2026/05/24
キリスト教の三大祝日の一つ「ペンテコステ(聖霊降臨日)」は、教会の誕生日である。弟子たちに聖霊が「激しい風」のように降り、彼らを世界宣教へと押し出した。神の言葉は今も世界へ運ばれ、手話や方言、一部物語を含めると4007もの言語に翻訳されているという。人間の計画を遥かに超え、聖霊の風が今も吹いている証しでもあろう。「聖霊に動かされた」(Ⅰペトロ2:21)という言葉は、「船が風を受けて押し運ばれる」イメージの用語でもある。使徒言行録に描かれたパウロの難破の記録は示唆に富む。都合の良い「南風」に誘われ人間の計算で出航した船は、やがて大暴風雨に巻き込まれ、ついに自力での操縦を諦め「流されるにまかせた」(使徒27:15,17)。しかし、自力の限界は恵みの幕開けである。絶望の暗闇の中、パウロは「元気を出しなさい」(使徒27:25)と人々を励ました。仕える神への揺るぎない信頼があったからだ。ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんが、紛争地で拘束された危機的状況下でも、持ち前の話術で場を和ませた逸話がある。普段は飛行機を怖がる彼女も「使命」に生きる時、希望を与える存在へと押し出されたのだろう。われらの人生も同じだ。自分の力で起こせる風など、せいぜいうちわ程度にすぎない。順風が止み、自力で進めない現実に直面した時こそ、見えない聖霊の風に帆を上げる時である。教会はまもなく60周年を迎える。自力を手放し大いなる気流に身を委ねるなら、われらは想像を遥かに超えた恵みの目的地へと、今日も力強く「持ち運ばれて」いくのである。(2026.5.24)

2026/05/17
有名な「放蕩息子のたとえ」には、2人の息子が登場する。弟息子は存命の父に向かって遺産を要求し、遠く離れて財産を浪費してしまう。ついに人生のどん底に落ちた弟息子。彼は罪を悔いて帰宅するが、父は遠くから彼を見つけて走り寄り、弟息子を責めずに抱擁するのであった。そればかりかすぐに身分を回復させ、宴会を開いて喜ぶのである。一方、家に留まって父に仕えていた兄息子は、帰ってきた弟を歓迎する父に対して不満と怒りを抱く。兄息子もまた、父の心から遠く離れ、自己の正しさと義務感に縛られた放蕩者の一面がある。だが父親は、自分の正しさや面子よりも、外にいた兄息子のところに出向いて彼に「懇願」するのである。その後どうなったかの結末は語られない。ただ浮かび上がるのは、二人の息子のために惜しみなく愛を注ぐ父親だ。この譬えの二人の息子は人間の比喩で、父親は神自身をあらわす。弟のような自堕落な人間にも、兄のような義務感で心が冷え切った人間にも、神はご自身の財産や命さえも惜しみなく使い尽くされる。「放蕩」とは、聖書の原語では「救いようのない(アソートース)」という状態。その視点に立つと、真の放蕩者は誰なのか?独り息子を与えるほど惜しみなく世を愛される神(ヨハネ3:16)。十字架の上でその命を使い果たした主イエス。善人にも悪人にも、物惜しみせず過剰なまでに浪費するかのような姿は、最大の放蕩者ではないか。神はわれらに惜しみなく愛を注ぎ、たとえ無駄とも思えても、信じて待っておられる。この無条件かつ無限の愛があるからこそ、救いようもない者が救われていくのではないか。

2026/05/10
風薫る五月、木漏れ日の下で心地よい風を感じる時、季節が差し出す至福を見つける。現在放映中の朝の連続テレビドラマ小説「風、薫る」のヒロイン、一ノ瀬りんのモデルは大関和(ちか)1858-1932)である。彼女はキリスト教的献身をもって、かつては賤業と見なされていた看護の地位向上に貢献し、「日本のナイチンゲール」と呼ばれた。明治時代、彼女は家同士の縁談を拒めず、二人の子の母親となるが、当時の封建的な家制度や夫の妾の存在に心を痛め、二人の子を連れて家を飛び出す。それは生きる基盤を失うに等しいことであった。だが、すでに神に見出されていた和は、上京したのち植村正久牧師に出会う。そこで聖書が語る「神の愛」を見出したのであった。彼女は伝道師を志すも、今求められているのは社会的にキリストの愛を実践することと確信し、看護の道に自分の天職を見つけたのであった。和は「私たち人間は、神によって造られました。この造り主なる神の有難い嬉しい愛と恵みを思う時、どうして空しく之を受けておられましょう。どうぞしてこの御恩の万一でも報じたいと思いましたところが、父なる神は霊にましませば、ただその戒めを報じて、其隣人を愛さねばなりません」(女子文壇・第7年第7号)彼女は神の愛と自分の使命を見つけた喜びを胸に、感染症の患者にも分け隔てなく接し、病床の患者は彼女が来ると春の風のような喜びが室内に届き、笑顔になったという。キリスト教矯風会の初代会頭矢嶋楫子らと共に女性の自立を目指す女子教育、廃娼運動、軍縮活動にも尽力した。きょうは母の日、誰かのために自分を捧げる愛の尊さを想う。われらもまた、神の愛の喜びにあずかり、恵みのうちに、自分自身の生きるべき使命を見出し、平和をつくり出す道を共に歩みたい。(2026.5.10-母の日-)

2026/05/03
憲法記念日の5月3日。「時代は変わった」と、憲法改正に向けて号令が響く。かつて国民の命が国旗の下に使い捨てられた歴史を思えば、権力を縛り個人の尊厳を守る防波堤としての憲法の意義は重い。主イエス語る「羊飼い」の姿は、戦争の時代に幅を効かせる全体主義と対極にある個人の尊厳重視だ。100匹のうち1匹が迷えば、残る99匹を置いてでも見つけるまで捜し歩く。効率や数の論理ではなく、固有名詞を持つ「一人」に執心する姿に聖書の指し示す神の姿が重なる。羊飼いは、迷い疲れ果てた羊を責めず、ただ無言でその肩に担ぎ上げ、周囲を巻き込んで歓喜するのだ。本年度の教会標語は「主の慈しみに運ばれて」(詩編118編1節)。この地で60年の歩みを刻んできた教会も、ひとり一人が主の肩に担がれ、慈しみに運ばれて今日に至っている。「わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書49章3節)との約束は変わらない。もはや一歩も動けない時も、主はわれらを背負い、目的地へと運んでくださる。足元が揺らぐ不安な時代だからこそ、決して揺るがない神の肩に全身を預けたい。他者を生かし、平和を求める歩みは、この圧倒的な慈しみの中に生かされているという確信から始まるのである。(2026.5.3)

2026/04/26
われらは今、情報の濁流に囲まれている。作家ジョナサン・スウィフトはかつて「嘘は宙を舞い、真実はその後ろをノロノロとついてくる」と指摘した。SNS全盛の今、嘘が拡散される確率は真実より七割も高いという研究もある。不安を煽る声や過激な見出しが溢れる中、真実を見極めるのは容易ではない。武器輸出や法案を巡る議論など、知るべき情報が等閑視される危うい状況も散見される。聖書は「味を失った塩」の悲劇を語る。塩気を失うとは、心が鈍くなり、真理への感度を失うことだ。単に音として聞くのではなく、その言葉に応答し、自らの生き方を変える。それこそが主イエスの説く「聞く耳を持つ」ということの本質である。権力や流行に左右されない、時代を超えた「生命の言葉」に耳を澄ませたい。自分を隠して素材を引き立てる塩のように、真実の言葉に従う者は、自らの存在を通して他者を生かす。憎しみや裁きの言葉が満ちる時代だからこそ、平和をつくり出し、希望を語り継ぐ存在でありたい。今、どの声に自らを委ねるのか。古くて新しい主イエスの呼びかけが、鋭くも温かく魂に響く。(2026.4.26)

2026/04/19
ご自分の後についてくる群衆に対し、イエスは振り向き、「弟子の条件」を語る。家族や自分よりも神を第一とする優先順位を問うている。当時の家族は人生の中心であった。その家族や自分さえ相対化させる彼の言葉は、帰属の転換を迫るものである。さらに「十字架を負え」とあるが、これは本来「絞殺柱」を意味する処刑道具である。死刑囚は自己決定権を喪失する。すなわち、自分が人生の主であるという前提を手放すことが求められるのだ。続いて彼は、二つの譬えを語られる。塔を建てようとする人と、戦いに出る王の譬えだ。いずれにも共通するのは、「まず座って計算する」という点である。ここに至って人は気づく。この条件は自分の力では満たせない、と。ゆえにこの言葉は、努力の要求ではなく、むしろ降参への招きではないだろうか。弟子とは、条件を満たした強い者ではない。自らの限界を知りつつ、なお招きに応える者である。自分の力では従えないと知るとき、人はそこから恵みに開かれ、神に属する者とされる。イエスの弟子たちもまた、自力で従い通すことはできなかった。主を見捨てた恥と敗北を経て、彼らは聖霊に属する者として新しくされていったのである。私の命も、持てるものもすべて神のものである。キリストに属する者であるという告白――それこそが、「すべてを捨てる」という言葉の意味ではないだろうか。そこには、恵みから恵みへ、栄光から栄光へと、キリストに似た者へと造り変えられていく道がある。主イエスは、弟子として条件に適う者を選別するために語られたのではない。「イエスよ、あなたは私の主です」――その告白へと、私たちを招いておられるのである。(2026.4.19)

2026/04/12
私たちの社会は、贈与と返礼によって成り立っている。受けたら返す、その均衡が関係を保つ知恵である。一方、そこには「返さねばならない」という見えない圧力も潜む。ゆえに、与えられることが時に負担となる。主イエスが語られた宴会の譬えは、この常識を覆す。盛大な宴に招かれた人々は、もっともらしい理由を並べて次々と辞退する。しかしその理由は実のところ不自然で、招きに対する明らかな拒否、侮辱であった。主人は当然怒る。だがその怒りは報復には向かわない。代わりに、貧しい人や障がいを負う人々、社会の外に置かれていた人々を招き入れるのである。ここに示されるのは、交換ではなく恩寵の論理だ。見返りを前提とする愛はやがて取引となる。しかし神の愛は回収不能なほど大きく、ゆえに無償である。この譬えは、神の国の本質を語る。そこでは資格も対価も問われない。ただ招きを受け取ることが求められる。返せない者こそが、恵みを恵みとして受け取ることができるからである。侮辱されてもなお招きを広げる主人の姿は、神の愛のかたちそのものだ。報復ではなく、恵みへ。排除ではなく、包摂へ。見返りを求めない愛は、境界を越えて広がり続ける。問われているのは一つである。この無償の招きを、私たちは受け取るだろうか。(2026.4.12)

2026/04/05
桜がほころび、春の訪れが感じられる季節となった。冬の間、枯れたように見えた木々が再び芽吹く姿は、命の不思議を静かに語りかけてくる。キリスト教において、この「春」に重ねられる出来事がある。主イエス・キリストの復活である。イエスは十字架で死に、墓に葬られた。すべてが終わったかに見えた。しかし三日目、墓は空であり、弟子たちは復活した主と出会った。使徒パウロも復活の主に出会った一人である。彼は、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」と復活の希望を語る。パウロが死を「眠り」と呼ぶのは、再び目覚めるという希望を前提としているからであろう。人生には冬のような時がある。失意や悲しみの中で、すべてが閉ざされたように感じる。しかし、冬は終わりではなく、春の到来があるように、命を与える神は、イエスと共に再び起き上がらせてくださるのだ。イエスが「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11:25)と語られた言葉は、その確かな約束である。ゆえにわれらに求められているのは完璧な生き方ではない。主と共に歩む道である。われらの人生というものは、主と共に始まり、主と共に生き、主と共に仕上がっていくのである。復活の希望とは、単なる未来の約束ではない。今、この地上の歩みを支える確かな力である。われらは、いつまでも主が共にいる、というこの希望に生かされて、今日を歩むのである。(2026.4.5(日)イースター)

春の光がやわらかく街を包む一方で、世界は今、重苦しい影に覆われている。権力者の決断が国境を越えて人々の暮らしを揺さぶり、無数の命を不安にさらす現実。なぜ、このようなことが繰り返されるのか。その問いに対し、聖書はむしろ、われらの心のありようを問い直す。主イエスは、招待客たちがこぞって上座を選ぼうとする様子に注目し、「招かれたら、むしろ末席に座りなさい」と語られた。これは単なる礼儀作法の話ではない。人より上へ行きたい、認められ、敬われたい、という、人の根底にある衝動を見つめ直させる言葉だ。力が支配する論理が極まるとき、人は他者を踏み台にし、やがて暴力と破壊へと突き進んでしまう。教会は今、受難週を迎えた。十字架は、単なる苦しみの記録ではない。それは、主が「どこに立たれるか」という決意の宣言だ。主は強者の側ではなく、虐げられ、低くされた人々の側に立たれた。全能の神でありながら、権力に溺れる人間を裁く座を捨て、自ら末席へと向かわれた。最も低い場所へ、見捨てられた人々の隣へ、敗北の淵へと身を置かれたのだ。しかし、そこは終着点ではない。神は、低くされた者をイエスと共に復活させ、高く引き上げられる。ここにこそ「福音」がある。横暴な力が支配するこの戦時の世が、決して結末ではないという希望だ。 神の身分の座を降り、僕(しもべ)となって全てを捧げた十字架の主は、今もわれらを招く上座ではなく、低い席へ。君臨するのではなく仕える側へ。奪うのではなく、分かち合う者へと。(2026.3.29(日)

春の気配が戻る頃、かつての震災の記憶がよみがえる。暗闇の中、この教会堂で分かち合った食事と小さな灯りが人の心を支えた。食卓は本来、命の喜びを分かち合う場である。しかしルカによる福音書14章には、食卓に緊張が走る場面が描かれる。安息日、宗教指導者の家で人々はイエスを監視していた。そこに水腫に苦しむ一人の人がいた。癒やせば律法違反とされる状況の中で、イエスは問う。「安息日に病を治すことは許されているか」。だが人々は答えない。しかしイエスは沈黙しなかった。目の前の苦しみに手を伸ばし、その人を癒やした。安息日とは本来、人を縛る日ではなく、神が命を回復させる日である。その原点を、主イエスは行為によって示した。人はしばしば、正しさや立場を理由に一歩引いてしまう。だが信仰とは本来、人を神へ導く橋であると同時に、人と人を結ぶものであるはずだ。にもかかわらず、その橋を守ることに心を奪われ、助けを求める声を聞き逃すことがある。神学者であり医師のアルベルト・シュヴァイツァーは、アフリカで苦しむ命に手を差し伸べ、「生命への畏敬」に半生をかけた。愛とは理屈ではなく、苦しむ者の隣に立つ勇気である。重い皮膚病患者に、沈みかけるペトロに、幼い子の頭上に、夕暮れ時、ご自分のところに来る病人らに両手を伸ばされる主イエス。その手は理屈を超えた赦しに向かって、今もその手に釘跡が残されている。戦禍に奪われている無辜の命。沈黙か、行動か。その問いが今も私たちに向けられている。神の国とは、苦しむ人が見過ごされない場所。小さくとも手を差し伸べるところに、希望の光は確かに宿る。(2026.3.15)

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