『祈りの家として』:マルコによる福音書11章12−19節

不公平と格差の現実は昔も今も変わらない。特権を利用してぼろ儲けする者がいる。その陰で暴力は肯定できないが、それほど追い詰められ権利を剥奪されている人たちがいる。空腹であっても食べるものがなく、支払うあてもないのに無情にも要求されるような不条理、呪われたイチジクのような存在がある。イエスはその姿を自らの行動で代弁されるかのようだ。神殿は「すべての人の祈りの家」(17)とされる。両替人がいた場所は本来、外国人のための礼拝所だったが居場所が奪われていた。「鳩」は困窮者のためのささげもの。宗教的価値観を重視するなら金額を上乗せされても文句は言えない。結果的に追放され、貧しい者たちは神殿に入る事もできずにいる。宗教的な神聖さや常識を追求すればする程、特定の人しか礼拝できないという差別社会の縮図となっていたのだ。イエスは身をもって本来のあり方を示される。何かを伝える場合には暴力的な手段によらず「対話」が必要であることは今や常識であるが、「祈り」とは神との「対話」である。何よりも大切にされるべき神との関係における常識、対話の場が阻害されていたのだ。われらは誰もが祈りの家、神との対話に招かれている。それを妨げるものがあってはならないという明確な意思と熱意がこの出来事にはあらわれている。以降イエスは、神殿にいてすべての人と問答、対話をされる。そして追放され、酷い暴力を受ける側となられる。イチジクのように呪われる立場となられる。すべての人と対話し、救うために。教会は神との対話の家として人々を招く。(2021.7.18(日)