2021年度主題「主イエスによって示された神の愛」

「夜は近きにあり。過ぎ去ったものにはありがとう。来らんとするものにはよし」国連の第2代事務総長ダグ・ハマーショルド氏の日記に綴られた言葉である。近年再び注目を集めている彼は、敬虔なキリスト教徒であり祈りの人であった。在任中(1953-61)は戦争回避に尽力し、アフリカ諸国の独立と発展、平和維持に多大な貢献をしつつもその途上で飛行機事故により召された。事故の真相は今もベールに包まれている。ノーベル平和賞が贈られたのは彼の死後であった・・・。苦悩の日々にあっても感謝を綴り、来るべき試錬や危機すらも肯定し得る生き方。機内での所持品は「キリストにならいて」というタイトルの書籍だったという。主イエスは待ち受けている受難を前に祈り、来らんとするものによし、と神の御心を受け止め立ち上がって進まれた。そこにわれらの救いの道が備えられた。年度末最後の礼拝日。過ぎ去った出来事のすべてに「ありがとう」とは言い難いかもしれない。「感謝のいけにえ」(詩編107:22)とあるが、感謝を一粒の麦としてささげる姿勢は、多くの喜びと平和を収穫する恵みとして回収される将来を切り開く。国難に遭ったイスラエルの民は、悲惨な運命に翻弄されながら善き事に思えない苦難の過去を、自らにとって<善き事として>受け止めた(詩編119:71参照)。幸いも不幸と思える出来事もすべて無駄とせずに価値ある意義を見出し、成熟への糧を頂いたのだと<感謝な事として>受け止めてみる。万事を益とされる神の御心に望みを抱きつつ、来らんとする新年度も<よし>として迎えよう。(2022/3/27)

ウクライナでの戦争、頻発する地震。生活や命が脅かされるようなショックな出来事が相次ぐと、思考も行動範囲も思わず萎縮してしまう。だが神の言葉は、われらの思いと異なる側に導く。望みなき荒廃した大地に、居場所を広く確保するようにとの招き(イザヤ54:2-3)。イザヤ書40章以降、敗戦の悲劇を経験した民への慰めと共に神の救いの希望が語られていく。かつてキング牧師は「すべての進歩は不安定であり、一つの問題を解決しても、我々はまた他の問題に直面することになる」と語った。われらの生きる場所は、どの道に歩もうと安定を欠くのである。黒人差別と憎悪の矛先となって生きる場所を奪われる時代に彼は、憎悪は憎悪を増すだけだと、人間の思いとは真逆にある「敵を愛せ」という神の言葉を説いた。確かに彼は愛を語りながら銃弾に倒れた。だが、今の時代にあっても彼の言葉や夢、希望がわれらの心とらえるのはなぜだろうか。暗黒は暗黒を駆逐する事はできず、ただ光だけができる。ただ神の言葉だけが行き詰まりを駆逐する確かな希望なのだ。神の言葉は決して無に帰されず、神の言葉は現実化する。3/16宮城県は震度6強の地震に見舞われた。教会事務所の棚から1966年定礎式の際に参加者が書き綴ったカードがこぼれ落ちていた。新会堂建築の際に掘り出されたタイムカプセルに入れられていたものである。小さな伝道所として現実は厳しく、環境も最適ではない。にもかかわらず宣教の広がりを望み、新しい希望を託してささげられた祈りの言葉。56年前の色褪せ劣化した紙切れだが、その希望は今、現実となっており、闇夜に光る月のように神の言葉の確かさを照らす宝物となっている。神に栄光あれ。(2022/3/20)

首都キーフ(キエフ)では戦闘が激化。無差別砲撃によって学校や病院、避難ルートまで攻撃が繰り返されている。世界から孤立し無謀な戦争に突き進む姿は、第二次世界大戦の日本と共通するとの指摘もある。対話も制裁も通じないのなら武力によるしかないと、戦争をはじめた人物への怒りと憎しみは、独裁者を排除する方向に加速する。しかし、われらは神の言葉を聞かねばならない。「剣を鞘に納めよ。武器を取るものは武器で滅びる」と。いかなる大義名分があろうとも「殺し」が正当化されてはならない。プーチンと同じく東ドイツにいたメルケル元首相は彼とは真逆の指導者であった。民主主義を守り、多くの難民を受け入れる決断をし、原発からの撤退へと舵を切った。彼女の行動基盤は「わたしの信仰:キリスト者として行動する」(新教出版2018)の中で明らかにしており、社会における教会の役割を重要視する。教会は神の言葉、主イエスの教えを語る。それは時にわれらの思考の反対側へ導く。聖書はわれらが恐れる時、「恐れるな」と語り、「大きな喜び」を宣言される。預言者イザヤは、「剣」や「槍」という武器や抑止力が、「鎌」や「鋤」という戦いと真逆の農具に変えられる平和の幻を見る。教会は神の言葉、主の教えへと生の方向転換を示される。神の言葉は、戦争の反対を歩む生き方へとわれらを招くの だ。(2022/3/13)

創世記1章は、亡国の悲劇に絶望したユダヤの民に対する慰めと励ましのメッセージとして読まれた。「混沌」と訳された言葉は、都が瓦礫と化し、大地が荒廃する極めて現実的な悲惨さを表すと言われる。自分たちの暮らしが「形なく、虚しく」なった人々。無意味さと虚しさが生きる気力、喜びを奪い、深い闇の渦へと希望を呑み込んでいく。しかし、神は言われる。「光あれ」。こうして「光」が生じ、混沌から秩序がもたらされ、神の創造のわざがすべての命を育んでいった(1章)。それが苦難を経験した民に届く唯一の希望となったのだ。神の言葉には圧倒的な力と権威がある。神が言われると必ずその通りの出来事が生(な)る。東日本大震災から11年。原子力緊急事態宣言は未だに解除されていない。コロナ感染症は事態を深刻化させ、戦争はわれらを更なる暗闇に巻き込もうと希望を一層虚しくする。しかし、そこにも神の「光あれ」との言葉は響きわたる。混沌の地、暗闇の支配する深淵にあっても届く圧倒的な命の光、その光に照らされる時、われらには生きる望みが与えられる。「光あれ」とは、神の力強い命への肯定である。見える現実がどうであれ、神の言葉だけが唯一、確かな希望なのである。(2022.3.6))

カーリングで使用するストーンは重さ約20kg、価格は一個10万円位。重く頑丈な素材は「墓石」にも使用されるそうだ。日曜日、主イエスが葬られた墓の入り口を塞いだはずの大きな墓石は、脇へ転がされていたという。中に入ると遺体はなく、白く長い衣を来た若者が「あの方は復活された」と告げる。居合わせた女性たちは震えと自失にとらえられその場から逃げ出す。そして「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)と結ばれる。これがマルコによる福音書の本来の「結び」と言われる。だとするならば、マルコは人間の理性でとらえきれない出来事を弁明しようとしたり、脚色や美化することもなく、ただ空の墓に接した人間の反応をありのまま簡潔に記すことによって、そこに人知を超えた想像を絶する事柄を見ようとしているのかも知れない。だがここに本来の力強さとインパクトがある。そしてこの福音書は読者をガリラヤへと導く。「あの方は、あなたがたを先立ち導いて、ガリラヤへと行く。そこでお目にかかれる」(7節)。「このお方は何者か?」を巡って、われらはガリラヤでの活動(1:1)から、十字架での死に至る(15:39)道筋を辿ることで、真の信仰告白へと導かれる。主イエスは墓にはおられない、復活して今も共にあると。(2022.2.20)

アリマタヤのヨセフという議員は失職を覚悟の上で処刑された主イエスの身元引受人となる。さらに私財を投じてご遺体を丁重に葬るのであった。ガリラヤから主イエスについてきた女性たちは、他の弟子たちが主を見捨てて皆逃げ去る中、最後まで付き従おうと離れない。いずれも死者となった主イエスに対する誠意と真心が伝わってくる。彼女らは「墓」を見つめることしかできずにいた・・。「墓」は命の終焉という現実そのものである。人は使命を果たそうが志半ばで命を失おうとやがて死んで墓へと向かう。福音書は主イエスが墓に納められる「葬り」のプロセスを省かない。後世の教会にとっても主イエスが復活される前に「葬られた」という出来事に関心を示したようである。2世紀後半には成立していた「使徒信条」という信仰告白文には、主イエスが「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちからよみがえり・・」とある。旧約聖書でも死者は「陰府」に行くと考えられた(詩編6:6他)。死ぬ必要のないお方が死者となられた事によって主イエスはすべての人間と連帯された。彼が墓に葬られた事により、先回りしてわれらを支え迎える者となられたのだ。主イエス・キリストと共に生きる者を復活の希望へと導くために・・・。(2022.2.13)

寛容さを失った人間の自己中心的な行為によって連日のように誰かが傷付けられ、痛ましい殺傷事件があとを絶たない。コロナ危機による影響が関連しているのか断定はできないものの、われらが日頃抱いてしまうような過少のいらだちや不満、状況によっては憎しみが想像以上に過激に、突発的に、自ら制御できないほど強いウイルスのような伝染力となっているように思う。解決を迫られている多くの課題は、神を畏れず自分を世界の中心に据えて身勝手に生きようとする人間の罪によって引き起こされているものである限り、それらは政治・経済的手段や人間の英知や努力によって解消されるような次元ではない。キリスト教の贖罪的な視点から言うならば、人間の罪が主イエスを十字架につけているのであり、主イエスはご自分を救わず、われらの罪を自ら十字架で担われ、血を流されたのである。このお方は、罪あるままのわれらを受け入れるしるしとして十字架から降りずに神の愛を示す。主イエスが十字架で被っているのは人間の罪、その人間の一人としてこの私が含まれているという認識。それは同時にこの私を愛し、私を罪から救うお方だという認識に至る。この愛によってわれらは寛容さを取り戻す生き方に招かれ、互いに愛し合う平和へと遣わされる。(2022.1.30)

「#十字架につけろ」と炎上する群衆。当時のインフルエンサー、祭司長たちの扇動による趨勢は代官ピラトの判断を引き潮のように呑み込んでゆく。いったいどんな悪事を働いたというのか?ピラトは死刑に価する罪をイエスに見出せないにもかかわらず群衆に迎合してしまう。昔も今も大衆の支持する動向は時に無責任となり、真理よりも関係性やトレンドが優先され得る。その時、集団や全体主義は「個人」に対して無慈悲な傾向へと加速する。「わたし」という個人の幸福度を高める要素は、世の中の動向や周囲の評価からは得られない・・。めまぐるしく変わりゆく世にあって、常に変わる事なくわれらを幸福へと招くものは何か?バラバという罪に問われている者が赦され自由の身となり、イエスという罪なき者が罪に定められた。無言のまま縛られている主イエスの姿が今もわれらに問いかける。なぜ彼が十字架に引き渡されねばならないのか?それを他ならぬ自分自身に問い、主イエスの十字架を「わたし」と結びつける事を通して神は、われら一人ひとりを愛と救いに導かれる。わが身の幸はみな、主イエス・キリストにあるという真理を知るために。(2022.1.23(日))

「本性」は人間の窮地にあって不意にその素顔を覗かせる。当時の宗教家たちはイエスによって偽善を見抜かれ、権威や地位の失墜という窮地にあった。彼らの「本性」は神のためでも正しさに生きる事でもなく、自分たちの利害が侵害される事に対する敵意にあらわれた。イエスを排除しようと不当な裁判にかけ罪に定めようとしたのである。焚火にあたり行方を伺う弟子のペトロ。数時間前までイエスと共に死をも覚悟していたのだが、いざ自ら窮地に立つと保身に歯止めが効かなくなる。エスカレートする虚偽は隠れた「本性」を照らした・・・。自らを死刑にするための偽証が飛び交う中、終始黙し続ける主イエスが唯一口を開く場面がある。「お前は神の子である救い主なのか?」という問いに対してだ。この「本性」を知り得る決定的な問いに答える事によって、主イエスは有罪とされ十字架刑へと向かう事になる。福音書は人間の「本性」を明らかにしつつ肯定も否定もしない。ただ、罵られ唾をかけられても仕返しせず、裏切られても恨まず赦し、苦しめられても脅さず、人間の「本性」の餌食にされるかのように身を委ねられた主イエスをキリストとして指し示す。彼の罪のない「本性」によって人間を救いへと招く。主イエスは救い主として、その十字架の死によって人間の「本性」をありのまま担われた。彼の打たれた傷によってわれらが癒されるために。(2022.1.16)

いやおうなく襲いかかる病や苦難の日々にあっても「われらは落胆しない(生きる意欲を失わない)」とパウロは言う。彼は死の宣告を受けたような失意の中で、自分を頼みとするのではなく、イエスを復活させた神に寄り頼む信仰へと導かれた(Ⅱコリ1:8-9)。パウロは衰える気力や身体とは対照的に、日々新しくされていくという「内なる人」に目を向ける。それは主と共に死に、主と共に復活する主イエスと一体となったいのちであり、古きものが過ぎ去り一切が新しくされていくという希望である(Ⅱコリ5:7)。現実を取り巻く艱難は容赦なく望みを奪う。だがそこに望みが与えられるなら、それは自分にとって「新しい」ものである。われらが日々新たにされるのは、聖霊によって神の愛がわれらの内に注がれているからだ。希望はわれらを欺かない。この主にある希望は、やがて来たるべき栄光と比較するならば今受けている耐え難い艱難でさえ「一時的で軽い」という認識として到来する。生きる意欲を喪失し、痛みと悲しみに打ちひしがれ、絶望の深淵に佇む日にさえ一切が恵みとして回収される時が必ず来る。そう信じる道にわれらは招かれている。(2022.1.9)

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