『人を穢すもの』:マルコによる福音書7章1−23節

当時の手洗いは、衛生や清浄だけでなく宗教的な「穢(けが)れ」からの清めを意味した。即ち、身の潔白を示し、自分が正しさの側に立つというアピールともなっていたようだ。コロナの時代、常に誰かを悪者にして罰するという社会構図が目立つように思う。連日誰かが槍玉に挙げられ非難轟々。これはダメ、確実にアウト!攻撃する人にとって正義は自分の側にあり、悪は自分の外にある。だが、その自分が悪と見る同質の種が、自分の中に皆無だと果たして言い切れるだろうか。正しさは誰かを悪者にした時点で自分が神の座につき、戦争さえも正当化する。被害をもたらし、人を穢すものは外からや相手からではなく、むしろ加害者性は自分の内にも存在し、歴然と活動している、それに気付かされたのがキリスト者ではないだろうか。われらは主イエスの十字架のもとで己の正体を知り、そこで赦しに出会う。穢れたまま覆われ、恵みの中を生かされている・・。先の5000人の会食では手洗いなどは大した意味をもたなかっただろう。確かに衛生上の課題はあるが、イエスのもとでは差別や分断もなく、誰もが和気藹々と喜びを分かち合う時を共に過ごす神の国の平和の構図が象徴的に浮かぶ・・。彼のもとでは穢れたままで、ありのままで良い。神の前では既に正体を知られているのだから、身の潔白を明かす措置は不要である。だから悔い改めてからおいで、とも言われていない。イエスの招きのもとでは、多様な規制・規則をも凌駕する神の自由な愛が支配している。(2021.2.7)