『人間の本性』マルコによる福音書14章53—72節

「本性」は人間の窮地にあって不意にその素顔を覗かせる。当時の宗教家たちはイエスによって偽善を見抜かれ、権威や地位の失墜という窮地にあった。彼らの「本性」は神のためでも正しさに生きる事でもなく、自分たちの利害が侵害される事に対する敵意にあらわれた。イエスを排除しようと不当な裁判にかけ罪に定めようとしたのである。焚火にあたり行方を伺う弟子のペトロ。数時間前までイエスと共に死をも覚悟していたのだが、いざ自ら窮地に立つと保身に歯止めが効かなくなる。エスカレートする虚偽は隠れた「本性」を照らした・・・。自らを死刑にするための偽証が飛び交う中、終始黙し続ける主イエスが唯一口を開く場面がある。「お前は神の子である救い主なのか?」という問いに対してだ。この「本性」を知り得る決定的な問いに答える事によって、主イエスは有罪とされ十字架刑へと向かう事になる。福音書は人間の「本性」を明らかにしつつ肯定も否定もしない。ただ、罵られ唾をかけられても仕返しせず、裏切られても恨まず赦し、苦しめられても脅さず、人間の「本性」の餌食にされるかのように身を委ねられた主イエスをキリストとして指し示す。彼の罪のない「本性」によって人間を救いへと招く。主イエスは救い主として、その十字架の死によって人間の「本性」をありのまま担われた。彼の打たれた傷によってわれらが癒されるために。(2022.1.16)

2022.1.16(日)講壇生花 by YOSHIKO