『赦されない罪とは?』マルコによる福音書3章20−30節

「絶対にゆるさん(3)、2、1・・ゆるす」流星というコンビ芸人のネタには苦笑してしまう。「ゆるせる事、ゆるせない事」それは人によって異なる。最近人気のドラマのように「やられたらやり返す、倍返しだ」と言わんばかりに「絶対にゆるせん、二千、三千・・と憎しみが増大し、対立や絶縁をもたらす例もあろう。聖書で「罪のゆるし」を指す場合、一般に創造主なる神と人間という<対神関係>を意味する。十字の線でいうなら、縦の線(神と人との関係)と横の線(人間関係)、それぞれ方向性がある。漢字は「許し(許可)」よりも「赦し(恩赦)」の字が当てられる。神の子イエス・キリストによる出来事、その福音宣教は神の人間に対する「赦しの宣言」である。主イエスは、「人の子らが犯すどんな罪(複数)も(神から)赦される」と言う。しかしその後、「聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、その罪(単数)の責めを負う」(30節)と語り、「赦されない罪(罪)の存在を示された。その罪とは具体的に何なのか、われらは判断できない。人間同士の「ゆるし」の基準は差異が生じる。だが、聖霊なる神の働きとして唯一、神から「赦し」の道が示されている。その働きを否定し、メシアなるイエスを拒否する事は、神からの赦しと救いを拒む事に繋がるのだ。(2020.9.6)