桜がほころび、春の訪れが感じられる季節となった。冬の間、枯れたように見えた木々が再び芽吹く姿は、命の不思議を静かに語りかけてくる。キリスト教において、この「春」に重ねられる出来事がある。主イエス・キリストの復活である。イエスは十字架で死に、墓に葬られた。すべてが終わったかに見えた。しかし三日目、墓は空であり、弟子たちは復活した主と出会った。使徒パウロも復活の主に出会った一人である。彼は、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」と復活の希望を語る。パウロが死を「眠り」と呼ぶのは、再び目覚めるという希望を前提としているからであろう。人生には冬のような時がある。失意や悲しみの中で、すべてが閉ざされたように感じる。しかし、冬は終わりではなく、春の到来があるように、命を与える神は、イエスと共に再び起き上がらせてくださるのだ。イエスが「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11:25)と語られた言葉は、その確かな約束である。ゆえにわれらに求められているのは完璧な生き方ではない。主と共に歩む道である。われらの人生というものは、主と共に始まり、主と共に生き、主と共に仕上がっていくのである。復活の希望とは、単なる未来の約束ではない。今、この地上の歩みを支える確かな力である。われらは、いつまでも主が共にいる、というこの希望に生かされて、今日を歩むのである。(2026.4.5(日)イースター)
