ケンタッキー・フライドチキンの創業者ハーランド・D・サンダースの生涯は「求め続ける」姿勢を思い起こさせる。彼は幼少期に父親を亡くし、働きに出る母親に代わってパンを焼いた。それを母親から絶賛されたことがきっかけで、美味しいもので人を喜ばせようと料理の腕を磨くようになる。試行錯誤の末に完成したのは、企業秘密とされているあのオリジナルチキンの完全レシピ(スパイスの調合)である。小さなレストランで提供されて人気となり、経営に成功するが、大恐慌や火事で店を失う。65歳の時なった彼は、唯一手元に残ったチキンのレシピを売り込もうと車で全米各地を回るが断られ続けたのであった。だが諦めることなく求め続け、探し続け、1010回目にしてついに門が開いた。キリスト教の集まりで若い経営者ピート・ハーマンと出会い、契約に至ったのである。その後、初のフランチャイズビジネスとして世界的企業として成長し、もてなしの味を今も届けている。彼は晩年、教会をはじめ学生支援や病院などへの寄付や社会貢献をしたことでケンタッキー州より「カーネル(大佐)」の称号を授与する。こうしてカーネル・サンダースと呼ばれるようになった。彼は晩年の講演で「神と人から喜ばれる動機で働けば、神は必ず祝福される」と語っていた。主イエスは弟子たちに求め続けるたとえ話をされた。「執拗に」と訳されているルカ11章8節の「アナイデイア」は「恥知らずなほどのしつこさ」である。神を「父よ」と呼び、信頼してその御心を第一にしつつ、痛みや願いを率直に差し出すとき、祈りは生きた関係となる。神に全てを委ね、恐れず求め続けよう。(2025.10.12)
チャーリ・カーク氏の追悼式は7万人以上の人々がスタジアムに集い5時間に及ぶプログラムは礼拝そのものだった。賛美がささげられ、牧師からのメッセージがあり副大統領も信仰の証をしていた。夫を殺害された妻エリカ氏によるスピーチで彼女は、自分がこの出来事を通して神のあわれみと愛に支え守られていることを伝え、最後に会衆に呼びかけていた。「私はあの若者を・・あの若者を赦します・・・。十字架上で、私たちの救い主は『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』とおっしゃいました。キリストはそうしたし、夫もそうするでしょう。夫は信仰も目的も生きる意味のない青年たち、苦しみや憎しみにのまれる青年たちを彼は助けようとしていたのです。だから、私は彼を赦します。憎しみ対する答えは憎しみではなく愛。聖書から知れる答えはただ愛、いつでも愛です。敵への愛、私たちを迫害するものへの愛・・。祈りを選んでください。勇気を選んでください。・・・信仰ある人生を選んでください。そして一番重要なこととして、キリストを選んでください」(2025.9.21追悼式のスピーチより) ルカ福音書11章で、弟子たちはイエスに「祈りを教えてください」と願う。イエスは神を「父よ」と呼びかけ、神の子として整えられる祈りを教えた。祈りは願望実現の手段ではなく、神の御心に自らを整える営みである。「御名が崇められますように」と祈るとき、われらは自己中心の願いから神中心の生き方へと向きを変える。「日ごとの糧を与えてください」と祈るとき、欲望に支配されず、欠乏への不安から解放され、感謝に生きる者へ整えられる。「罪を赦してください」と祈るとき、自分の罪を認めつつ、赦す者へと整えられていく。そして「誘惑に遭わせないでください」と祈るとき、弱さを知りつつも神に信頼する謙遜へと整えられる。祈りは状況を変える前に、まず私たち自身を変える。神に向き合うその静かな営みの中で、私たちは生かされ、導かれ、人生が整えられていくのだ。願いを超えて、御心に生かされること――そこに祈りの本質がある。(2025.10.5(日)
『忙殺からの救い』: ルカによる福音書10章38−42節(2025.9.28)...
ある人が強盗に襲われ、道端に倒れ込んでいた。そこを何人も通り過ぎたが、誰ひとり手を差し伸べなかった。ただ一人、異邦人と蔑まれていたサマリア人だけが立ち止まり、介抱した──これが「グッドサマリタン法」の源となった聖書の物語である。助けたいのに、助けられない。祭司やレビ人にも、彼らなりの事情や正当な理由があったに違いない。だが私たちの日常にも似たことがある。困っている人に声をかけられずに過ぎ去り、後から胸を締めつけられるような思いをすることはないだろうか。人は往々にして「したこと」より「しなかったこと」に苛まれる。その悔いは心の奥に影を落とし、トラウマとして残るのである。この物語に登場する人々は、皆それぞれに傷を抱えている。暴行され瀕死の状態で横たわる人。差別と敵意の視線にさらされ続けてきたサマリア人もまた、心に深い痛みを負っていたのかもしれない。その彼が倒れている人を見て「憐れに思った」と聖書は記す。胸が裂けるような思いで、彼は近寄り、傷を包み、寄り添ったのだ。この姿はやがて十字架のキリストへと重なる。彼こそ、人間の罪と痛みを負い、打たれ、釘打たれ、血を流された方である。その「打たれた傷によって、私たちは癒やされた」(イザヤ53:5)。人は皆、心に傷を抱えて生きている。しかしその傷は、キリストの傷の中で癒しへと変えられていく。そこに希望がある。(2025.9.7)
東京・巣鴨で起きた子ども置き去り事件(1988年)を題材にした映画「だれも知らない」(是枝裕和監督)では、戸籍もなく社会から認知されない子どもたちが懸命に生き延びようとする過酷な日常が描かれる。自分の存在を認められぬ痛み。戸籍に名が記されないことは、社会から消されるに等しい。だが主イエスは、一羽のすずめや野の花でさえも御心に止め、その儚く小さな存在をも顧みる神を示された。それは人がこの世でどんなに小さく見える存在であっても、神の目からはかけがえのない命として一人ひとりを忘れずに覚え、天に名が刻まれているという喜びをもたらす。フランスの物理学者でキリスト教思想家のパスカルは「歓喜、歓喜、歓喜の涙。我々は理性だけではなく、心によって真実を知る。アブラハム・イサク・ヤコブの神、哲学者の神にあらず」(パンセより)と神を知る喜びを書き残し、終生衣服に縫い付けていたという。この世ではしばしば名誉や称賛に喜びを見出すが、それは儚い。主イエスの言葉は、真の幸いは天に属することにあると示す。世の孤独と悲しみを越えて、朽ちることのない喜び、永遠の居場所へとわれらを招く。(2025.8.31)
「この戦争さえなかったら・・愛する国のために死ぬより、わしは愛する人のために生きたい!」(朝ドラ「あんぱん」より)敗戦から八十年、アジア・太平洋戦争で失われた310万もの命。その一人ひとりに名前があり、家族があり、笑顔があり、未来があった。戦争は人を「数」に変え、個人の尊厳を奪う。ルカによる福音書10章で主イエスが厳しく叱責しているのは「個人」ではく、「町々」である。町やムラ特有の価値観や風潮は周囲との同化を求め、個人の声をかき消すことがある。アウシュビッツを生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルは、人の苦しみは他者と同化できないからこそ尊厳の証だと語った。誰にも代わることのできない唯一無二の存在、それが「あなた」である。主イエスは町や群衆のなかに埋もれ、失われていた一人を見出してその名を呼び、愛するために生きられた。聖書は告げる。「あなたはわたしの目に高価で尊い」。平和とは、戦争の不在だけを指すのではない。互いを「役に立つか否か」で量らず、存在そのものをかけがえないものとして受けとめる営みである。どのような背景や状況にあろうと「あなたが在る」こと、他とは異なる「あなた」がいることが尊厳であり、平和の礎であり、主イエスのまなざしなのである。(2025.8.24)
「♩幸せなら手をたたこう」の歌は、詩編47編の「すべての民よ、手をたたけ」に由来しているそうだ。作詞者は国際的な生命倫理学の第一人者、木村利人さん(早稲田大学名誉教授)。彼は東京大空襲で自宅を失い、原爆や戦争で親戚を亡くした一人として被害者意識を持っていた。しかし1959年、フィリピンを訪れた彼は、現地で日本軍の加害の歴史と現地の人々の深い恨みに直面する。それでも1ヶ月間、地元の青年たちとYMCA(キリスト教青年会)農村復興ワークキャンプで共に汗を流しながら活動した。ある日、ラルフという青年が彼のもとに来て言った。「自分は戦争で父を亡くした。日本人が憎らしくてたまらなかった。けれども一緒に聖書を読み、活動しているうちに心に変化が起きた。君が戦争をしたわけではない。僕たちはキリストにあって友達だ」。そう言って和解の言葉をかけ、一緒に涙を流して祈り合ったという。その時に読んだ聖書が詩編47編であった。以降、ルソン島の人たちが態度に示して親切にしてくれた体験から感謝を込めて作詞し、よく知られた民謡のメロディーにのせて歌うようになった。日本では坂本九さんが歌い、東京オリンピックでも紹介されたことから世界中に広がっていったという。「幸せなら、手をたたこう」という歌は、クリスチャン同士の交流を通して、憎しみから、和解と平和への祈りとして生まれた。「すべての民よ、手をたたき、歓呼の叫びをあげよ」われらの「手」は武器をとるためではなく、拍手をもって相手を称賛し、祝福し合うためにあるはずだ。神のもとでは、すべての民族が共に、神の平和からくる幸せに招かれている。(2025.8.3(日)
学生時代、友達がラーメン屋でバイトを始めたので、仲間と食べに行った。運ばれてきたラーメンには、驚きの“具材”が。なんと、彼の指がスープに浸かっていたのだ。「おい、指入ってるぞ」と仲間が言うと、彼は涼しい顔で「おれは慣れてるから大丈夫」と返した。このやりとり、お互いがまず「自分ファースト」だ。まず自分の都合や思いが優先されることは悪いことではない。だがそれが強くなると家庭や社会、世界でも争いが絶えなくなる。ルカ福音書10章で、イエスは弟子たちを町々へ派遣するとき「まずこの家に『平和があるように』と言いなさい」と命じた。最初に相手の “平和”を願うのだ。世界では、自国の利益を最優先に掲げる動きが顕著になっている。こうした風潮は、人々の間に「排他主義」や「分断」を生み出しかねない。われらは主イエスによって分断ではなく調和、排除ではなく包摂的な神の国の使者として遣わされる。それは「まず平和」を携えて出会いに向かう道だ。神の国は、相手を尊重し、まず「あなたに平和があるように」と相手の幸いを願う姿勢にあらわれる。まず「平和」を願う者でありたい。(2025.7.27(日))
「コンコン」と礼拝堂の窓ガラスを叩く音。気になって見ると窓越しにある木の枝から体当たりするヒヨドリであった。どうやら縄張り意識から、ガラスに映った自分を「敵」と勘違いしていたようだ。何度もアタックする姿に小鳥の覚悟を見るようだ。ルカ9章の最後は、イエスに従いたいという志願者たちに厳しい「覚悟」を問う場面だ。イエスに従うことは「自分」をあきらめる覚悟と重なる。自分をあきらめるというのは、自分の力ではなく神の力に信頼するということである。ペトロをはじめ弟子たちは命をかけてイエスに従う覚悟があったが、いざ自分の身の安全が脅かされるとイエスを否定し、見捨ててしまった。人間の覚悟は揺らぎやすく、肝心な時に吹き飛ばされてしまう事がある。われらが神に従うことができるのは、われらの覚悟によるのではなく、神の覚悟があるからだ。神は眠ることもまどろむことなくわれらを見守る覚悟がある。あなたが老いて白髪になろうとも見捨てず背負う覚悟がある。独り子を世に与えるほど愛する覚悟がある。 「覚悟はあるか」を問われる時、われらはこう祈ろう。「主よ、私には完全な覚悟はありません。でも、あなたには、私を愛し抜く覚悟があると信じます。その覚悟に私を委ねます。どうか私を導いてください」と(2025.7.20(日)
主イエスは、しっかりと顔を上げエルサレムへと進んで行かれる(51節)。一行は旅の途中「サマリア」の村に入ったが、村人はイエスを歓迎しない。歴史的にはユダヤ人とサマリア人との間には対立があったようだ。「村」は「群」と同源(広辞苑)である。一対一であれば問題なく対話できるのに、「群衆」になると人は態度が変わったりする。「群衆心理」の著者ル・ボンによれば、「群衆」は未熟な心理に陥やすく、わかり易い「断言」になびいてしまうという。この村では「エルサレムへ行く者は敵」という単純なフレーズだけで恨みを募らせる思考が浮遊していたようだ。しかしそれはイエスの弟子たちも同質。彼らは自分たちを受け入れない相手に天罰を与えて呪うような単純思考の「群衆」でしかない。主イエスは振り向いて彼らを戒められる。主イエスは村から村へとエルサレムを目指す途上で、群衆の中にいる一人ひとりと出合われ、対話をされた。顔をしっかりと上げて進む先には、十字架が待ち受けている。それは「群衆」から排斥される道だ。罪人を懲らしめずに赦すイエスを「群衆」は呪う。剣を取らず敵と戦わないイエスを弟子たちは見捨てる。しかし、主イエスがしっかりと顔を上げて進まれた道にこそ、人々を罪から救う道につながっていたのだ。エルサレムで起こった主イエスの十字架と復活、昇天の出来事。そこから差別意識や民族同士の争いではなく、キリストにある和解と平和の道、もはや敵も味方もない神の国の福音が全世界へと伝えられたのだ。(2025.7.6(日)