「キリストによって生きる」:コリントの信徒への手紙第二5章14−15節

われらはキリストによって生きるように招かれている。「〜よる」とは、そこに根拠や理由が生じていることだ。使徒パウロは生きる根拠をキリストにおいた。並外れた苦難の連続を生きたパウロの生涯であるが。実際、彼はどんな困難も、辛さも苦にせず、ひるむことなく、前に進んで行けた人ではない。嘘つき呼ばわりされ、どこの馬の骨かと軽んじられ、災難や事故、病に悶えつつ、悲嘆に暮れ、窮乏することもしばしばであった。キリストのために投獄され、拷問によって死戦を彷徨ったことも幾度もあった。それでも生きる理由は何か?「なぜなら、キリストの愛が自分に強く迫っているから」と彼はいう。キリストの愛にしっかりとつかまえられている恵みが、自分のために(自分によって)生きるという目的を上回ったのだ。人生は何によって確かなものとなるだろうか。「キリストによる」という意味は、自分次第から「キリスト次第」という恵みの視点を見出す。それは船が錨(アンカー)を下ろすようなものだ。錨の爪がしっかりと海底に固定されるなら、荒波においても一定の場所にとどまり、過酷な風浪に耐えて流されずに目的に向かう頼みの綱となる。生きる道で忍耐や辛さは避けられないが、どのような人生の荒波や試練にあっても、われらはしっかりとキリストの愛に固定されている。だからこそ、すべてを乗り越える希望を見出すのだ。今日もキリストによって生きることができる。(2023.10.1)