『礼拝暮らし』ローマの信徒への手紙12章1−2節

仰生活とは礼拝を中心とした生活である。「生活」と「暮らし」は似た意味だが、後者の方がより長期的で腰の座った生き方、自らの選び取りによる責任性、生(なま)の命の現場に立脚した意味に通じるように思う。その意味でわれらは「礼拝暮らし」をしているのだ。「礼拝」は人間が作り出したものではなく、神からのオファー(申し出)による。神は人格対人格の関係においてご自身を差し出して(オファー)してくださるので、われらはその神に応答する。神が何よりもわれらの暮らしに関わり、その細部に至るまで愛を差し出してくださるので、神に至上の価値を置く礼拝が引き起こされるのだ。パウロは「われらがなすべき礼拝(ライトゥルギア)」として、「自らを生きた聖なるいけにえとしてささげなさい」と勧告する。親は子が何を喜び、何に悲しむのか弁えている。そして子が幸いを得るためには時に自身を使い切る。弱っている時には寝ずに看病することもある。われらが神に自らをささげるのは、他ならぬ神ご自身が、われらのためにすべてを与え尽くしておられるという愛の真実に基づく。まさにイエス・キリストが自らをいけにえとしてささげられ、ご自分を無にしてしもべのように仕えられたというという出来事が前提なのだ。「見よ、われらを見守る方は、眠る事もまどろむ事もない」(詩編121:4)2020.1.19(日)