「結果主義からの救い」:ルカによる福音書13章1−9節

昨日の試合?今日の成績?先月の売上?共通項は「結果報告」。われらは普段から「結果」で物事を判断し、評価している。「蒔かぬ種は生えぬ」と言うように、全ての「結果」は「原因」に依存している。今日の記事では、災難に巻き込まれた人、偶然の事故で亡くなった人たちの話題が登場する。「たまたま」現場に居合わせただけで巻き込まれた事件。「偶発的」に起こった災難である。「結果主義」に立てば、不運に遭った者たちは滅びた者と判定され、原因は「日頃の行い」にあると考えざるを得ない・・。群衆は無責任にも恣意的な憶測を抱きはじめる。「きっと何か悪い事をしていたに違いない。天罰が下ったのだろう・・」と。しかし主イエスは、災難に遭った人たちを弁護するかのように「これらの人々が他の誰よりも罪が深かったわけではない」とかばうのだ。更に、他人事のように因果関係を探る人々に対して「あなたがたも例外ではない」と誰もが偶発的に災難に巻き込まれる可能性を指摘される。主イエスは、結果だけで断定せず、不幸の原因を究明するのでもなく、不条理な苦しみにあえぐ者の側に立たれ、「結果」に寄り添われる。そしてたとえ話をされる。ぶどう園」に植えられた「いちじくの木」は、畑違いとも思える状況に置かれながら「結果を出せ」と要求される。主人は、実がならないという理由で「ダメ出し」をし、バッサリ切り捨てようとする。だがそこに、「もう少し待ってください」と赦しを懇願し、救おうとする園丁が登場する・・・。結果重視の厳しい世の中、要求に応えらず見限られそうな重圧に置かれる者と共に歩む主イエス。十字架の上で「父よ、彼らを赦してください」と執りなし、誰をも滅びぬように祈り続けるお方によって今日も救われ、生かされている・・。(2023.6.4)


2023.6.4(日)礼拝講壇生花 by ISHIMARU