「聖霊に満たされた人」:使徒言行録7章51−8章1節

ペンテコステの日。激しい風の音が響き渡り、一同の上に聖霊が降った。弟子たちは聖霊に満たされ、「イエスは救い主である」と大胆に語り出し、十字架につけられ復活したキリストを証しするのであった。使徒言行録に登場するステファノは、信仰と聖霊に満たされた人と伝えられる(同6:5.7:55)。彼は迫害に遭いながらも相手を恨むのではなく執り成し、敵を赦しながら絶命した最初の殉教者である。読者の心を打つその最期は、十字架につけられながらも敵を赦し、死なれた主イエスの姿と重なる・・。ゆえにステファノの殉教の姿は、キリスト者としての究極的な至上使命と美化され得る。ともすると、戦争などで国家のために命を捨てることを目指す思想とつながりかねず、殉教は今日多くの課題を含んでいる。また、敵を赦す生き方を「美談」とするあまり同様な生き方を求める事は、たとえばDV被害者に罪悪感を与えてしまい、二次被害を生み出しかねない。敵をも赦す生き方ができるのは、主イエス・キリストだけである。聖霊に満たされたステファノの信仰は、主イエスと顔と顔を合わせるような生き方、すなわち主イエスを鏡のように映し出す人として伝えられている。彼は聖霊に満たされて天を仰ぎ、主イエスに目を注いだ(同55)。このお方に祈り、最期までイエス・キリストを証した。聖霊に満たされた人のうちには、復活のキリストが生きておられる。(2023.5.28)