南光台キリスト教会〜田中信矢牧師コラム

わが国では祈願は神社。結婚式はチャペル。葬儀は仏教という宗教観を否めない。宗教を尋ねられると「家は仏教」と答えがちな日本人。迂闊に「無宗教」と答えると、道徳観念がなく信用できない人物とみなされる場合がある。特に欧米では「宗教」は相手が何を規範と考えて行動しているかを知る手掛かりでもある。昨今宗教の問題が連日取り沙汰されているが、行政も学校も宗教問題となると難儀するのが実情だ。「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)とあるが、宗教とは本来、真理や真実に基づいて束縛や奴隷状態からの解放を得させるはずではなかろうか。「宗教」の訳語は「re-ligion」。多義的であるものの「再び結ぶ」と理解される。もし仲違いした相手と再び繋がるならばそれは宗教的と言えよう。われらは独りではなく誰かとの関係の中で生きている。宗教は誰かを悪者と決めつけて敵視し、善と悪の世界に二分して関係を絶つか、あるいは自分の側につけ、同類だけで結び合うのではないはずだ。主イエスは敵とも結び合わせる関係へとわれらを導く。互いに結び直し、繋がり続ける道が信仰であり、ここに真の自由がある。その自由な繋がり、結び付きをキリスト教は「愛」と呼び、すべてを完成させる絆と信じるのだ。何より神がわれらを愛し、神との関係を和解へと結び合わされたからである。(2022.10.23)

水面上に投じられる一滴の雫は、うねるように同心円状に幾重の輪を描きながら波紋を広げる。われらの暮らしで起こる出来事もまた、波動的に周囲へと影響を及ぼして行く。負の連鎖は、憎しみや争いの波に乗って多くの命の渦に巻き込んでしまう。戦争がさらなる戦争へとつなげられる。しかし対照的な福音の知らせは、われらに命と希望をもたらすためにさらに今も力強く波及する。「復活」という信じられない出来事をマルコ記者は多くを語らず、一雫に止めるような結びとする(8節完結)。だが、その小さくとも衝撃的な知らせが、時代という波のうねりの中で後にマタイ、ルカ、ヨハネによる福音書の執筆へとつながった。本書の「結び一」「結び二」も然りなのだろう。最初の福音書「マルコ」の本来の結びが、主イエスの復活を伝える雫となって次々と波及的に書き記され、世界中に新しい言葉として福音が伝えられる呼び水となったのだ。今を生きるわれらも「復活」という希望のうねりと波状に背負われ、どのような試練も苦境も乗り越えることができる。そう信じて歩み続けたいものだ、われらは今も復活の波動の中に生かされている。復活の波動は希望の連鎖を呼び起す。そして復活の波動はわれらを主イエスと共に復活の命へとつなげるのである。(2022/2/27(日))

「痛まず、苦しまず、死なない」そのような人格との共存は難しい。なぜなら人間は生きる限り「やがて死ぬ」という意識が心の奥に留まっているからだ。もしも苦しむ事もなく死なない人がいたなら、価値観も人生の悲哀も共有できない事だろう。今や人間にとって欠かせないパートナーとなったAI(人工知能)だが、AIは死なない。どんなに正確で緻密な技能と処理能力を有し、賢明な判断を得られる相談相手として進歩しても、常にバージョンアップを繰り返し、死ぬことのない相手と「共に」生きたところで、決して救いにはならない。主イエスは「死なれた者」としてわれらと接点を持ち続け、連帯される。主イエスによってご自身を示された神は、痛みや死をすり抜けて自らは苦しまず、人の痛みに無関心なお方ではない。ましてや苦しむ者を天罰だとして見下すお方でもない。主イエスは「十字架刑」という最も酷い死をもって絶望の中で息を引き取られた。苦しむ側、見捨てられたと絶叫する側にまで降りて来られたのだ。主イエスは、これ以上ない呪いと不幸の深淵に放り出された事によってどんな人間の苦しみ、絶望、死をも共にされる。主イエスは誰も孤独にされない。苦しむ者と「同じ」になる事で苦しむ者と出会い、「共存」されるお方なのである。(2022/2/6)

聖書はわれらに「主をほめたたえよ」と賛美に招く。長期化する生活上の不自由さやコロナ危機による経済的打撃、また病いや困難の中にある者にとってそれは容易ではない。詩編はダビデの名による賛歌が際立つが、彼は幾度なく命を脅かされ、不安と恐怖に取り囲まれる日々を生きた。しかしダビデは、過酷な荒野での避難生活にあって神への信頼が養われ、賛美を歌う者とされる。神の御心に適う理想の王として後世に語り伝えられたダビデの詩を編纂した古代イスラエルの民は、亡国による悲哀と憂慮の暗雲に覆われて将来に希望が見えない苦境の只中で、神を賛美する信仰に招かれた。旧約聖書に登場するヨブは突如、人災と天災に遭遇し、財産や子どもたち一切を失う。悲劇に見舞われた彼は「主は与え、主は取られる。主はほむべきかな」(ヨブ1:27)と神を賛美するのであった。新約聖書では使徒パウロとシラスが、希望のない獄中にあって自らの運命や人を呪うのでもなく、真夜中に神を賛美している記事がある(使徒16:25)。すると獄の戸が開き、手足の枷は外れて自由にされたという話だ。神に信じる者の生き方は、自分の状況がたとい最悪と思われるような局面においても絶望せず、希望を抱く態度に招かれる。賛美はわれらを自由にする。賛美には力がある。それはわれらの力ではなく、神の力がわれらの内に解放されるからだ。賛美は、自分では断ち切ることのできない不安の雲霧を晴らしていく風となって、新しい視野で自ら経験する出来事を肯定する態度となる。賛美を通してわれらの視界に開けて来るのは、神の計らいであり、恵みの発見である。そこには癒しがあり、命がある。翼を張って颯爽と高く上昇する鷲のように、自由で新しい世界が目の前に広がる。賛美は、絶望に対する抵抗運動である。口から賛美が出ないからこそ賛美に招かれる。自らの感情と相容れない時も「わが魂よ、主をほめたたえよ」と自身に呼び掛ける事から、新しい希望の扉が開く。賛美をもって新年を迎えよう。(2021.12.26)

サンタクロースからの贈り物が喜ばしいのはその匿名性にある。贈り主が誰であるか正体は明かされない。本人が気付かぬよう子ども達に笑顔を届ける。「良い子にしてないとサンタは来ないよ」という言葉は本来のクリスマスメッセージではない。なぜなら愛は、無償であり見返りを求めないからだ(Ⅰコリント13章5節)。インマヌエルという名も匿名性を有している。「神は共におられる」というが、その正体は隠されているからだ。神は不可視的であってわれらの肉眼では見る事ができず、触れることもできない。ゆえに、共にいたとしても決して気付かない。もし、神顕現が日常的に可視化され、絶えず意識されるならば、果たして誰が耐え得るだろうか?逃げ隠れは不可能。空間的にも思考回路にもすべてにリアルで圧倒的な神の存在の中で生きるのだ。だが、実際のところは不明である。しかし神はわれら共におられるという。信じようが疑おうが変わらない。われらがどんなに神を無視し、拒否しても、神がわれらを拒むことはなく傍におられるのだ。たとえ人間がどんな行為に及んだとしても、神はわれらの命が無条件に生きることを望み、善意と限りない愛をもって共におられるのだ。匿名の愛とはわれらの気付かない所で、われらの知らない所で完全に実現している寄り添いである。神はご自身を隠し、われらを恐れさせない。ただ愛するために共におられる。神の愛の匿名性、その目的はわれら一人ひとりに無条件に届いている愛を受け取り、喜ぶことにあるのだ。(2021.12.19)


ある男が突然、王様から召集された。男は不安になり3人の親友に一緒に来てくれと懇願する。一番の親友は日頃から大事にしており頼りになる存在。だが、いとも簡単に「NO」と断るのであった。もう一人の親友に頼むと、城の門までは一緒に行けるがそれ以上は無理、と言う。3番目の親友は普段は目立たず忘れている事もあったが、何処までも私が一緒にいるから王様の前でも心配いらない、と告げるのであった・・。これはユダヤのたとえ話。王様は「神」。呼ばれたのは「死」を意味している。一番の親友は「お金」。死後は意味を失う。二番目は「家族」。火葬場までは一緒に行けるが、その先は引き離される。3番目の友は「善行」。「行い」は、死後もついて行くという・・・。私たちは先に召された者の在りし日を偲ぶ時に想い起すのは、故人の生前における命の営みである。「あの人が生きていたらきっと、こうするに違いない・・」と、故人がその道にあって選び続けた行動の一貫性において地上に残された者の心に甦るのだ。かつて共に歩んだ中で与えられた愛の行為、それはいつまでも心に残される・・。われらにとって3番目の友は、主イエス・キリストである。彼はわれらを「友」と呼び(ヨハネ15:13-15)、友のために命を捨てるほどの愛のわざを十字架において与えられた。善いわざとは、主イエス・キリスト。彼と共に歩むことである。このお方に結ばれてわれらは生きる。主と共に葬られ、主と共に復活の命を生きるのだ。われらもいつの日かお呼びがかかる。だが、このお方がいつまでも、どこまでも一緒にいてくださるのである。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」黙示録14章13節(2021.10.17(日))

皇帝に納税すべきか否かを問われるイエス。どちらを答えても失脚するように仕向けられた策略的質問である。そこで彼はデナリ貨幣を持って来させ「肖像と銘は誰のものか」と聞く。「皇帝のもの」と答える質問者。「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」とまさに神対応。本来帰属すべきところを指し示すこの言葉は、われらの責任を深く問いかけ、あるべき姿を喚起する。社会的義務と宗教的義務は必ずしも別個のものではなく、いずれも神に従う道にある。キリストはローマ帝国の権力と制度のもとで十字架刑に処せられたが、神はその国家権力を通して人類を罪から救う血路とされた。「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」神の支配のもとにあるのだ。コロナは変異株に置き換わり、爆発的猛威が世界に蔓延している。地とそこに満ちるものは神のもの(詩編24:1)とある。だとすれば、コロナも神の支配下にある。われらは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のためである(ローマ14:8)コロナもわれらも、元来は神に帰属する。恐れは、安心であれ安全であれすべてを自分の手中に納めようとする過程にある。すべては自分のものではく、神のものと捉えるならば、たとえそこに危機はあってもただ粛々と日々なすべき務めを誠実に果たそうという姿に本来の生き方を見出すのではないだろうか。われらはこの命を、この時代に創造主から預かっている。神に栄光を帰するために。(2021.8.22)

幼いRくん。彼はイエスさまと遊んだ夢を見たと話す。かくれんぼに追いかけっこ。電車ごっこで一緒に連なり庭中を駆けまわって物凄く楽しかった!という。彼はイエスさまと両手をつないだまま見つめ合い、こう尋ねる。「ねぇ、ずっとずうっーと、いつまでも、いつまでも、僕と遊んでくれる?」するとイエスさまは「いいよぉー!」とニッコリ。満面の笑みで答えてくれたのだそうだ・・・。「夢」の中での話である。でも、子どもを祝福されるイエスは、きっとそんな人格の一面をお持ちであろうと私は思う。「大人」として神の国をとらえる弟子たち。大人社会では子どもは時に仕事の邪魔となり、追い出されてしまう場面もある。自分勝手で物事の分別において未完成のままだから、未熟な者には「大人になれ」と嗜める。しかし神の前では「大人である」ことが要求されているのではなく、「子」のままで招かれている。神の国では、自らの偉大さや実力によるのではなく、他者に連れられねばならないような<無力さ>において、即ち神に信頼せずには生きられない関係においてこそ、神の愛と祝福に出会うのだ。イエスはご自分のところに来る者を誰も拒まないお方として今もわれらを招く。それを妨げようとする者への厳しさ、激しい憤りのなかに、イエスのどんな小さな存在でもありのまま受け入れる愛と優しさがあらわれているのではないか。連れて来られた子らを腕に抱き、両手を置いて祝福されるイエス(16節)。彼のもとでは期待以上の喜びと祝福に包まれていく。(2021.5.16)
メシアを巡っての齟齬。対立するペトロとイエス。原文では互いを「叱る」という動詞が3度も登場する。自分の考えるメシアであってほしいとイエスを叱るペトロ。その思い違いを「後ろに引き下がれ」と厳しく叱るイエス。「叱る」状況は、自らの意思が強烈に、最大限に表明される。そこに妥協や曖昧さはない。それほどまでに人間のエゴは強く、神さえ押しのけて前面に出る事がある。叱られねばならない貪欲、鈍さ、愚かさがある。「ユダヤ人の王」という罪状書きで十字架の道を歩むイエス。人々は愚かだと嘲弄し、「王なら自分を救え」と侮辱する。王なら、自分を救える。配下の者を意のままに、自分を守るためは賢く敵対者を排除し、処罰する権限さえ行使し得る。だが、イエスは自分を救わない。十字架につけられたまま降りない。「他者は救ったが、自分は救えない」メシアなのだ。われらの内にも利己心という王が居座る。イエスを否定するペトロ同様、自己保身に必死になってしまう。イエスは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節) と、自分だけを見つめる生き方に闘いを挑む道へとわれらを招く。その道では自分を救えず、このお方と共に十字架から降りることができない。愚かに見える。だが、そこでこそイエスと共に「自分は救えなかったが、他人は救った」という道に結ばれる。彼の言う「十字架の道」とは、自分の重荷ではなく、他者(隣人)の重荷を背負う道にあるからだ。憎しみや争い、差別や分断。現代人の抱える多くの課題は神を畏れず、自分を世界の中心に据える王として周りを支配しようとする人間の利己心、罪から生じる。そこから救うためにイエスは十字架につけられたまま降りられない。(2021.3.28 受難週)

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