『十字架の道』:マルコによる福音書8章27−38節

メシアを巡っての齟齬。対立するペトロとイエス。原文では互いを「叱る」という動詞が3度も登場する。自分の考えるメシアであってほしいとイエスを叱るペトロ。その思い違いを「後ろに引き下がれ」と厳しく叱るイエス。「叱る」状況は、自らの意思が強烈に、最大限に表明される。そこに妥協や曖昧さはない。それほどまでに人間のエゴは強く、神さえ押しのけて前面に出る事がある。叱られねばならない貪欲、鈍さ、愚かさがある。「ユダヤ人の王」という罪状書きで十字架の道を歩むイエス。人々は愚かだと嘲弄し、「王なら自分を救え」と侮辱する。王なら、自分を救える。配下の者を意のままに、自分を守るためは賢く敵対者を排除し、処罰する権限さえ行使し得る。だが、イエスは自分を救わない。十字架につけられたまま降りない。「他者は救ったが、自分は救えない」メシアなのだ。われらの内にも利己心という王が居座る。イエスを否定するペトロ同様、自己保身に必死になってしまう。イエスは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34) と、自分だけを見つめる生き方に闘いを挑む道へとわれらを招く。その道では自分を救えず、このお方と共に十字架から降りることができない。愚かに見える。だが、そこでこそイエスと共に「自分は救えなかったが、他人は救った」という道に結ばれる。彼の言う「十字架の道」とは、自分の重荷ではなく、他者(隣人)の重荷を背負う道にあるからだ。憎しみや争い、差別や分断。現代人の抱える多くの課題は神を畏れず、自分を世界の中心に据える王として周りを支配しようとする人間の利己心、罪から生じる。そこから救うためにイエスは十字架につけられたまま降りられない。(2021.3.28 受難週)