『子どもを祝福するイエス』: マルコによる福音書10章13−16節

幼いRくん。彼はイエスさまと遊んだ夢を見たと話す。かくれんぼに追いかけっこ。電車ごっこで一緒に連なり庭中を駆けまわって物凄く楽しかった!という。彼はイエスさまと両手をつないだまま見つめ合い、こう尋ねる。「ねぇ、ずっとずうっーと、いつまでも、いつまでも、僕と遊んでくれる?」するとイエスさまは「いいよぉー!」とニッコリ。満面の笑みで答えてくれたのだそうだ・・・。「夢」の中での話である。でも、子どもを祝福されるイエスは、きっとそんな人格の一面をお持ちであろうと私は思う。「大人」として神の国をとらえる弟子たち。大人社会では子どもは時に仕事の邪魔となり、追い出されてしまう場面もある。自分勝手で物事の分別において未完成のままだから、未熟な者には「大人になれ」と嗜める。しかし神の前では「大人である」ことが要求されているのではなく、「子」のままで招かれている。神の国では、自らの偉大さや実力によるのではなく、他者に連れられねばならないような<無力さ>において、即ち神に信頼せずには生きられない関係においてこそ、神の愛と祝福に出会うのだ。イエスはご自分のところに来る者を誰も拒まないお方として今もわれらを招く。それを妨げようとする者への厳しさ、激しい憤りのなかに、イエスのどんな小さな存在でもありのまま受け入れる愛と優しさがあらわれているのではないか。連れて来られた子らを腕に抱き、両手を置いて祝福されるイエス(16)。彼のもとでは期待以上の喜びと祝福に包まれていく。(2021.5.16)