有名な「放蕩息子のたとえ」には、2人の息子が登場する。弟息子は存命の父に向かって遺産を要求し、遠く離れて財産を浪費してしまう。ついに人生のどん底に落ちた弟息子。彼は罪を悔いて帰宅するが、父は遠くから彼を見つけて走り寄り、弟息子を責めずに抱擁するのであった。そればかりかすぐに身分を回復させ、宴会を開いて喜ぶのである。一方、家に留まって父に仕えていた兄息子は、帰ってきた弟を歓迎する父に対して不満と怒りを抱く。兄息子もまた、父の心から遠く離れ、自己の正しさと義務感に縛られた放蕩者の一面がある。だが父親は、自分の正しさや面子よりも、外にいた兄息子のところに出向いて彼に「懇願」するのである。その後どうなったかの結末は語られない。ただ浮かび上がるのは、二人の息子のために惜しみなく愛を注ぐ父親だ。この譬えの二人の息子は人間の比喩で、父親は神自身をあらわす。弟のような自堕落な人間にも、兄のような義務感で心が冷え切った人間にも、神はご自身の財産や命さえも惜しみなく使い尽くされる。「放蕩」とは、聖書の原語では「救いようのない(アソートース)」という状態。その視点に立つと、真の放蕩者は誰なのか?独り息子を与えるほど惜しみなく世を愛される神(ヨハネ3:16)。十字架の上でその命を使い果たした主イエス。善人にも悪人にも、物惜しみせず過剰なまでに浪費するかのような姿は、最大の放蕩者ではないか。神はわれらに惜しみなく愛を注ぎ、たとえ無駄とも思えても、信じて待っておられる。この無条件かつ無限の愛があるからこそ、救いようもない者が救われていくのではないか。
