『縛りを解かれる主イエス〜うつむかされる時代に、顔を上げて生きる自由』-信教の自由を覚える礼拝- :ルカによる福音書13章10−17節

ある安息日の会堂。18年間、腰が曲がり、顔を上げる自由を奪われていた女性がいた。彼女を縛っていたのは病弱者の霊とあるが、その視線を地面に釘付けにしていたのは、尊厳を奪う「抑圧」そのものとも言えよう。主イエスは彼女を呼び寄せ、「あなたは解き放たれている」と告げて手を置かれると、彼女はまっすぐに立ち、神を賛美した。ここには、人は何によって縛られ、誰が人を自由にするのか?その根源的な問いがある。その場を仕切る会堂長は怒るが、規則が優先されるあまり、一人の人間の尊厳は後回しにされていた。2・11(祝)は、国家と宗教の関係を問い、信教の自由を覚える日である。足元の不安は、強いリーダシップへの依存を招くことがある。だが、その代償が次世代への重荷や自由の剥奪となるなら、われらを縛り、うつむかされるパワーともなり得る。それは平和や人権という一人ひとりの命が尊ばれる自由を失いかねない。主イエスはうつむかされていた女性を「アブラハムの娘」と呼び、彼女は制度の部品ではなく、神と直接結ばれた存在だと宣言される。今日は投票日。われらは、国家の駒でも、経済の歯車でもない。神に愛され、自由を与えられた、アブラハムの娘、息子だ。われらをあらゆる負の束縛から解放し、真の自由、希望を抱いて生きる命を与える主イエスの「あなたは解き放たれている」との声に背を押されながら、この自由のうちに恐れではなく希望を選び、力ではなく平和を求め、顔を上げて、神を賛美しながら、真っ直ぐに歩んでいきたい。(2026.2.8)