夕暮れ時。主イエスのもとにたくさんの病人が連れて来られた。彼はその一人ひとりに手を置いて癒される。以前、シルバー川柳で「お医者様、パソコン見ずにおれを診て」という作品があった。自分という存在を重んじてちゃんと向き合ってほしいという願いはだれにでもある。すぐに「薬を飲め」と言われるより、まず「だいじょうぶ?」と案じてくれる存在。「ここが痛むの?」と優しく背中をさすって側に寄り添ってくれる。そんな相手がいると人は病のなかにあっても慰めを受け、それが癒しとなり得る。一人ひとりに手を置く主イエスの「手」は原語では複数形、つまり「両手」である。片手間ではなく、相手と向き合っている姿であろう。大事なものを丁寧に扱うためには両手を使う。主イエスは効率とか組織的で素早い働きを目指すのではなく、目の前にいる者をぞんざいにされず、何より大事に接しておられるようである。敗戦79年を数える今年。戦争は全体主義が暴走する。個人の命よりも国家が大切にされてしまう。神にとって一人ひとりの命は何より大事。その愛の言葉を主イエスにおいてわれらに伝えておられる。「あなたが大切だ」と。(2024.8.4)

ルカ福音書によれば、主イエスの宣教活動の第一声は故郷ナザレでの宣言だ。ある安息日、彼が朗読したのはイザヤ書(61:1-2)であったが、主イエスは本来読まれるべき言葉を省いて「この言葉が実現した」と宣言される。読まなかったのは「報復(復讐)」の個所だった。歴史的にもローマ軍による武力鎮圧が繰り返されていたナザレを含むガリラヤの人たち(前57年のガビニウスの大虐殺、前4年のセフォリスの破壊等)。敵の暴力によって身も心も踏み躙られて来た彼らは、いつか「神が復讐される日が来る」と、敵に対する憎しみと復讐心をもって聖書を読んでいた可能性が高い。しかし主イエスは、ご自身が神に遣わされた救い主として「報復」を語らないことで、自由と解放が実現したと宣言されたのだ。すなわち「赦し」が神の意志なのであり、カリラヤ人たちが長い間機会を伺ってきた復讐を放棄する平和が宣言された、とも読めるのだ。だからその後、彼は崖から突き落とされそうになる。当然かもしれない。今も世界では憎しみや復讐心にかられ差別や報復戦争をやめることができない。「赦し」など到底受け入れられず、そんな高尚なお花畑思想など退けたくなるのはナザレの人たちだけではない。だが、「赦し」こそがキリストの生涯を貫いた福音であった。彼は十字架上で敵のために「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈り続けたお方だ。主イエスは敵をも赦し、だれをも分け隔てなく愛する公生涯を貫かれた。彼こそ憎しみに駆られて幸いを見失い、不自由の中の檻に閉じ込められてしまう人々を解放し、囚われの場所から、広く開けたところに送り出す救い主である。憎悪、復讐心それが自分ではどうすることもできないからこそ、主イエスが負の連鎖を取り去ってくださったのだ。彼の宣言によって憎しみや復讐の文字が取り去られ、愛と平和が心に留められていく。(2024.7.28)

全人類の救世主として現れた主イエスの歩みは、神の身分を捨ててわれらと同じ「人間」として生きることであった。荒野にて悪魔は執拗に「神の子なら・・」とイエスを誘惑する。石をパンに変える奇跡で物質を満たす事も、高所から落下しても何のダメージを受けない事も、誰もがひれ伏すような巨万の富をもって人々を従わせる事も神の子ならできた事であろう。可能だからこそ誘惑なのだ。けれども主イエスは、神の身分でありながら徹頭徹尾、豊かさではなく空腹を知る貧しさ、繁栄ではなく人々から見捨てられるような弱さ、十字架という痛みと苦しみの道を歩まれた。最初の「人間」が呑み込まれてしまった誘惑にイエスが人間として改めて向かい、罪を犯さない生涯を生きることは、悪魔の支配下にある人類を解放する救い主として必要であった。繁栄の名の下にある富(マモン)、この地上での巨大な権力、人類史上世界を揺さぶってきた誘惑は古今東西、人間を善よりも悪へと誘う。紛争や干ばつに苦しむアフガニスタンの荒野を緑地に変えるプロジェクトに半生をささげた中村哲さん。彼は「人間にとって本当に必要なものはそう多くはない。少なくとも私は『カネさえあればなんでもできて幸せになる』という迷信、『武力さえあれば身を守れる』という妄信から自由である」(「天、共にあり」NHK出版)と語った。われらがひれ伏す相手は悪ではなく主イエスを復活させた神のみである。(2024.7.21(日)

「誰も端っこで泣かないようにと君は地球を丸くしたんだろう?」(RADWIMPS「有心論」より)ある生徒が学校礼拝のレポートで紹介してくれた曲の一節。聖書の説教を聞いて思い出したという。ルカの系図は、「誰ものけ者にされないようにとみんな神の子にしたんだろう?」とも読める。ルカによるイエスの系図は、神の子イエスが人類の祖アダムに遡っている点が特徴的である。そして、アダムが神の子であるなら、その子孫であるイエスと共に全人類はみな、神の子なのだという全世界との連帯が表明されているともいえる。同じ青い空、同じ地球、この大地に住むすべての人たちをイエスは神の愛で結び、敵も味方もなく同じ命として繋いでいかれる。イエスは誰も端っこに追いやらない。もし、端っこで泣く人がいれば、イエスはそばに来て「あなたはひとりではない」と、うずくまった魂を生き返らせてくださるお方だ。彼は共に泣き、痛みに共感しつつ恐を締め出す完全な愛と無限の包容力ですべてを丸くおさめていかれる。われらはそのつながりの中で、主にあって生きる。主イエス・キリストこそ、すべての者をひとつに繋ぐ神の子救い主である。(2024.7.7)

教会近くにある台原森林公園では毎年6月下旬頃から夏の風物詩「螢(ゲンジボタル)」が鑑賞できる。この螢は幼虫になると水の中に潜り、陸へ上がると土の中で40日間サナギになる。羽化し成虫になると3日ほど脱皮した部屋で過ごし、いよいよ外に出る。夜には発光しながら森の中を駆け巡る。(「ゲンジボタルの生態」:仙台旭ヶ丘ホタルとメダカの会資料より)螢と主イエスには共通点がある。主イエスは洗礼(バプテスマ)を受けるために水の中に入り、それから40日間荒野で試練を受けられた。十字架の苦難を受けた後、死にて葬られ、3日目に墓よりよみがえられた。「ゲンジボタル」の学名Luciola cruciataは、前胸背板にある「十字架形」の黒い模様から来ており、それは「十字架」を背負われた主イエスを想起させる。螢はなぜ光るのか?理由は諸説あるが、雄と雌が出会うためらしい。すなわち、出会うべき相手を探し求めて光るのである。現在、毎週読んでいるルカ福音書は、ザアカイと主イエスの出会いの物語がある。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)という言葉は、本書の主題のひとつとも言われる。主イエスはわれらの歩む道を、御言葉をもって照らし導かれる。罪の闇に照る十字架という救いの光を灯しながら。(2024.6.30)

79年前の沖縄戦では県民4人に1人の命が戦争のため命を奪われた。今日は沖縄「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の日」。追悼記念式典「平和の詩」より・・・「あの日 短い命を知るはずもなく 少年少女たちは 誰かが始めた争いで 大きな未来とともに散って逝った 大切な人は突然 誰かが始めた争いで 夏の初めにいなくなった 泣く我が子を殺すしかなかった...

イエスが12才となった時の出来事。過越祭からの帰省中、わが子とはぐれたことに気付いた両親は、必死に探し回り、ついに神殿にいるイエスを見つける。彼は神殿を「自分の父の家」とみなしていた。人は誰もが自分の居場所を必要とする。子どもの時は、実家にいることで親の保護を受け、そこで必要なものが与えられ、育っていく。大人になるにつれ、居場所が家に限定されず、誰かとの関係性のなかに自分の役割や働きを見出していく。自分を最大限に生かせる場所に身を置き、そこに使命を見出す時、人は真の意味で成人する。ユダヤでは13才で成人になるという。12才での出来事以降、少年イエスが成人すると、彼は公生涯に入る時まで親に従順する場所におられた。そして33才の「過越祭」以降、彼は神殿本来のあり方を熱情的に示し、「わたしの家は祈りの家と唱えられるべき」と語られ、十字架で命をささげられた。主イエスは今、われらの内を神殿としてお住まいくださる。神と人との関係性の中にこそ真の居場所がある。「祈り」のうちにいつも、主は共におられる。そこにわれらの永遠の居場所もあるのだ。(2024.6.16)

「聖霊」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「ルアハ」、ギリシア語では「プネウマ」で双方「風・息」という意味を含む。風は目には見えないが吹く方向は解る。聖霊に導かれてシメオンが向かった先には救い主との出会いが待っていた。彼はそこで本望を遂げることになった。誰でも思い残すことなく人生を歩みたいと願うが、聖霊はわれらを向かうべき道へと導かれる。高齢となった84歳のアンナは昼も夜も神に仕えていた。仕えるとは、神を礼拝することである。そこでは祈りがあり、賛美があり、感謝がある。体力がなくとも祈りは可能である。聖霊は祈りへと導き、救い主イエスとわれらを引き合わせ、尽きることのない喜びをもたらしていく。聖霊の風が吹いて教会は誕生した。この箇所は教会の原型である。マリアとヨセフ、二人の高齢者、多様な背景を持つ者たちが聖霊の導きによってキリストのもとに集められている。われらも教会で主イエスと出会い、このお方を知り、神が望まれる道へと遣わされていく。その方角には神が出会わせたい人との出会い、聞くべき声、語るべき言葉がある。自分の力ではなく、神の愛という息吹に身を委ねて歩もう。(2024.6.9)

ルカ福音書2章では「飼い葉桶に寝かされる乳飲み子」が3度登場する。それが救い主誕生の「しるし」であり、飼い葉桶に寝かされている主イエスこそが、救いのシンボルとされているのだ。「飼い葉桶」とは、家畜の「餌箱」である。あたかも主イエスが、その場にいる者に差し出されている食べ物のようである。ルカはベツレヘムで生まれたキリストを伝える。ベツレヘムは「パンの家」という意味がある。ヨハネ福音書では、主イエスが「わたしは命のパンである」と語り、「わたしを食べる者は生きる」と霊的な意味でご自身を象徴的に語られた。人が本当の命に生きるために必要な糧としてご自身を食べ物のように差し出されたのだ。愛する者のために与える物にも様々あるが、「わたしを食べよ」とは究極の与え方ではないだろうか。自分を生かすのではなく、相手を生かす究極の与え方である。飼い葉桶に寝かされた救い主は、主イエスの十字架での死を想起させる。人間の罪の餌食となって体が裂かれ、血を流されたのだ。それは私たちを罪から救うために差し出された命である。「神はそのひとり子を与えるほど世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)主の晩餐式を通して主の愛を分かち合おう。(2024.6.2)

詩人で画家の星野富弘さんの葬儀が前橋キリスト教会で執り行われた。星野さんは体育教師となって2ヶ月後、部活指導中の事故で首の骨を折り、24歳の若さで肩から下の一切の機能を失った。絶望の果てに出会ったキリストの言葉に救われた彼は、口に筆をくわえ78歳の生涯を終えるまで多くの人々に慰めと希望を与える作品を残した。彼は、どんな境遇や悲惨な状況のなかにも、幸せや喜びはあるのではないか?と問いつつ、病気や怪我も本来は幸・不幸の性格はもっていない。それを持たせるのは人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないか、と手記に綴っている(「愛、深い淵より」p.132-133)。次のような詩がある。「よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする 強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする しあわせが集まったよりも 不幸せが集まった方が 愛に近いような気がする(星野富弘)」星野さんは1974年、12月のクリスマス礼拝で洗礼(バプテスマ)を受けておられる。彼に生きる希望を与えた救い主の誕生。天使は告げる。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:11)「大いなる喜び」であるイエス・キリストの誕生は、居場所がなく、世の中の末端に追いやられた人たちに真っ先に告げ知らされた。重荷を背負わされて弱くされ、自由を奪われた小さな人たちがキリストのもとに集められた。神がひとり一人のいのちを慈しみ、永遠の愛を与えるために。(2024.5.26)

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