『東日本大震災から10年を数える礼拝』:イザヤ書49章14−16節

東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所の事故から10年。われらには二つの時間感覚がある。これまで必死に生き、募った10年。そして2時46分を指したまま止まった時。忘れたい、忘れてはいけない、相反する葛藤の中でわれらはどこに想いを致すのだろうか。変わりゆくものと、変わらないもの。痛みを経験した者にとって年月を数える事はあまり意味を持たない。何年経っても悲しいものは悲しいのだ。2011年3月に発令された原子力非常事態宣言が未だに解除されていない。悪いことは考えない方がよい。嫌なことは忘れよう、と向き合わねばならない事実に目を背け、忘れてはいけないことすら<知らない>という人たちも少なくない。われらにとって困難であった日々、われらを追い詰め、不安にした日々、また、われらの中に苦しみの痕跡を残した日々、頭の中から記憶が消えても、事実は消えるわけではない。聖書は告げる。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。」(16節)神は、忘却を拒否するかのように消せない痕跡として目を注ぎ続ける。それはイエス・キリストの十字架の釘痕に、私たちの目を向けさせる。愛は忘却の道を選ばない。常に覚え心にかけ、痛みに向き合って共鳴し、共に苦しみ呻いている。われらは忘れる事もあるが、神は忘れずにいてくださる。われらが痛んだ事、不安だった事、苦しみの痕跡を覚えていてくださる。そこにゆだねるのだ。イザヤ書はこの後、回復の預言に向かって進む。「主は、シオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。慰めは痛みの痕跡なしには起こり得ない。癒すために主は覚えておられる。(2021.3.14)