待つ時間は重い。渋滞の車内、病院の検査結果を待つ数日、出口の見えない問題の日々。速さを求めがちな現代において、待たされることは焦りと不安を生む。しかし一方で、胸を躍らせるような喜びの待望もある。ルカ福音書12章に「主人の帰宅を待つしもべの譬え」がある。いつ戻るかは予測不能であり、夜中であっても主人を迎えるため、目を覚ましていなければならない。しかし主人の帰宅シーンは、当時の常識を鮮やかに覆す。婚礼から戻った主人は、なんと自ら帯を締め、「しもべら」を食卓に座らせて給仕するというのだ。この譬え話の背景には、キリストの再臨(終末思想)がある。ここでの主の訪れは、恐怖の時ではなく、神ご自身による「もてなし」が示唆される。主イエスは十字架にかかる前夜、自ら手拭いを取って腰にまとい、「弟子たちの足」を一人ひとり洗われた。主は彼らをこの上なく愛し、自ら仕える者となられた。われらはこのお方を主と信じ、主を待つ時を生かされている。それは愛する者の帰りを、今か、今か、と待ち焦がれるような待機だ。われらは今日という日を喜びの待機として生きることに招かれている。神の国というのは 力あるものが弱き者に仕えることによって完成する。主ご自身が食卓を整え、喜びの席にわれら招くという圧倒的な恵みに信頼し、そこから湧き出る喜びの奉仕として、この主イエスのように仕え合う者でいたい(2026.1.11)
