『復活』:マタイによる福音書28章11-20節(イースター)

主イエスの復活の出来事が信じられず「疑う者」がいたことを福音記者は記している。「復活」は非科学的であり、自然の法則に反する。ゆえに「疑う」ことは健全な人間の証しである。だが、もし「復活」がないのなら、キリスト教は存在していない。椎名麟三は戦後、突き抜けた懐疑論を経てキリスト教作家となったドストエフスキーの書物に触れて信徒となり、自らの体験を通して「信じられない者」の側に深く共感を抱きつつ信仰について述べている。「悪魔の強情(1960年発表)」という随筆には、著者が嘘発見器にかけられる即興劇が登場する。「キリストの復活を信じるか?」の問いに「もちろんです」と答えるのだが、機器は大きく反応しそれが「偽り」と判定される。翌日、再び同じ項目について診断を求める。今度は「あなたは復活を信じるか?」の問いに「いいえ」と回答する。ところがそれも「偽り」と診断されるのだ。機器が正確で精密であるほど「嘘」と記録される。結局、昨日の判定は誤りであり、彼はキリストの復活を信じ、イエスと出会ったという証明書が発行される。その晩、機器が自滅するというオチだ。復活の主イエスは、信じること、信じられないことを超えて、その両方をしっかりと支えられる。信仰ある者も、疑う者もその姿のまま丸ごと受け入れて、「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたともにいる」と復活のご自身を示し続けられる。いくら自分を見つめても答えも、救いもない。主イエスを見つめるところに答えがあり、救いがある。(2024.3.31)