『神が持つ信頼によって』:マルコによる福音書11章20−26節

ジム・キャリー主演「ブルースオールマイティー」(2003)というコメディ映画がある。神が羨ましいという主人公が数日間限定で神になる。当初は全能の力を手にして有頂天になるが神の仕事も果たさねばならない。世界中から絶え間なく届く祈りや願いが、現代的にPCデスクにメールで届く仕組みで描写される。主人公は面倒だからと「願いをすべて叶える」と一括で全選択をし「YES」のエンターキーを押す・・。すると途端に全世界が大混乱し最悪の結果となる・・・。欲に駆られた人間の願望は果てしない。各個人の願いがすべて叶う世界は実は恐ろしい事かも知れない。商売繁盛、開運祈願など多岐に及ぶ諸祈願は人間側の幸福追求や不安解消が前提となる。生きる指針や道徳は二の次で、自分は変わらず状況さえ変われば良いという利己主義が潜んでいたりする。願いさえ叶えば信仰の対象は不問だ。「祈り」は創造主との「対話」であっ人間側の一方的な願望だけではなく、それが真に最善なのか神に聴く姿勢が肝要である。イチジクに起こった出来事を通して弟子たちはイエスとの対話に導かれる。「神の信頼を持て」(マルコ11:22)と。イエスが教えられる祈りとは、われらの願いは根本的には既に聞かれているという信頼である。不幸と思える境遇にあっても神は共におられる。「対話」であれば、不信や疑いも一切をありのまま打ち明ける相手が存在する。われらの祈りの対象は、かけがえのない人生に最善をお計らいくださるお方であり、一人ひとり名を呼んで心にかけ、語りかけてくださる唯一善き愛のお方だ。このお方によっていのちの意義、目的を見出しつつ、永遠の信頼関係を築いてゆくのである。(2021.7.25(日)