2025年度主題「キリスト・イエスにあって一つ〜包摂的共同体を目指して
春の光がやわらかく街を包む一方で、世界は今、重苦しい影に覆われている。権力者の決断が国境を越えて人々の暮らしを揺さぶり、無数の命を不安にさらす現実。なぜ、このようなことが繰り返されるのか。その問いに対し、聖書はむしろ、われらの心のありようを問い直す。主イエスは、招待客たちがこぞって上座を選ぼうとする様子に注目し、「招かれたら、むしろ末席に座りなさい」と語られた。これは単なる礼儀作法の話ではない。人より上へ行きたい、認められ、敬われたい、という、人の根底にある衝動を見つめ直させる言葉だ。力が支配する論理が極まるとき、人は他者を踏み台にし、やがて暴力と破壊へと突き進んでしまう。教会は今、受難週を迎えた。十字架は、単なる苦しみの記録ではない。それは、主が「どこに立たれるか」という決意の宣言だ。主は強者の側ではなく、虐げられ、低くされた人々の側に立たれた。全能の神でありながら、権力に溺れる人間を裁く座を捨て、自ら末席へと向かわれた。最も低い場所へ、見捨てられた人々の隣へ、敗北の淵へと身を置かれたのだ。しかし、そこは終着点ではない。神は、低くされた者をイエスと共に復活させ、高く引き上げられる。ここにこそ「福音」がある。横暴な力が支配するこの戦時の世が、決して結末ではないという希望だ。 神の身分の座を降り、僕(しもべ)となって全てを捧げた十字架の主は、今もわれらを招く上座ではなく、低い席へ。君臨するのではなく仕える側へ。奪うのではなく、分かち合う者へと。(2026.3.29(日)
春の気配が戻る頃、かつての震災の記憶がよみがえる。暗闇の中、この教会堂で分かち合った食事と小さな灯りが人の心を支えた。食卓は本来、命の喜びを分かち合う場である。しかしルカによる福音書14章には、食卓に緊張が走る場面が描かれる。安息日、宗教指導者の家で人々はイエスを監視していた。そこに水腫に苦しむ一人の人がいた。癒やせば律法違反とされる状況の中で、イエスは問う。「安息日に病を治すことは許されているか」。だが人々は答えない。しかしイエスは沈黙しなかった。目の前の苦しみに手を伸ばし、その人を癒やした。安息日とは本来、人を縛る日ではなく、神が命を回復させる日である。その原点を、主イエスは行為によって示した。人はしばしば、正しさや立場を理由に一歩引いてしまう。だが信仰とは本来、人を神へ導く橋であると同時に、人と人を結ぶものであるはずだ。にもかかわらず、その橋を守ることに心を奪われ、助けを求める声を聞き逃すことがある。神学者であり医師のアルベルト・シュヴァイツァーは、アフリカで苦しむ命に手を差し伸べ、「生命への畏敬」に半生をかけた。愛とは理屈ではなく、苦しむ者の隣に立つ勇気である。重い皮膚病患者に、沈みかけるペトロに、幼い子の頭上に、夕暮れ時、ご自分のところに来る病人らに両手を伸ばされる主イエス。その手は理屈を超えた赦しに向かって、今もその手に釘跡が残されている。戦禍に奪われている無辜の命。沈黙か、行動か。その問いが今も私たちに向けられている。神の国とは、苦しむ人が見過ごされない場所。小さくとも手を差し伸べるところに、希望の光は確かに宿る。(2026.3.15)
東日本大震災から15年を数える祈り 〜詩編23編によせて〜 主しゅは私わたくしたちの羊飼ひつじかい。 あの日ひも、そして今日きょうも。 主しゅよ、15年ねんが経ねんちました。 失うしなわれた命いのちを想おもう時とき、胸むねの奥おくに痛いたみが走はしります。 揺ゆれれ動うごく大地だいち、叫さけび声こえ、押おし寄よせる波なみ、...
エルサレムを目指し、十字架という受難の道へ向かう主イエスのもとに、ある声が届いた。「ここを立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしている」。ヘロデとは当時のガリラヤの領主、すでに洗礼者ヨハネを処刑した人物である。権力は時に暴力を伴う。ゆえに危険を避け、安全を選べ――それはもっともらしく聞こえる声だ。だが主イエスは言う。「あの狐にこう言いなさい。見よ、私は今日も明日も悪霊を追い出し、病人を癒す」。権力者を「狐」と呼んだのは象徴的だ。狡猾ではあっても、百獣の王でもなければ、歴史の主人でもない。権力者は時を支配するかにみえる。だが人を癒し、赦し、立ち上がらせる神の国の働き、神の時を止めることはできない。われらは日々、多くの「声」に囲まれている。ニュースの声、世間の声、結果を急かす声、不安を煽る声。どれももっともらしく、自らの判断を揺らす。世界が揺れ、 戦火が続き、未来が見えにくい時代。朝ドラ「ばけばけ」の主題歌ではないが、毎日難儀なことばかりでも、日に日に世界が悪くなるような「声」を聞く時も、人は隣にいつもいてくれる存在がいる限り 生きていける。そこに希望がある。あなたの隣には、今日も明日も、その次の日も共に歩まれる主がおられる。われらは誰の声に従うのか。主イエスは権力の脅しや恐れの声にではなく、父なる神の「声」に聞き従って歩まれた。十字架の先に復活があったように、 従順の先に命がある。人の目に隠れていても神の国のわざは着実に救いと希望に向かって進む。われらはそこに招かれている。主の声に心を澄ませよう。今日も明日も、その次の日も。(2026.3.1(日)
ある人が「救われる者は数少ないのですか」と主イエスに問うた。われらは数を気にする。合格率、支持率、多数派か少数派か。大勢の側にいれば安心できる気がする。しかし主の言葉は、群衆の中に隠れる心を揺さぶる。「あなたは入るのか」と。ルカが記すのは「狭い門」ではなく「狭い戸口」。大勢が一度に通る城門ではない。ひとりずつ向き直って通る扉である。そこでは肩書きも、周囲の評価も役に立たない。問われるのは関係だ。主人が「あなたがたを知らない」と言う場面は冷たく響くが、逆に言えば、救いとは「知られている」こと、名を呼ばれることだ。多数決は集団を数える。神は人格を数える。東西南北から人々が招かれる神の国はすべての者に開かれているが、入口は狭い。それは排除のためではない。主イエスが自ら一人ずつ名を呼んで迎えるためである。狭さは、あなたを知り、しっかりと包容する愛の囲いなのだ。「救われる者は数少ないのか」。その問いに主は答えない。ただ今日も、静かに問う。「あなたは私に従うのか」と。問われているのは信頼であり、今、あなたの名を呼んでおられる主イエスに応答する自覚的な意思なのだ. (2026.2.22)
バレンタインの店頭に並ぶチョコレート。気づけば板チョコはかつての倍近い値段になった。中身が少し減って、価格はそのまま。いわゆる「ステルス値上げ」である。目に見えぬ変化は、ときにわれらを落胆させる。しかし主イエスは、隠密に喜びをもたらす「ステルス」を語られた。それは「からし種」に譬えた神の国。庭に投げ入れ隠された最小の種がやがて木となり、鳥が巣を作る。またパン種も同様。女が粉に「隠す」と、全体がふくらむ。どちらも、目立たぬところから始まる変革である。われらの社会は「映える」成果を競う。だが神の国は、外側を飾るのではなく、内側から発酵する力だ。19世紀の看護師フローレンス・ナイチンゲール は、劣悪な病院の清掃に身を投じ、死亡率を劇的に下げた。名声を求めず、暗がりで灯を掲げた働きが医療を変えたのである。先日召された一人の女性もまた、兄の粘り強い支えに包まれていた。誰にも見えぬ祈りと看取りの時間が、彼女の内に信仰と感謝を芽吹かせた。「幸せでした」との言葉は、隠されたパン種がふくらんだ証しであろう。主イエス・キリストの十字架もまた、敗北に見えた「埋没」の時だった。しかしそこから復活の命が始まり、世界中に希望を膨らませたのだ。小さく、隠れているものを侮ってはならない。神の国は、目立たぬ誠実さの中で静かに熱を帯び、やがて誰かの憩いとなる大樹へと育つのだから。(2026.2.15)
ある安息日の会堂。18年間、腰が曲がり、顔を上げる自由を奪われていた女性がいた。彼女を縛っていたのは病弱者の霊とあるが、その視線を地面に釘付けにしていたのは、尊厳を奪う「抑圧」そのものとも言えよう。主イエスは彼女を呼び寄せ、「あなたは解き放たれている」と告げて手を置かれると、彼女はまっすぐに立ち、神を賛美した。ここには、人は何によって縛られ、誰が人を自由にするのか?その根源的な問いがある。その場を仕切る会堂長は怒るが、規則が優先されるあまり、一人の人間の尊厳は後回しにされていた。2・11(祝)は、国家と宗教の関係を問い、信教の自由を覚える日である。足元の不安は、強いリーダシップへの依存を招くことがある。だが、その代償が次世代への重荷や自由の剥奪となるなら、われらを縛り、うつむかされるパワーともなり得る。それは平和や人権という一人ひとりの命が尊ばれる自由を失いかねない。主イエスはうつむかされていた女性を「アブラハムの娘」と呼び、彼女は制度の部品ではなく、神と直接結ばれた存在だと宣言される。今日は投票日。われらは、国家の駒でも、経済の歯車でもない。神に愛され、自由を与えられた、アブラハムの娘、息子だ。われらをあらゆる負の束縛から解放し、真の自由、希望を抱いて生きる命を与える主イエスの「あなたは解き放たれている」との声に背を押されながら、この自由のうちに恐れではなく希望を選び、力ではなく平和を求め、顔を上げて、神を賛美しながら、真っ直ぐに歩んでいきたい。(2026.2.8)
われらの社会は、勝敗や数字が示す「結果」が全てを支配しがちだ。それゆえ人生で起こる出来事に対しても無意識のうちに原因と結果の法則を当てはめてしまう。では偶発的な災害や不幸はどうだろう?因果応報の論理でもって「何か悪いことをした結果」と片づけたくなる。そう考えて自分は安全だと感じられるからだ。だが主イエスは、悲劇に遭った人々が特別に罪深かったわけではないと弁護され、自分はだいじょうぶと自負する心を揺さぶられる。むしろ人は皆、神の前では「負債を負う者」だと、実を結ばぬいちじくの譬えを語る。われらは神に対する負債の返済に似合う結果を問われたなら、切り倒されてもおかしくない存在なのだとも読める。しかし、結果を出せないでいる木のために、園丁は必死に赦しを乞い、「もう一年待ってください」と願い出る。サッカーの試合では、規定時間を過ぎるとアディショナルタイムが設けられる。2024年パリ五輪、なでしこジャパンVSブラジル戦のアディショナルタイム。もう終わったかに見えたわずかの時間での奇跡の逆転勝利。アディショナルタイムは、敗北が決定づけられていた運命が覆される可能性を秘めた、最も濃密な時間だ。人生はアディショナルタイム。キリストの十字架によって命がけで勝ち取られた猶予期間を生かされている。この譬えは結果が語られずに閉じられる。限りある猶予の時間、結末は、まだ終わっていない。結果が出るためにクビを覚悟でとりなす園丁のようなキリストの熱心な期待、養いがわれらにある、今日という一日もまた、その延長線上にあるのだ。(2026.2.1)
作家の頭木弘樹氏は、自身の壮絶な闘病経験から「世の中には『痛い人』と『痛くない人』の二種類がいる」。その間をつなぐ必要性を痛感したという。(「痛いところから見えるもの」文藝春秋2025)痛みは本質的に孤独な体験であり、他者と比較できず、言葉で完全に伝えることもできない。溺れる者の苦しみは、水中の者にしか分からないのだ。聖書(ルカ福音書12章)には、イエスの激しい言葉がある。「私は地上に火を投ずるために来た」「平和ではなく、分裂をもたらす」。柔和で寛容なイメージとは異なるが、この背後にはイエス自身の深い痛みと孤独がある。彼は、不正や偽善がはびこる世界に真実の「火」を投じ、それが衝突や分裂を生むとしても、まやかしではない真の平和を実現しようとした。イエスは、自らが受ける十字架の死を「バプテスマ(浸礼)」と呼ぶ。すなわち死の苦しみに完全に浸されることだ。われらには未来の苦難を「知らない」という恩寵があるが、彼にはなかった。裏切りや残酷な死の全てをあらかじめ知っていたのだ。「知らない慰め」なきまま運命に向き合う苦悩は計り知れない。彼がその究極の孤独の底まで降りたのは、われらがどんな絶望の淵に沈んでも、そこに「すでに彼がいる」ためだ。福音とは痛みが消える魔法ではない。「どんな痛みの中でも絶対に一人ではない」という約束である。言語化できぬ痛みの水底で、イエスは共にいてわれらを支えてくださるのだ。(2026.1.18)