最高級の衣をまとい、毎日贅沢(ランプの語源)な宴にふける名もなき金持ち。その輝きの影で、できものに覆われ飢えに苦しむ貧者ラザロ。主イエスのたとえ話に登場する二人は死後、ラザロは慰めの場へと向かい、金持ちは陰府において苦しむ。驚くのは、そこでもなお和解の言葉も悔い改めもなく、「ラザロをよこしてくれ」と、自分の使用人のように利用しようとする点だ。人間の自己中心性はそれほどに頑なであり、彼が生前に築いた無関心の淵は、もはや越えられない「大きな淵」となっている。一方、たとえ話の中で唯一、名前が与えられているラザロ。地上で名を馳せたに違いないこの金持ちが無名なのに対して、神の前では「ラザロ」の名が深く覚えられ、特別な関心が示されている。ラザロは終始、口を開かない。それは、十字架のキリストの沈黙へと重なり、自分を正しく裁く方への信頼とも読める。ラザロは自分の運命に対する呪いも復讐も口にしない。さらに金持ちの苦しみに対して歓喜の言葉も発することなく、ただ慰めの中に抱かれている。地上では報われなかったかに見えるその彼の「生」。しかし、神の目にはラザロこそ輝いている。この物語の本質は単なる死後の話ではなく、与えられた命への応答、その質を鋭く問いかける。生前の態度はのちに変えられる保証はどこにもない。「今」、自分は何に信頼して生きるかが問われている。富か神か・・・。2026.6.14
