『共に苦しみ、共に喜ぶ者として 』:コリントの信徒への手紙第一12章26−27節

たった一本の歯が痛んでもなぜか全体が苦しい。ほんの少しの甘みでも全身が元気になることがある。同じひとつの体だからだ。私たちの体は無数の細胞や器官が複雑かつ絶妙に機能しており、密接に補い合っている。どんな小さな器官であっても不必要なものはない。パウロは多様性に富む人たちで構成されているコリントの教会に向けてキリストにある一致を呼びかけ、教会は「キリストの体」であり、ひとり一人はその部分であると宣言する。「足が自分は手でないから、耳が自分は目ではないから」と、周囲を見渡して自分と比較し、劣等感を抱いているたとえは、自分は役に立たない、あるいは重要ではないと自己卑下する人たちの存在を示唆している。パウロはそれぞれ働きや役割が異なることをあげ、全体の「からだ」に意識を向けさせる。それは、足が手に対してどんなに劣等感を抱いても、体の一部でなくなることはあり得ない。同様に、耳が目を羨んだからといって、体から離れることにはならない、ということだ。それだけ一人ひとりが繋がっている事は重要というのだ。身分や価値観の違い、男女差別もあった集まりで、若年者や高齢者などあらゆる人々が集う只中で、一人ひとりはキリストの体であるという言葉は、すべての劣等感や差別を打ち壊す福音の宣言であり、この世のコミュニティーとの決定的な違いである。それは共に苦しみ、共に喜ぶ者として、ひとつの体を生きる神の国への招きなのである。(2023.2.19)


2023.2.19(日)礼拝講壇生花 by YOSHIKO