『荒れ野にて』:マルコによる福音書1章11−13節

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」(マルコ1:11)聞こえてきた天からの声。その後、イエスは「荒れ野」へと追いやられる。(2)「荒れ野」とは人が生きる事が非常に困難な環境であり、命の保証もなく、寂しく孤独な場所である。イエスは最初から受難の道を歩まれた。獅子は子を崖から落とすと言われるが、イエスは荒れ野へと捨てられるような日々を送られる。われらもまた、あたかも神に捨てられるかのような経験へと導かれる事がある。だが、それはイエスと結ばれ神の子として歩む道なのであり、一時的な鍛錬期である。「主はご自身の神聖にあずからせるという目的で、われらを鍛えられる」という(ヘブライ122-11節参照)。なぜなら「あなたは神の実子」とされているからであり、神に「愛されているから」というのだ。荒れ野の道とは当座は喜ばしく思えぬが、後に大いなる神の愛に気付く時が必ず来る。誰とのつながりもなく切り離され、自らの価値を見出せず、一切の営みが絶たれるかに思える荒れ野にて、イエスもそこに共におられる。そしてイエスのもとでは自分に敵対するような存在、命を脅かす野獣のような存在さえも共生する平和(シャローム)が到来する。(2020.6.14)