が新聞に紹介されていた。<朝日新聞「天声人語」2016.1.27>綺麗な花を咲かせるその姿は、われらの知らぬ間に、あたかも強張った蕾をゆるめるように花開く。いのちが活き活き輝くのは、時に自分の気負いや頑張りによらず、むしろ自分の力をゆるめる時かも知れない。上手く物事が進展しないかに思う時、不安の中に萎縮し、身動きが取れないような時、われらは何かに力んでいる。神の国はいのちが守られる領域であり、いのちといのちが共生する。主イエスの言葉は神の支配、そのお取り仕切りによって、聞く者に大いなる恵みをもたらす。それは「種」のように人の内に蒔かれ、知らぬ間に自ずと成長していく。神の言葉自体に命と力があるからだ。主イエスとそのみ言葉に信じる事はある意味、自分の力をゆるめる時である。人と比べて背伸びする事をやめ、自分自身の内側ばかりを見て結果を気にするのでもなく、神のご支配に身を委ねる事である。そこに結実がある。(2020.10.11)
「謎なぞ」。3人が各種のパンを食べていた。一人は「あんパン」もう一人は「クロワッサン」3人目は「食パン」それぞれ声をかけたら「一人だけ」が返事。どのパンを食べていた人か?答えは「食パン」。理由は食パンには「耳」があるから・・・。食パンの端(外皮)を耳と呼ぶのは日本特有である。一説には人の耳は顔の端についているので物の端っこにあるものを「耳」にたとえているという。ユダヤでは人の顔に口は一つで耳が二つあるのは、「話す二倍は聞きなさい」と神が教えておられると解釈。口よりも耳が上に位置するのも、「聞く」事の方が価値が高いのだという。主イエスは繰り返し「聞く耳のある者は、聞くがよい」と人々に問いかける。生ける神の言葉、闇を照らす「ともし火」として来られた主イエス。「ともし火」は、太陽のように眩しく直視できないものではなく、よく見つめる事のできる光である。主イエスとその言葉に聞こうとする者は、どんな暗闇の中を歩いていても足元が灯され、安らぎを見出す。彼の言葉は、包装紙で丁寧に包まれた贈答品のようにわれらのうちに届く。中身は隠されているが、みずから開けようと紐解けば神の恵みの絶大な価値、宝を見出すのだ。人は往々にして聞きたい事だけを聞き、知りたいと願わない情報は素通りする。みずから神の言葉を知ろうと求める者は、聞く耳を持つ者である。十字架という燭台の上に置かれた「ともし火」。偉大な恵みがここに隠されている。注視して歩むもう。ここから神の愛が明らかにされる。(2020.10.4)
敬老の日を迎えた。世界最長年齢(2020.9月現在)は、福岡市在住の田中力子さん(117)。ライト兄弟が人類初の有人飛行を達成した年に誕生、長寿のギネス記録保持者である。彼女は戦後1957年に洗礼(バプテスマ)を受けておられるが、われらと同じ群れ(日本バプテスト連盟)の教会員との事だ。5人のお孫さんとひ孫が8人、命のつながりに畏敬の念を抱く。主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ」。種は「命」を持っている。一つの種が納屋の隅に飛んで芽生え、水も肥料も与えられず人から見捨てられたように放置されていても、まともな畑に植えられた株より逞しく育つ事がある。団栗でも、誰も地を耕さずとも勝手に木になっていく。まったく肥料のない火山灰に種を蒔いても木は育つ。「種」自体に「命」があるからだ。「種を蒔く人」は、どんな場所にも命ある種を蒔き続ける。道端、石だらけの地、いばらの地、どんな地であろうと命の種は平等に蒔かれる。主イエスは「種を蒔く人」のようだ。人がどんな土地(心)の状態であれ、聞く人に恵みをもたらす命の言葉を語り続けておられる。聞いて受け入れる者は良い土地となって必ず肥大な実を結ぶという約束を示し、「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返しわれらを招く。神の言葉は死なず、跳ね返されようと、忘れられようと必ず生きるのだ。神の言葉には真の命があり、どんな時にも望みを与え、信じる者を救う力がある。2020.9.27
テニス全米オープン覇者となった大坂なおみ選手。人種差別へ抗議マスクでも話題となったが、彼女自身もハイチ系アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ。9/19は混血児のためにエリザベツ・サンダーズホームを設立したキリスト者、澤田美喜(1901-1980)の生誕日である。敗戦後の混乱期、彼女は混血児が遺棄されている現状を目の当たりにし、1948年に孤児院を設立。日米両国から迫害を受けながらも戦争犠牲者の命を救うべく献身し、2000人以上の戦争混血児の母と呼ばれた。今でこそ「赤ちゃんポスト」などの制度があるが、70年以上も前に彼女は、祈りと共に大家族を養い育てたのだ。財産相続ともなれば骨肉の争いになる現実もあれば、血縁ではなくても強い絆で結ばれる関係もある。主イエスは、ご自分のそばに座っている人々を見回し、「見なさい。ここにわたしの母、兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3章34節)と言われた。主イエスは、ご自分を求めて共にいる人たちを誰よりも大事にされ、主イエスのそばにいようとする者を「あなたはわたしの家族だ」と招いてくださるのだ。主は共にいるひとり一人にご自身の命まで差し出して差別することなく愛し、神の御心を行われる。われらも教会を通してこの主イエスのそばに置かれ、神を父と呼ぶほどに新しく強い絆、永遠に至る愛に生かされている。(2020.9.13 )
「絶対にゆるさん(3)、2、1・・ゆるす」流星というコンビ芸人のネタには苦笑してしまう。「ゆるせる事、ゆるせない事」それは人によって異なる。最近人気のドラマのように「やられたらやり返す、倍返しだ」と言わんばかりに「絶対にゆるせん、二千、三千・・と憎しみが増大し、対立や絶縁をもたらす例もあろう。聖書で「罪のゆるし」を指す場合、一般に創造主なる神と人間という<対神関係>を意味する。十字の線でいうなら、縦の線(神と人との関係)と横の線(人間関係)、それぞれ方向性がある。漢字は「許し(許可)」よりも「赦し(恩赦)」の字が当てられる。神の子イエス・キリストによる出来事、その福音宣教は神の人間に対する「赦しの宣言」である。主イエスは、「人の子らが犯すどんな罪(複数)も(神から)赦される」と言う。しかしその後、「聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、その罪(単数)の責めを負う」(30節)と語り、「赦されない罪(罪)の存在を示された。その罪とは具体的に何なのか、われらは判断できない。人間同士の「ゆるし」の基準は差異が生じる。だが、聖霊なる神の働きとして唯一、神から「赦し」の道が示されている。その働きを否定し、メシアなるイエスを拒否する事は、神からの赦しと救いを拒む事に繋がるのだ。(2020.9.6)
使徒たちの「任命」。原語では「つくる」という意味を含んでいる。それは物事を仕上げる側に主権がある事を意味する。弟子たちではなく主イエスが選び、つくりあげられるのだ。「つくる」という作業は、手掛ける対象から離れては完成しない。その意味では使徒たちは<主イエスと共にあって>こそ「使徒」なのである。使徒を選んだ主イエスの目的は、ご自分の側に置くためであり、主イエスの働きを成すため派遣し、人々を悪しきものから解放する特権を与えるためであった。主イエスはが選ばれた弟子たちは実に多様である。性格も職業も出身地も同一ではない。兄弟同士もいるが、互いに相容れない対立関係にあると思える面々もいる。あたかも教会の縮図のようだ。教会は一人ひとりが主イエスによって選ばれ、集められている。過去や何かに優れた能力や実績が求められているのではない。ただ主イエスの側にいる事が求められているのだ。われらには違いはあっても、イエスを主と告白する信仰告白共同体であり、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜ぶ運命共同体である。どうして良いかわからない時でも祈りを集め、主イエスのもとへ委ねる事が出来るのだ。祈りしかできないのではなく、これこそが最大の特権なのだ。主イエスは手掛けられる事を決して放棄されない。必ず主が万事につき善きもの、愛、喜び、平和をつくり、仕上げられるのだ。(2020.8.30)
「密です。」とは、コロナウィルス対策として互いに距離を取ることを促す言葉となった。<①宗教と政治の密>イエスの時代、ファリサイ派と呼ばれる宗教指導者とヘロデ派という政治的な影響下にある者たちは密接な関係となっていった。その目的はイエスの殺害であった(6節)。歴史上、政治と宗教が密着する所に平和はなく、むしろ人命が奪われるという方向に向かうということが繰り返されて来た。われらは「政教分離の原則」に立ち、密を回避するための距離が必要だ。<②群衆との密>主イエスのもとには夥しい群衆が殺到(7-8節)。四方八方から押し寄せた群衆にとってイエスの存在は自分たちに利益をもたらす対象でしかない。病気の治癒や問題が解消されれば用済みとなり得る。群衆心理は「個別の出会い」を遠ざける。ガリラヤ湖畔にて押しつぶされそうになる主イエスは小舟に乗り、群衆と一定の距離を保たれた(9節)。そして、苦しさや辛さの中にあって求めてくる群衆の一人ひとりが抱く願望の根幹にあるところに触れるべく、かれらに福音の言葉を聞かせられた事であろう。神の恵みにより問題が速やかに解決することもあろうが、本当の救いは、主イエスご自身を知る「密なる出会い」を通してこそ得られる。「密」とはきめ細かく、行き届いていく状態を指す意味を含むが、主イエスは群衆と接しながらも、その一人と個別に出会い、親密な関係へと招かれる。実にきめ細く日々配慮され、その場限りではなく、全生涯にわたって神の愛が行き届いていく関係として、共に歩もうとされるのだ。<③メシアの秘密>「あなたは神の子だ」と叫びながらひれ伏す汚れた霊どもに、主イエスはまだ「広めないように」と制される(12節)。われらは主イエスの十字架と復活を通してはじめて、このお方を神の子、救い主と告白するのである。(2020.8.23)
敗戦75周年8月6日広島原爆の日、広島で被爆した当時70代の男性と女性の2人と、ほぼ同年代で米国の原爆開発者との対談がニュースで放映された(15年前の収録)。当時、この科学者は広島で巨大なキノコ雲を上空から撮影。「あなたはキノコ雲の下、市民が地獄絵さながら泣き叫び、皆、右往左往している姿を想像されましたか?」と問う被爆者。「わたしは謝罪するつもりはない」と何度も首を横に振る科学者。彼は、彼なりの正義を語る。「アメリカでは『真珠湾を忘れるな』と言う言葉がある。非難するなら日本軍だ。」目から涙をため、口をハンカチで抑えながらこらえる女性被爆者。互いの心に言いようもないわだかまりを残したまま対話は終了。戦争の罪深さ、根深さを感じさせるものであった。▼いのちが悲しむ時には一緒に涙を流し、いのちの喜びの席では祝宴のように共に喜ばれる。そしていのちが蔑ろにされる時には、怒りさえあらわされる・・・。正にいのちと共に生きる姿、ここに主イエスのいのちへの姿勢がある。主イエスはいのちを救うためにご自身のいのちをささげ、人間の心の頑なさ、罪のゆえに、殺される者となられた。広島・長崎の雲の下、「水をください!」と叫ぶ原爆被害者のように、主イエスは暗闇の下、十字架で壮絶な「渇き」を覚えつつ死なれた。主は人類の最も悲痛な叫びの側に立たれたのだ。自分の過ちを認めることができず、自らの正当性を主張して譲らない頑なな心。誰かを責めても答えはない。自分自身の事で心が満ちる限り安息や平和は訪れない。安息日に神が望んでおられるのは、復活の主で心を満たす事だ。いのちの尊さ、いのちへの祝福は、平和を与える安息日の主イエスから到来する。 (2020.8.9「平和礼拝」)
週に一度の休日、由来は聖書にある。「安息日(休日)」は人間のために定められた。創世記によれば、神は創造の業を離れて第7の日に安息され、この日を祝福された。第6の日に人間が造られたとすれば、最初に迎える日は「安息日」である。「安息日」にわれらは神が神であることを知り、神はわれら被造物をありのまま受け入れ祝福される、そこでわれらは生きる意義と喜びを見出し、週の歩みをはじめる。モルトマンは「安息日は神がいる日」と表現している〈Jモルトマン組織神学論叢2「1創造の完成Ⅵ「安息日」―創造の祝日p403-405沖野政弘訳」新教出版社>。子とって普段「親」を感じる日は、親が仕事をしている時ではない。家事などを中止して親がその作業から離れて休み、子と真正面から向き合う時にこそ、その存在をありのまま感じる。主イエスは「人の子は安息日の主」と言われた。主が復活された日曜日は「主の日」とされ、われらは安息日の主と出会う。この日は、「主イエスがいる日」なのだ。主は常に共におられるが、この日はその恵みの事実をありのまま知るのである。主イエスが真正面で向き合われ、われらのありのままを受け入れ祝福される。自らの力で心身の疲れを癒そうとする限り、本当の安らぎを得る事はない。そこでは自分自身が安息をもたらす主人になっているからだ。「疲れた者、重荷を負っている者は、誰でもわたしのもとに来なさい」と招かれる主イエスのもとでこそ、われらを苦しめる一切の重荷、病、悲しみ、中傷、罪の束縛から解き放たれていく恵みを知り、生きる望みと力を得るのだ。(2020.8.2)

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