週に一度の休日、由来は聖書にある。「安息日(休日)」は人間のために定められた。創世記によれば、神は創造の業を離れて第7の日に安息され、この日を祝福された。第6の日に人間が造られたとすれば、最初に迎える日は「安息日」である。「安息日」にわれらは神が神であることを知り、神はわれら被造物をありのまま受け入れ祝福される、そこでわれらは生きる意義と喜びを見出し、週の歩みをはじめる。モルトマンは「安息日は神がいる日」と表現している〈Jモルトマン組織神学論叢2「1創造の完成Ⅵ「安息日」―創造の祝日p403-405沖野政弘訳」新教出版社>。子とって普段「親」を感じる日は、親が仕事をしている時ではない。家事などを中止して親がその作業から離れて休み、子と真正面から向き合う時にこそ、その存在をありのまま感じる。主イエスは「人の子は安息日の主」と言われた。主が復活された日曜日は「主の日」とされ、われらは安息日の主と出会う。この日は、「主イエスがいる日」なのだ。主は常に共におられるが、この日はその恵みの事実をありのまま知るのである。主イエスが真正面で向き合われ、われらのありのままを受け入れ祝福される。自らの力で心身の疲れを癒そうとする限り、本当の安らぎを得る事はない。そこでは自分自身が安息をもたらす主人になっているからだ。「疲れた者、重荷を負っている者は、誰でもわたしのもとに来なさい」と招かれる主イエスのもとでこそ、われらを苦しめる一切の重荷、病、悲しみ、中傷、罪の束縛から解き放たれていく恵みを知り、生きる望みと力を得るのだ。(2020.8.2)
「目からウロコ」「豚に真珠」等。いずれも出典は聖書である。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」もその一つ。「新しい思想や内容を生かすためには、新しい形式が必要」という意味で使われている。イエスのおられるところでは祝宴のような喜びがあり、楽しみがあり、感謝の歌声が響く(イザヤ51:3)世界が実現していた。一方、正しさを巡って、昨今のマスクや自粛警察と呼ばれるような存在から非難の的とされたイエス。そこで語られたのが上記の言葉である。イエスにとっての関心事は、相手に正しさを強要する関わりではなく、ただありのままの人間を愛し、共に歩むことであった。それゆえイエスは正しく生きる事ができず、罪人とされた人々の重荷、悲しみ、そして他者の罪を背負う者となられた。そこにイエスの正しさ、罪なき姿がある。「新しいぶどう酒」はイエスご自身と深く結び付いている。「ぶどう酒」は当時も常飲され、祝宴には欠かせない存在である。形式によらない新鮮で豊かな喜びをもたらす源泉は、「主イエスが共におられる」という恵みから到来するのだ。コロナの時代、「新しい生活様式」が推奨される。「新しい革袋」が必要だ。今までの常識が通じず、発想も根本から転換が求められる時代にあって主の招きがひときわ新鮮さを増す。われらが時に変化を受け入れられず、喜ぶことが困難な状況にあるからこそ、主イエスと共に歩む道に招かれている。この方に絶えず心を向けて歩む日々にこそ、活き活きとした喜びが発酵し、芳醇なる感謝が熟成されていく。共におられる主イエスを喜ぶ心。それは新しい革袋としてどのような変化のある時代にも潤いをもたらす福音となるのである。2020.7.26
あるクリスチャンが強盗事件に巻き込まれ、被害者として法廷の証言台に立った。そこで被告人の罪状と共に処罰に関する内容が告げられ、意見を求められた。生活苦による犯行で加害者本人も悔いている様子。証言者は寛大にも情状酌量の意を示そうとして思わず「わたしも<罪人>ですから・・・」と言ってしまった。「え!?」表情を変えた裁判官。法廷の雰囲気が一瞬にして変わる。即座に気付いて「ああ、私はクリスチャンで宗教的な意味です・・」と弁明し、その場が和らいだそうである。▼当時、不正な利を貪る者として疑惑の渦中にあったユダヤの徴税人。レビもその一人であった。彼が不正に関わっていたかは不明であるが、レビはイエスの招きに応じ、新しい人生を歩み始める。レビは自分も「罪人」と自覚していたのであろうか。ギリシア名では「マタイ」。後に12弟子の一人に名を連ね、一説には「マタイよる福音書」原本の著者として、キリストの福音記者をとなったと伝えられる。彼にとってイエスの招きは、自分を救い、人生を全く新しく変える転機となったのだ。主イエスは言う。「健康な人に医者はいらない。わたしが来たのは正しい者を招くためではなく、罪人を招くためである」と。一方、自らを「正しい者」との自認していた当時の宗教的な指導者や学者たち。やがて彼らは自分たちの主張する正しさをもって救い主である罪のない主イエスを十字架につけることになる。自分は本来、人を裁けるような正しい人間なのではない、という神の前で抱く宗教的な自覚。主イエスの招きは「自分の正しさ」ではなく、自らの罪を知り、赦しを求めている人にこそ救いをもたらす恵みとなる。2020.7.19
皮膚が剥がれ落ち、身体が崩壊していくかのような「ツァラアト」の人を清められたイエス。その話題は今で言えばトレンド入りし、周辺地域に拡散された。数日後、イエスがおられた家では人々が押し寄せ、ひしめき合う状態であった。するとその場所の屋根が剥がされ、一人の中風の人が釣り下される。屋根が崩され、破片が落ちてくる状態は、皮膚が剥がれ落ち、身体が崩されるような症状で苦しんでいたツァラアトの人を連想させる。周囲にいる皆があっけに取られている中、主イエスはすべてを理解したかのように宣言する。「子よ、あなたの罪は赦される」と。身体の神経が麻痺する障がいを負っていたこの人はツァラアトと同様、神から有罪の判決を受けていると考えられていたのだ。罪を赦すことができるのは神以外にいない、冒涜だ、と学者たちの心は炎上。そこで主イエスは罪を赦す権威者として中風の人に、「起きて床を担いで歩け」と命じられる。主の権威は、苦しめれ、虐げられ、自分ではどうすることもできない悪しき束縛から解放する救いとして行使される。人間にとって癒しよりも優先されるべきなのは神から罪に問われない事。不幸や悲しみ、困難、苦しみが神からの刑罰ではないと思える事だ。人は因果応報で、不幸をもたらす犯人探しをするが、そこではツァラアトや中風の人たちのように、いわれもない苦しみを強要され、差別される人たちを生み出す温床になってしまうことがある。しかし、主イエスはその差別や苦しみ、罪からわたしたちを解放される。罪を贖う主イエスの十字架、その権威によって。2020.7.12
「重い皮膚病」と訳された「ツァラアト」。以前は感染力の強い病とされたが、実際は感染力も遺伝性も立証されていない。covid-19では2mだが、当時この患者は数キロレベルのソーシャルディスタンスが要求された。社会から隔離されてひとり孤独に暮らさねばならず、人前に出ようものなら「私は汚れた者だ!私から離れろ!」と叫び、自分が感染源であることを叫ばねばならない規定があったのだ。(レビ記13章参照)さらに罪人に対する天罰的な病とされていた。当時は患者に触れると汚れに感染し、罪が移るという認識だった思われる。だが、主イエスはこの患者と触れ合う。そして「深い憐れみ(感情が強く突き動かされる様子)」で、いわば感染者に手を差し伸べる。この病を罹ったばかりに受ける想像を絶する身も心も張り裂けそうな苦しみ、腸が千切れるような痛み、それをもたらすものに対する憤り、主イエスは感染者とされる者と苦痛を共にされるのだ。そして主イエスは言う。「わたしの心だ、きよくなれ」するとたちまち、患者はきよくされた。主イエスとの出会いには真の触れ合いがある。そこでは命、生への共有、共鳴がある。主イエスは苦しみにある者の痛みに触れると同時に手を差し伸べられ、ご自身のきよさ、喜び、望みと力を供給される。(2020.7.5)
主イエスの教えに人々は驚嘆した。どのような「教え」であったのだろう。あらゆる宗教や教祖などは、その教理(教え)が重要視される。だが、マルコ記者はイエス教えの内容については触れていない。ただ「権威ある教え」に非常に驚く人々の反応が伝えられる。主イエスの教えは、人々を苦しめる悪しき者から解放する「わざ」そのものであった。権威には服従が伴う。悪しき霊、病いさえも主イエスの言葉に服従した。即ち、「権威ある教え」とは実質、人々をその悲しみや苦しみ、悪しきものから救い出す神の力、そのものなのだ。ゆえに「宣教(ケリュグマ)」と呼ばれたのである。主イエスは弟子たちと共に巡回して宣教し、大勢の人々をその悪しき束縛から解放して自由を与え、罪の縄目を解くわざをされた。今もわれらと共に、主イエスは宣教のわざを果たそうと共に働いておられる。(2020.6.28)
 師弟関係というものは、弟子の方が志願するのではなかろうか。だがイエスの場合、みずから歩み寄って声をかけ、弟子へと招かれる。だとすればこの招きは恵みそのものである。われらがイエスのおられる場所を捜し求めるのではなく、イエスの方からわれらのいる場所を捜し求め、われらを見出し、そこで招かれるのだ。招く前にイエスが彼らを見つめておられた姿が印象的だ(16,19節)。招く者ひとり一人のあるがまま、至らぬ部分を含めた存在全体を見つめて受容するかのような深い眼差し。イエスはすべてを承知のうえで彼らと共に歩もうと招かれるのである。イエスの招きに応じるということは、弟子の側ではなく招く側に一切の備えがあるという恵みに気付かされる。弟子たちの前途には時にイエスの心を理解できず嘆かせ、期待に応えるどころか裏切ることもある。しかしイエスは食する暇も寝床の枕ももたず、ただひたすら人々にしもべのように仕え、招いた者をこの上なく愛し続け、十字架でご自身の命をささげる程にすべてを与えて歩まれた。すべては招く側のイエスが背負い、愛を注ぎ、忍耐を尽くして最後まで弟子として受けいれ、弟子と共に働かれるのである。弟子(マセーテース)とは、その主であるイエスの生き方、全存在に学ぶ者である。われらも主イエスと共に歩む者として招かれている。(2020.6.21)
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」(マルコ1:11)聞こえてきた天からの声。その後、イエスは「荒れ野」へと追いやられる。(同2節)「荒れ野」とは人が生きる事が非常に困難な環境であり、命の保証もなく、寂しく孤独な場所である。イエスは最初から受難の道を歩まれた。獅子は子を崖から落とすと言われるが、イエスは荒れ野へと捨てられるような日々を送られる。われらもまた、あたかも神に捨てられるかのような経験へと導かれる事がある。だが、それはイエスと結ばれ神の子として歩む道なのであり、一時的な鍛錬期である。「主はご自身の神聖にあずからせるという目的で、われらを鍛えられる」という(ヘブライ12章2-11節参照)。なぜなら「あなたは神の実子」とされているからであり、神に「愛されているから」というのだ。荒れ野の道とは当座は喜ばしく思えぬが、後に大いなる神の愛に気付く時が必ず来る。誰とのつながりもなく切り離され、自らの価値を見出せず、一切の営みが絶たれるかに思える荒れ野にて、イエスもそこに共におられる。そしてイエスのもとでは自分に敵対するような存在、命を脅かす野獣のような存在さえも共生する平和(シャローム)が到来する。(2020.6.14)
 ▼横田めぐみさんの父親である滋さんの葬儀がキリストの教会で執り行われた。当時中学1年生であった娘が拉致被害に遭い、これまで半世紀近くも被害者救出を訴えて来られた。妻の早紀江さんは娘と同級生の母親から聖書を勧められた時、「泣いて苦しんでいるのに、こんな小さな字の本をどうやって読めるのか」との思いを抱きつつも教会に通い始め、めぐみさんが成人した1984年にバプテスマ(洗礼)を受けておられる。「キリスト教なんかわからない」と言っていた滋さんも2017年に入信された。愛する娘を奪われ、恨みや憎しみに満ちても不思議ではない。しかし加害者を呪うような生き方から、回心を祈る生き方へと導かれていった。キリストの福音を信じ、信仰を持たれたこのご夫妻、記者会見においても「滋さんは天国に生きました!」そこで再会できるのだ、という大胆な希望を語ることができるのは、イエス・キリストによる福音に裏付けられた、神の救いの約束から来る根拠のある確信といえよう。私たちも神の愛のもとで、同じ希望に招かれている。▼公生涯のはじめにバプテスマを受けられたイエス。彼は回心や悔い改めが必要であったのではなく、私たち同様、救いを求めて苦しんでいる人たちの哀しみを共にするためである。かつて出エジプトの際、民は水の中を通って救い出された。道なきところに道が備えられたのだ。イエスも私たちの道として公の歩みを始められた。「福音のはじめ」それは主イエス・キリストが私たちと共に生きる道を歩まれたという出来事からはじまる。(2020.6.7)
「愛されたかった人生でした」とのコメントを最後に亡くなった人気女子プロレスラー。日々押し寄せる誹謗中傷の洪水に誰が耐えられよう・・・。『邪悪なこの時代から救われなさい』とペトロは勧め、彼の言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に3000人ほどが仲間に加わる。この群れはエルサレムに誕生した最初のキリスト教会であった。かれらは喜びを周囲に広げ、イエスの教えである「汝ら相愛せよ」との言葉に生き合い、民衆全体から好意を寄せられていた(47節)。たとえ周囲から愛されていないかに思えても、創造主なる神からは誰もが愛されている。ガリラヤ出身の小さな一団は、聖霊という神の愛の息吹に満たされ、取るに足りない弱く小さな存在が、やがて全世界を変える偉大な神のわざに用いられる器となっていった。誰もが愛されるために存在することを全世界に伝えるために。(2020.5.31)

さらに表示する