『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に』:マルコによる福音書12章13−17節

皇帝に納税すべきか否かを問われるイエス。どちらを答えても失脚するように仕向けられた策略的質問である。そこで彼はデナリ貨幣を持って来させ「肖像と銘は誰のものか」と聞く。「皇帝のもの」と答える質問者。「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」とまさに神対応。本来帰属すべきところを指し示すこの言葉は、われらの責任を深く問いかけ、あるべき姿を喚起する。社会的義務と宗教的義務は必ずしも別個のものではなく、いずれも神に従う道にある。キリストはローマ帝国の権力と制度のもとで十字架刑に処せられたが、神はその国家権力を通して人類を罪から救う血路とされた。「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」神の支配のもとにあるのだ。コロナは変異株に置き換わり、爆発的猛威が世界に蔓延している。地とそこに満ちるものは神のもの(詩編24:1)とある。だとすれば、コロナも神の支配下にある。われらは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のためである(ローマ14:8)コロナもわれらも、元来は神に帰属する。恐れは、安心であれ安全であれすべてを自分の手中に納めようとする過程にある。すべては自分のものではく、神のものと捉えるならば、たとえそこに危機はあってもただ粛々と日々なすべき務めを誠実に果たそうという姿に本来の生き方を見出すのではないだろうか。われらはこの命を、この時代に創造主から預かっている。神に栄光を帰するために。(2021.8.22)