『待望〜バプテストの信仰(主の晩餐)』Ⅰコリント11章23-26節

主イエスは十字架の前夜、自ら主の晩餐を制定された。「聖餐式」とも呼ばれているが、バプテストは「主の晩餐(式)」と呼ぶことを通例として来た。「聖職者」なども「教役者」と呼ぶのは、「聖」とされる対象を人間や制度に付与する事を避け、ただ主イエスを告白し、このお方を待望する信仰に由来する。世界は今、コロナの終息のみならず、ウクライナ・ロシアの終戦を待望している。どんなに聖人君子と呼ばれるような人物であっても神ではないのであり、本質的には不完全さを宿している。一人の人間に権力が集中してしまえば戦争という過ちが起きてしまう歴史を人類は負っている。いかなる人間の権威も、大切にされる礼典や儀式もキリスト御自身に取って代わるものはない。それはイエス・キリストを指し示すものであるがゆえにシンボル(象徴)である。ゆえに救い主を待望せずにはいられない。なぜ、愚かにも人類は同じ過ちを繰り返すのか。われらは人類を罪から救い、真の平和をもたらすキリストを告白し、主イエスの十字架の死を告げ知らせる。同時に主イエス・キリストの御国(支配)を待ち望む。主よ、御国を来らせ給え。(2022/4/10)

2022/4/10(日)礼拝講壇生花 by ISHIMARU