日本人は世界でも稀に見る「読む」民だ。 言葉にならぬ他者の意図を読み、場の空気を読み、次に吹くであろう世間の風を読む。その繊細なアンテナがなければ、この社会の複雑な人間関係の「途上」を、無事に歩き通すことは難しい。しかし、主イエスはそれ以上に神との関係性を重視される。「偽善者よ、なぜ「今という時」を見分けられないのか」と。この「偽善(ヒュポクリタイ)」という言葉は、仮面を被った役者の意味だ。現在教会の執事をしておられるMさんは、教員として35年奉職し、高い使命感や倫理観を求められる身分に自分がふさわしいのか常に自責の念にかられ、神の前に罪人であることを認めざるを得なかったそうだ。いつか教会へとの思いがあったが、「時」は迫っているとの思いから、身を起こしてコロナ下にもかかわらず教会の礼拝に集い、十字架による神との和解と救いの喜びに感謝をされた。周りの目線や環境よりも、「神の時」を読まれたのだ。われらはともすれば今、目の前で展開している「決定的な時(カイロス)」に対しては、驚くほど盲目だ。主イエスは、法廷に向かう「途上」で和解せよ、との緊急性を示すまでに、神が今、あなたに何を語りかけておられるか?を読むことを求めておられる。その問いに耳を済ます時、今日という日は ただの1日ではなくなる。神の招きという決定的な「季節」を読み飛ばしてはいないか。神の前に安らぐのでなければ、どんな至福や安心の時を得ようと心は休まらない。(2026.1.25(日)
