春の光がやわらかく街を包む一方で、世界は今、重苦しい影に覆われている。権力者の決断が国境を越えて人々の暮らしを揺さぶり、無数の命を不安にさらす現実。なぜ、このようなことが繰り返されるのか。その問いに対し、聖書はむしろ、われらの心のありようを問い直す。主イエスは、招待客たちがこぞって上座を選ぼうとする様子に注目し、「招かれたら、むしろ末席に座りなさい」と語られた。これは単なる礼儀作法の話ではない。人より上へ行きたい、認められ、敬われたい、という、人の根底にある衝動を見つめ直させる言葉だ。力が支配する論理が極まるとき、人は他者を踏み台にし、やがて暴力と破壊へと突き進んでしまう。教会は今、受難週を迎えた。十字架は、単なる苦しみの記録ではない。それは、主が「どこに立たれるか」という決意の宣言だ。主は強者の側ではなく、虐げられ、低くされた人々の側に立たれた。全能の神でありながら、権力に溺れる人間を裁く座を捨て、自ら末席へと向かわれた。最も低い場所へ、見捨てられた人々の隣へ、敗北の淵へと身を置かれたのだ。しかし、そこは終着点ではない。神は、低くされた者をイエスと共に復活させ、高く引き上げられる。ここにこそ「福音」がある。横暴な力が支配するこの戦時の世が、決して結末ではないという希望だ。 神の身分の座を降り、僕(しもべ)となって全てを捧げた十字架の主は、今もわれらを招く上座ではなく、低い席へ。君臨するのではなく仕える側へ。奪うのではなく、分かち合う者へと。(2026.3.29(日)
