『聞く耳のある者』マルコによる福音書4章21−25節

「謎なぞ」。3人が各種のパンを食べていた。一人は「あんパン」もう一人は「クロワッサン」3人目は「食パン」それぞれ声をかけたら「一人だけ」が返事。どのパンを食べていた人か?答えは「食パン」。理由は食パンには「耳」があるから・・・。食パンの端(外皮)を耳と呼ぶのは日本特有である。一説には人の耳は顔の端についているので物の端っこにあるものを「耳」にたとえているという。ユダヤでは人の顔に口は一つで耳が二つあるのは、「話す二倍は聞きなさい」と神が教えておられると解釈。口よりも耳が上に位置するのも、「聞く」事の方が価値が高いのだという。主イエスは繰り返し「聞く耳のある者は、聞くがよい」と人々に問いかける。生ける神の言葉、闇を照らす「ともし火」として来られた主イエス。「ともし火」は、太陽のように眩しく直視できないものではなく、よく見つめる事のできる光である。主イエスとその言葉に聞こうとする者は、どんな暗闇の中を歩いていても足元が灯され、安らぎを見出す。彼の言葉は、包装紙で丁寧に包まれた贈答品のようにわれらのうちに届く。中身は隠されているが、みずから開けようと紐解けば神の恵みの絶大な価値、宝を見出すのだ。人は往々にして聞きたい事だけを聞き、知りたいと願わない情報は素通りする。みずから神の言葉を知ろうと求める者は、聞く耳を持つ者である。十字架という燭台の上に置かれた「ともし火」。偉大な恵みがここに隠されている。注視して歩むもう。ここから神の愛が明らかにされる。(2020.10.4)