『神が共におられる人生』:創世記45章3−8節、創世記50章19−20節

昨年はコロナによってあらゆる予定が変更される日々にあった。抑人生とは予定変更の連続であって必ずしも計画通りには行くとは限らない。創世記に登場するヨセフの生涯を読むと、彼ほど予定が狂わされた人生があるだろうかと思う。平穏無事な生活が一変し、彼の人生の節目の場面ではなぜか、不幸に見える方向へと予定されてしまう。兄弟たちの悪巧みによってエジプトに奴隷として売られ、家族から引き離された異国の地で誠実に働くも、偽証によって牢獄に入れられる。聖書には「神はヨセフと共におられた」(創世記39:2等)とあるが、それなら、どうしてこんな目に遭うのかと叫びたくもなる。だが、物語の帰結は神の救いの出来事として告白される。彼が出遭った不遇の一つひとつが繋げられ、遂にはエジプトの大臣に出世したヨセフが大飢饉から諸国を救い、自分の家族を救う善となったのだ。人間のあらゆる悪意や企ては、最終的にはヨセフを見捨て不幸にさせる予定とはならなかった。慰めようもない辛く悲しい経験が、将来への希望、確かな未来へと神が尽くそれらを救いのために回収されたのだ。ここに神が共におられる人生において具現する道があるように思う。われらは未だ危機と困難の中に置かれている。しかし時に理解できない、納得のいかない出来事、変更を余儀なくされる事を通して、神の救いのみ業が前進して行く事があるのではなかろうか。前途多難に思える状況においても、われらの信じる神は常に善かつ愛のお方である。今年も信頼しすべて委ねて歩もう。(2021.1.3)