2024年度主題「神の望まれる道へ」

「幸いだ。神の言葉が実現すると信じた人は」(ルカ1:55)とマリアを祝福するエリザベト。一方、夫である祭司ザカリアは、神の言葉が信じられない状況において、信じざるを得ない状況に置かれる。即ち、「口が利けなくなる」(ルカ1:20)という神の言葉が自分の身に実現したのだ。以来彼は、神の言葉の実現の時まで沈黙の中を過ごした。それは自分の人生を意のままに生きるのではなく、静まって神にすべて委ねる生き方、神の言葉にのみ心を向け、神を賛美する姿勢を整えた。家父長社会という聖書の時代、ルカ福音書では立場が逆転して男性が鳴りを顰め、女性たちの信仰や活躍に焦点があてられている。男性が沈黙させられ、社会的に沈黙させられていた女性たちが口を開いてよい言葉を交わし合い、神への賛美をささげている。神の言葉の通り、男児を出産したエリザベト。命名にあたっては父親が決定権を持つ伝統の中、女性であり母親となったエリザベトが「ヨハネ」と名付ける意思が表明される。女性の意見が通ることのない時代において、男性が女性の意見に賛同するという、これまでの伝統が崩されている。しかしその瞬間、ザカリヤは口が利けるようになり、神を賛美しはじめるのだ。本書では男性社会の伝統に対し、差別の中に苦しむ「はしため(奴隷)」のような人々の解放が告げられる。大きく歴史が動く転換期に、普段は表に出ない、むしろ社会的には見下されている人々を登場させ、偉大な神の働きのために必要不可欠な人物とされる物語を伝える。この世に平和をもたらすのは世の権力者とは限らない。小さな存在が、神への賛美が、世界を変えていくのだ。(2024.5.12)

ルカ福音書は多くの賛美を生み出した書である。バッハやヘンデルをはじめ多くの著名な作曲家たちによって礼拝で用いられてきた。「マグニフィカート」と呼ばれるこの賛歌は、本書に登場する最初の詩である。この詩はヘブライ的な詩の形式で構成されており、従来ならば自分を苦しめてきた敵や権力者に対する神の裁きや敵の滅亡などの「報復」を願う言葉が続くところである(サム上2:1-10,詩編等)。しかしそのパターンが崩されて「報復」ではなく、神の救いと憐れみが終始宣言されている。その意味で「革命的賛歌」である。この賛歌は抑圧からの解放、平和を希求する賛美として歌い継がれてきたのだ。聖書はわれらを賛美と喜びに招く。賛美には力があり、賛美は人生に革命をもたらしていく。賛美は自ら断ち切ることのできない憎悪の連鎖、負の雲霧を一掃させる爽やかな風となって、救いの喜びと感謝に取り囲まれる日々を整えていく。それはわれらの力ではなく、神の偉大な恵みの力がわれらの中に解放されるからだ。Iさんは、今では信じ難いが、かつて彼女には「笑顔」がなかったというのだ。けれども24年前、創造主である神の招きをご自分のこととして受け止めた時から、革命が起こったかのように神の恵みに気付く喜びの人生を歩み始められた。今もオルガン奏楽や生花を通して神を賛美し、喜びをもって教会に仕え、笑顔で皆さまを励ましておられる。(2024.5.5)

グノーやシューベルトの作曲でも知られる「アヴェ・マリア」。冒頭部分はルカ福音書にあって天使祝詞と呼ばれ、カトリック教会では毎日唱えられる祈祷文になっている。聖霊によって救い主を宿し、聖母(マドンナ)とされたマリア。プロテスタントでは聖母マリアにささげる祈りはないが、マリアのささげた祈りや信仰が聖書から分かち合われる。天使からの受胎告知第一声は「喜ぶ」という意味の動詞で二人称命令形。「喜びあれ」と相手の「幸い」を願う挨拶だ。しかしマリアを待ち受けているのは「喜び」に程遠い未来である。 誰も理解し得ない妊娠。家畜小屋での出産。異国の地での逃亡生活。貧しい暮らし。最大の試練は息子の十字架上での酷い死を看取るという母親として耐えられない経験だ。けれどもその苦しみは、世界中の人々に救いの喜びをもたらす産みの苦しみとして多くの人を生かす道に繋がっている。天使はマリアに「喜びあれ」と告げる。それは苦しみがなくなる事ではなく、その苦しみが救い主イエスと共に献身犠牲の愛となって世代を超えた人々を救い、全世界に尽きない喜びをもたらす恵みを開くからなのだろう。5/3は憲法記念日。平和憲法成立に貢献した鈴木義男(法学者・政治家)は晩年「私はキリスト教の精神を子どもの時から身につけてきたために大分損をしたよ」と、笑顔で「嬉しそう」に語ったという。真の喜びは献身犠牲の精神にある。(2024.4.28)

ルカの福音書の著者は、すぐにイエス・キリストを登場させるのではなく、全世界にもたらされる救いを告げる序章を丁寧に記す。最初に登場する老夫婦のエピソードは、「大いなる喜び」に向かって徐々にライトアップされていく灯りのように、時折「喜び」の予感を抱かせながら読者を尽きる事のない「歓喜」へと導く。ザカリヤとエリザベトという夫婦は、神に忘れられたかのように長年祈っていた切実な願いが叶わぬまま、老年になっていた。その老夫婦に「喜び」が訪れる。とはいえ、長らく恥を受け、辛い思いをしてきた者にとって「喜び」はすぐに受け入れられるものではなく、時間を要する出来事となった。しかし、神の言葉は人間の都合によらず、状況によらず、人間の思惑や企てを超えて着々と実現に向かって進んでいく。この老夫婦に起こった出来事は、長年の祈りが聞き入れられただけではなく、この夫婦の生涯というスパンを遥かに超えて、神の遠大な全人類の救いの計画が実現する橋渡しとなった。かつて預言され、約束された救いが実現する過程において旧約と新約をつなぐ架け橋となり、ユダヤから全世界を包む救いの道を開く備えをもたらす事になるのである。われらの祈りや願いは神に届き、既に聞き入れられている。「歓喜」まで長い時を要するのは、神がそれだけ大きなスケールで偉大な救いと喜びのご計画を用意しておられるからに違いない。(2024.4.21)

今年度は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサ5:16-18)との御言葉が年間聖句に掲げられた。この手紙を記した使徒パウロは、多くの困難、迫害、病いの中にありながら全世界に福音を伝え歩いた。牢獄の中に囚われても「喜び」に生きて各諸教会を励まし、神の望まれる道を示した。そのパウロの伝道旅行中は、「ルカ」という人物が同行しており、協力者として彼の活動を支援したようだ。その人物がルカ福音書の記者でないかとの説が有力である。ルカ福音書は、他の福音書に比べて「喜び」「喜ぶ」「共に喜ぶ」という用例が多く使用されている。また、同じキリストでも「祈る」姿が伝えられている。われらは災いや悲しみ、不幸に招かれているのではなく、「喜び」に招かれている。どのような時にも神との対話、「祈り」に導かれている。星雲は何億という星の集合体でありつつ、中心点をもっている。われらは救い主イエスという中心点に向かって、一際輝く「喜び」「祈り」感謝」という星、その光に照らされながら、ルカ福音書の御言葉を通して喜びを発見し、万事を「感謝」として受け止めることができる道を共に歩んでいきたい。(2024.4.14)

この世にはだれ一人として自らの意志で生まれた者はいない。「いのち」は、創造主である神の意志によって授けられるものだ。このお方を無視した人生からは、永続する喜びは決して得られず、虚しいだけである。創造主なる神の望まれる道を歩んでこそ、本来の「いのち」が輝く。各々の「いのち」には神のプランがあり、それは災いではなく将来と希望を与える神の約束である(エレミヤ29:11)。われらの歩む道は何時如何なることが起こるか知り得ないが、神は御心のまま一切の出来事を無駄にせず、益としてくださる。創造主が「いのち」を授けたからには、たとえ老いて無力になっても見放されず、神が共にいて背負い、責任をもって救い出される(イザヤ46:4)。神が望まれる道では、振り返るとそこには恵みが後を追ってくる(詩編23:6)。その道の先には、揺るぎない希望がある。われらが今、立っている道はイエス・キリストであり、主イエスが共に歩んでおられる道である。このお方にあってわれらは常に喜び、祈り、感謝の道へと招かれるのだ。(2024.4.7)