『いのちへの姿勢』マルコによる福音書3章1−6節

敗戦75周年8月6日広島原爆の日、広島で被爆した当時70代の男性と女性の2人と、ほぼ同年代で米国の原爆開発者との対談がニュースで放映された(15年前の収録)。当時、この科学者は広島で巨大なキノコ雲を上空から撮影。「あなたはキノコ雲の下、市民が地獄絵さながら泣き叫び、皆、右往左往している姿を想像されましたか?」と問う被爆者。「わたしは謝罪するつもりはない」と何度も首を横に振る科学者。彼は、彼なりの正義を語る。「アメリカでは『真珠湾を忘れるな』と言う言葉がある。非難するなら日本軍だ。」目から涙をため、口をハンカチで抑えながらこらえる女性被爆者。互いの心に言いようもないわだかまりを残したまま対話は終了。戦争の罪深さ、根深さを感じさせるものであった。▼いのちが悲しむ時には一緒に涙を流し、いのちの喜びの席では祝宴のように共に喜ばれる。そしていのちが蔑ろにされる時には、怒りさえあらわされる・・・。正にいのちと共に生きる姿、ここに主イエスのいのちへの姿勢がある。主イエスはいのちを救うためにご自身のいのちをささげ、人間の心の頑なさ、罪のゆえに、殺される者となられた。広島・長崎の雲の下、「水をください!」と叫ぶ原爆被害者のように、主イエスは暗闇の下、十字架で壮絶な「渇き」を覚えつつ死なれた。主は人類の最も悲痛な叫びの側に立たれたのだ。自分の過ちを認めることができず、自らの正当性を主張して譲らない頑なな心。誰かを責めても答えはない。自分自身の事で心が満ちる限り安息や平和は訪れない。安息日に神が望んでおられるのは、復活の主で心を満たす事だ。いのちの尊さ、いのちへの祝福は、平和を与える安息日の主イエスから到来する。  (2020.8.9「平和礼拝」)