私たちの社会は、贈与と返礼によって成り立っている。受けたら返す、その均衡が関係を保つ知恵である。一方、そこには「返さねばならない」という見えない圧力も潜む。ゆえに、与えられることが時に負担となる。主イエスが語られた宴会の譬えは、この常識を覆す。盛大な宴に招かれた人々は、もっともらしい理由を並べて次々と辞退する。しかしその理由は実のところ不自然で、招きに対する明らかな拒否、侮辱であった。主人は当然怒る。だがその怒りは報復には向かわない。代わりに、貧しい人や障がいを負う人々、社会の外に置かれていた人々を招き入れるのである。ここに示されるのは、交換ではなく恩寵の論理だ。見返りを前提とする愛はやがて取引となる。しかし神の愛は回収不能なほど大きく、ゆえに無償である。この譬えは、神の国の本質を語る。そこでは資格も対価も問われない。ただ招きを受け取ることが求められる。返せない者こそが、恵みを恵みとして受け取ることができるからである。侮辱されてもなお招きを広げる主人の姿は、神の愛のかたちそのものだ。報復ではなく、恵みへ。排除ではなく、包摂へ。見返りを求めない愛は、境界を越えて広がり続ける。問われているのは一つである。この無償の招きを、私たちは受け取るだろうか。(2026.4.12)
