『十字架につけられる主イエス』マルコによる福音書15章16—32節

寛容さを失った人間の自己中心的な行為によって連日のように誰かが傷付けられ、痛ましい殺傷事件があとを絶たない。コロナ危機による影響が関連しているのか断定はできないものの、われらが日頃抱いてしまうような過少のいらだちや不満、状況によっては憎しみが想像以上に過激に、突発的に、自ら制御できないほど強いウイルスのような伝染力となっているように思う。解決を迫られている多くの課題は、神を畏れず自分を世界の中心に据えて身勝手に生きようとする人間の罪によって引き起こされているものである限り、それらは政治・経済的手段や人間の英知や努力によって解消されるような次元ではない。キリスト教の贖罪的な視点から言うならば、人間の罪が主イエスを十字架につけているのであり、主イエスはご自分を救わず、われらの罪を自ら十字架で担われ、血を流されたのである。このお方は、罪あるままのわれらを受け入れるしるしとして十字架から降りずに神の愛を示す。主イエスが十字架で被っているのは人間の罪、その人間の一人としてこの私が含まれているという認識。それは同時にこの私を愛し、私を罪から救うお方だという認識に至る。この愛によってわれらは寛容さを取り戻す生き方に招かれ、互いに愛し合う平和へと遣わされる。(2022.1.30)

2022.1.30(日)礼拝講壇生花 by ISHIMARU