ある人が「救われる者は数少ないのですか」と主イエスに問うた。われらは数を気にする。合格率、支持率、多数派か少数派か。大勢の側にいれば安心できる気がする。しかし主の言葉は、群衆の中に隠れる心を揺さぶる。「あなたは入るのか」と。ルカが記すのは「狭い門」ではなく「狭い戸口」。大勢が一度に通る城門ではない。ひとりずつ向き直って通る扉である。そこでは肩書きも、周囲の評価も役に立たない。問われるのは関係だ。主人が「あなたがたを知らない」と言う場面は冷たく響くが、逆に言えば、救いとは「知られている」こと、名を呼ばれることだ。多数決は集団を数える。神は人格を数える。東西南北から人々が招かれる神の国はすべての者に開かれているが、入口は狭い。それは排除のためではない。主イエスが自ら一人ずつ名を呼んで迎えるためである。狭さは、あなたを知り、しっかりと包容する愛の囲いなのだ。「救われる者は数少ないのか」。その問いに主は答えない。ただ今日も、静かに問う。「あなたは私に従うのか」と。問われているのは信頼であり、今、あなたの名を呼んでおられる主イエスに応答する自覚的な意思なのだ. (2026.2.22)
