『イエスの瞳、その愛の眼差し』マルコによる福音書10章17−31節

 盗まず、姦淫せず、偽証せず、父母を敬う・・・。善いお方である神の戒めを守って来たと即答する人。世の中では人生の成功者であったが、永続する生き方をイエスに求めて彼は問う。イエスは彼を慈しみ、見つめながら言う。「あなたに欠けがひとつある・・。持てるものを手離して我に従え」と。彼は自分と対極に生きる者とは共生できないでいた。多くを持つがゆえに、何も持たない人の心が欠けている。彼は、顔を曇らしその場を立ち去る。その後、財産持ちは神の国には入れないという話かと思いきや、人のところでは不可能でも、神のところではできる、とイエスの言葉。それはこの立ち去った者に可能性を残しているように思う。「後の者が先に、先の者が後になる」という帰結にも繋がる。渡辺和子さんの著作※に次のような話がある。ある人が掌に入るくらいの小石を、手術前の患者に握らせる。その小石には平仮名で「だいじょうぶ」との文字。受取人は「きっと成功するんですね。」と喜ぶ。するとその方は、「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでもだいじょうぶ。そういう<だいじょうぶの小石>なんですよ」とおっしゃる・・。そういう話である。願い通りにならなくても、神は善いお方だから、決して悪いようになさらないという信頼の話だ。今朝の記事に登場する彼は、失敗してはダメだ、転んではいけない、と必死だったのかも知れない。そんな彼を慈しみの眼差しで見つめるイエス。どちらであっても神の愛は変わらないという眼差しに思える。善いお方である神を信頼せよ、永続するのは変わらぬ神の愛にあると。「ああ、主のひとみ」の作者である井置利男氏は、自分は救われないと自暴自棄に陥ったとき、裏切る弟子をも愛をもって見つめられる眼差しが自分にも向けられていることに心を打たれ、この讃美歌が生まれたという。主イエスの愛と慈しみの眼差しは今日もわれら一人ひとりに。「私が共にいる」と、だいじょうぶの眼差しを注ぎつつ。(2021.5.30) ※「忘れかけていた大切なことp.62-63」PHP文庫