『不要が主要となる』:マルコによる福音書12章1−12節

このたとえ話は、直後にある10-11節(詩編118:22の引用)と一括りで読むべき内容であろう。「隅の親石」は、建築物の中心となる重要なもので欠落すれば全体が総崩れになるほど主要な働きを担う。皮肉にも建築家が不要だと廃棄した石が、建物にとって主要な存在となるという不思議な話である。後代においては、ユダヤにおいては要らないと排除されたキリストが、世界を救う要石となると理解されていった。それにしてもこのたとえに登場する農夫たち、相当な悪党に思えないだろうか。園主から畑を委ねられるが、オーナーの要求を無視して侮辱を重ねる。遂には農園を奪取しようと園主の息子を殺して外へ投げ捨てたというのだ。持ち主が報復するのは不思議ではない。むしろ農夫たちの方こそ外へ追放されるべきであろう。だが、不思議とそうならない展開がある。パウロはかつて、キリスト者を暴行し排除していた首謀者の一人、たとえ話の農夫たちのようでもある。けれども彼は滅ぼされず、神から捨てられない。当初は敵であった彼は後に回心し、実に新約聖書中13通の手紙を手掛け、キリスト教成立において「主要」な働きを担う使徒となったのだ。赦し難い相手、要らないと排除したい存在が、包括的な神の御手の中で主要な存在となり得る世界がキリスト教の歴史にはある。隅の親石としてのキリストは、どのような者であってもただ信じて望み続け、耐え続け、一人も破滅しないよう全人類を支える隅石。誰も不要とせず全体の下で執り成される主イエス・キリストにおいて神の愛が示されている。(2021.8.8)