『イエスの顔も七度まで?』:ルカによる福音書17章1-10節

「仏の顔も三度まで」という諺は、どれほど穏やかな人でも度重なる無礼には限界があることを示す。人間関係の現実をよく表した言葉である。われらも日々の中で傷つけられ、怒り、赦せない思いを抱えることが少なくない。だが主イエスは、その常識を超えて語る。「もし相手が悔い改めるなら、一日に七回罪を犯しても赦しなさい」と。七回とは回数ではない。何度でも赦せという徹底した招きである。弟子たちは「わたしたちの信仰を増してください」と願った。しかし主イエスは、必要なのは大きな信仰ではなく「からし種一粒ほどの信仰」だと語られた。そして命じられた務めを果たしたなら、「しなければならないことをしただけ」と言いなさいと教える。和解と赦しは特別な英雄の業ではなく、人としての務めだという逆説的な励ましである。主イエスは十字架の上で、自らを苦しめる者のために「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた。この愛と赦しの御顔を仰ぐところにこそ、まことの平和がある。赦しとは罪を軽く見ることではなく、不条理を受け止めつつも憎しみに支配されない自由を選ぶことだ。アブラエーシュ博士は娘を失いながら「私は憎まない」と語り、キング牧師も「憎悪を追い払うのは愛だけだ」と説いた。報復は報復を生むが、赦しはその連鎖を断ち切る。分断の深まる時代、主が蒔かれた赦しの「からし種」を心に守り続けたい。(2026.6.28)