『イエスによる接待』:マルコによる福音書8章1−10節

昨今、政府高官が某企業から過剰な接待を受けていた?との報道を受け、行政に対する疑念が向けらている。イエスによる接待もある意味で過剰なのかも知れない。何せ少量の元手で数千人が接待され、皆が満腹したというのだから・・。事の次第はこうである。イエスは目の前にいた空腹の群衆を案じておられた。既に3日も食べ物がない状態。誰かが携帯食を持っていたとしても、ここは自分のものを死守したいところである。ところが、その状況で自分の食べ物を差し出した者がいたのであろう。イエスのもとに7つのパンとわずかな魚が集まった。彼はそれを自分のもとに留めず、裂いて分け与えられた。このようにして、自分よりも相手を思いやる行動から奇跡が起こる。その結果、4000人が満腹し、パン50個は入る籠が7つも余ったという・・・。昨年のコロナでは、マスクが店頭から消えた。台風が来ればトイレットペーパーがなくなる。他人の事など念頭から消え、余計に得ようと必死に行動し、われ先にと自分のものを死守しようとするところでは、いつも物資が足りなくなる。それがわれらの世の現実だ。だが、イエスのもとでは自分のものを割き、分け与える構図の中で、不足するのではなく皆が満ち足りて行ったのだ。神の国では与えると、増えるという逆説が実現している。奇跡というのは、時に自分よりも相手の幸せを願う心に起こり得る愛だ。イエスによる接待は、他人の益のために、自分のものを差し出すところに溢れる過剰なまでの恵みを幾度も証ししている。われらもこのお方から愛を受けている。ゆえに、与える生き方へと招かれている。(2021.3.7)