クリスマス前、サンタクロースに何をお願いしたの?と当時2歳の息子に尋ねた。彼は「バナナ!」と即答。当日の枕元には一房10数本の大きな現物が!彼は早速パクパクと嬉しそうにバナナを頬張った。翌年、同じ質問に彼は願う。「バナナ!と、飴」少し欲が出たか・・。祝宴の席で「欲しい者があれば、何でも言いなさい。お前にやろう!」と娘の願いを聞く領主ヘロデ。この娘が口を開いて、「バナナ!」と言ってくれたら、どんなに良かったか・・。残酷にも「ヨハネの首を」と、親の言いなりになって、邪魔な存在を排除しようとする母ヘロディアの願いを躊躇なく求める娘。自らの意のまま何でも願いを叶えてやれるという、自分の権力を会衆の前で見せつけようと力を誇示するヘロデの願望。「願い」がすべて叶うというのはこの記事では恐ろしい世界である。純真な子どもを巻き込むだけではなく、正しく尊い命が罪の餌食にされる残酷な悲劇となった。この出来事を機に、イエスはいよいよ十字架という苦難の道を進まれる。彼にも願いがあった。「この杯を取り去ってほしい」と。しかし、その願いは退けられる。イエスの願いが絶たれる事によって、われらの救いが実現したのだ。罪から来る願いと欲望は時に悍ましい悲惨な結果をもたらす事があるが、罪からの救いを信じる者にとっての願いは、他者への愛と救い、平和と命をもたらす希望となっていく。われらは主イエスによってこの祝宴に招かれている。「わたしは願おう、あなたに幸いがあるように」詩編122:9(2021.1.17)