ご自分の後についてくる群衆に対し、イエスは振り向き、「弟子の条件」を語る。家族や自分よりも神を第一とする優先順位を問うている。当時の家族は人生の中心であった。その家族や自分さえ相対化させる彼の言葉は、帰属の転換を迫るものである。さらに「十字架を負え」とあるが、これは本来「絞殺柱」を意味する処刑道具である。死刑囚は自己決定権を喪失する。すなわち、自分が人生の主であるという前提を手放すことが求められるのだ。続いて彼は、二つの譬えを語られる。塔を建てようとする人と、戦いに出る王の譬えだ。いずれにも共通するのは、「まず座って計算する」という点である。ここに至って人は気づく。この条件は自分の力では満たせない、と。ゆえにこの言葉は、努力の要求ではなく、むしろ降参への招きではないだろうか。弟子とは、条件を満たした強い者ではない。自らの限界を知りつつ、なお招きに応える者である。自分の力では従えないと知るとき、人はそこから恵みに開かれ、神に属する者とされる。イエスの弟子たちもまた、自力で従い通すことはできなかった。主を見捨てた恥と敗北を経て、彼らは聖霊に属する者として新しくされていったのである。私の命も、持てるものもすべて神のものである。キリストに属する者であるという告白――それこそが、「すべてを捨てる」という言葉の意味ではないだろうか。そこには、恵みから恵みへ、栄光から栄光へと、キリストに似た者へと造り変えられていく道がある。主イエスは、弟子として条件に適う者を選別するために語られたのではない。「イエスよ、あなたは私の主です」――その告白へと、私たちを招いておられるのである。(2026.4.19)
