われらの社会は、勝敗や数字が示す「結果」が全てを支配しがちだ。それゆえ人生で起こる出来事に対しても無意識のうちに原因と結果の法則を当てはめてしまう。では偶発的な災害や不幸はどうだろう?因果応報の論理でもって「何か悪いことをした結果」と片づけたくなる。そう考えて自分は安全だと感じられるからだ。だが主イエスは、悲劇に遭った人々が特別に罪深かったわけではないと弁護され、自分はだいじょうぶと自負する心を揺さぶられる。むしろ人は皆、神の前では「負債を負う者」だと、実を結ばぬいちじくの譬えを語る。われらは神に対する負債の返済に似合う結果を問われたなら、切り倒されてもおかしくない存在なのだとも読める。しかし、結果を出せないでいる木のために、園丁は必死に赦しを乞い、「もう一年待ってください」と願い出る。サッカーの試合では、規定時間を過ぎるとアディショナルタイムが設けられる。2024年パリ五輪、なでしこジャパンVSブラジル戦のアディショナルタイム。もう終わったかに見えたわずかの時間での奇跡の逆転勝利。アディショナルタイムは、敗北が決定づけられていた運命が覆される可能性を秘めた、最も濃密な時間だ。人生はアディショナルタイム。キリストの十字架によって命がけで勝ち取られた猶予期間を生かされている。この譬えは結果が語られずに閉じられる。限りある猶予の時間、結末は、まだ終わっていない。結果が出るためにクビを覚悟でとりなす園丁のようなキリストの熱心な期待、養いがわれらにある、今日という一日もまた、その延長線上にあるのだ。(2026.2.1)
