「弱さを恥としない」ローマの信徒への手紙1章16節

季節は晩春となり、新緑の中に竹林だけが黄色に枯れているのが目立つ。竹はこの時期に黄葉し、落葉していく。枯れた竹は、新緑の眩しさの陰にかくれて身を恥じているのだろうか?かつての力が衰え、姿を変えていく親竹は、芽生えて伸びる新しい命に養分を与え、今が旬の筍を力強く育てている。自然は常にありのままで「恥」がない。枯れても新しい命につながっている。第二次世界大戦の危機を生き延びたドイツの神学者イェルク・ツィンクの「わたしは喜んで歳をとりたい」(真壁五郎訳:こぐま社2018)という詩は、弱さや老いを恥とすることはなく、絶望することは決してないことに気付かせてくれる。「福音を恥としない」と書いたパウロ。「福音」という言葉は当時、戦勝報告の使信であったが、キリストの福音は、真逆の「敗北」や「弱さ」、受け入れ難い経験と隣り合わせである。主イエスは、世の中の価値観からすれば十字架刑によって敗北し、みっともない恥さらしの弱い姿で死なれた。しかしそれは、「復活」という真の勝利の命につながっていたのだ。パウロ自身、かつては弱さを恥としたが、「力は弱さの中で十分に発揮される」という逆説に目覚め、「わたしは喜んで弱さを誇ろう」(Ⅱコリント12:9)と弱さ自体にある価値を見出した。『われ「老い」「病」「敗北」「過去」「弱さ」を恥とせず・・・』。われらが最も力を発揮できるのは、無力を受け容れ、こだわりや囚われの気持ちから解放され、自分自身とのゆるやかな信頼を取り戻すことができたときだ。そこに圧倒的な神の恵みの養分が供給され、存在自体が輝いていく。信•望•愛のもと、どのような命もありのまま生かされていく。(2023.4.23)

 


2023.4.23(日)礼拝講壇生花 by iSHIMARU