『続・真理に基づく解放』:ヨハネによる福音書8章31-36節

近年「社畜」という言葉を耳にする。会社と家畜を組み合わせて生まれた造語で、低賃金や長時間労働を強いられていても文句を言えず、会社の言いなりになっている姿に対し、皮肉を込めた言葉である。聖書でのいうところの「罪」も、似た側面がある。人間は罪という利己的欲望の言いなりになって散々罪に酷使された挙句、その報酬が「死」というわけだ。「罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8が18)とあるが、現代では「承認欲求の奴隷」と換言し得る。自分が認められたい、重んじられたいとの欲求は、意識するとしないとにかかわらず日常に影響を与えている。いつの間にかSNSの長時間利用へと束縛されている事例で言うなら、結局そこで得られるのは他者との比較、自尊心の低下を持続させる可能性が高い。さらに犯罪や戦争までもが承認欲求の産物となり得る。イエス・キリストは、罪からわれらを救うために来られ、このお方が十字架によって罪の束縛から解放されたという真理は、自分が神に無条件かつ無限に愛され、全存在が承認されている真理に目覚めさせる。他者からの評価に一喜一憂するのではなく、主イエスの言葉にとどまり、神に選ばれ、愛されている弟子としての自己を確立し、他者を認め、重んじて歩む喜びと自由を生きるのだ。(2024.2.25)