「自然は第二の聖書」と説く「スコラ学(School「学校」と同じ語源)」を継承していたガリレオ・ガリレイ。彼は、自然界の諸現象が「数学」の言葉で書かれていると想定し、神の作品である壮大な宇宙、この書物にある真理を数学的法則で解釈するという近代科学の方法論を確立した。聖書を読むにはラテン語を学ばねばならない時代、彼は聖書と自然は共に神の言葉に由来すると尊びつつも、聖書を字義通りに解釈する立場から生じた当時の教義(天動説)を鵜呑みにできず、観察、実験を通して検証を重ね、仮設を立証するという「信仰」と「理性」の観点から神の偉大さを伝えた・・・。  現代で起こる様々な事象、手に負えないような諸問題が連続する時には「考える事(理性)」を放棄したくなる。言語化できない苦悩は、われらを思考停止へと誘う。心が弱ると何でも無批判に受け入れてしまい、占いやカルト的極端な教義であっても「おかしい」とか「変だ」と考える余裕も奪われるほど洗脳されてしまう事例が現にある。自然や周囲の出来事は偶然で意味のない類ではなく、聖書では「神の言葉」と同義だ。天は神の栄光を物語り、大自然が数学的な言語で書かれている神の言葉であるとするならば、われらの眼前にある困難、試練、患難さえも「神の愛」を物語る恵みの言語として記され、われらに希望を伝えているはずである。(2022.7.31)

今月初頭に発生した携帯大手会社の大規模通信障害では3000万人以上が影響を受けた。先日はビジネス向け交流アプリ通信トラブルによって会議ができず、復旧を巡ってSNSでもつぶやきが相次いだ。「つながらない」という事態に接する際の労力や心の負担は相当に大きい。コロナとの共生の時代、集まる事の困難さに直面し、何かの手段で「つながる」重要性を認識したと同時に、「つながって」いなければ何も出来ないような場面にも会う。主イエスはご自身をぶどうの木、われらを枝にたとえられた。ぶどうの木は大木ではいが、下へと根を張って結実のため必要な養分を枝に配給する。枝に求められているのは「つながっている」事であって、何らかのトラブルやその原因について自力で解消に努める役割はない。われらは主イエスに「つながっている」者とされ、誰も孤立する事なく、神の愛を受ける者とされた。ゆえに「つながっていない」事に対する諦め、焦りや苛立ちから解消されている。既に恵みのつながりの中に生かされ、豊かな実を結ぶ事が約束されているのだ。同じく枝としてつながっている他者と互いに連帯し、厳しい現実を前にしても主の愛のもとで、共に望みを抱いて歩む者とされている。(2022.7.24)

カルト教団に特徴的なのは、信徒と指導者の間にある序列の構図であり、その組織力である。バプテストの教会は政教分離の立場を重視し、運営は民主主義を選び取る「信徒の教会」と言われる。牧師も信徒の一人であり、礼拝と牧会の専従者にすぎない。教会は指導力や組織力、教化訓練など支配力を追求すべきでない。それはハラスメントの温床となり得る。われらには階級も序列も修行などの訓練もない。ゆえに、隙だらけでゆるい組織かも知れない。それは、一人ひとり固有の人格的存在として大切にされることを重んじるからだ。むしろ隙のない組織は危険なようにさえ思う。個性や多様性が失われ、どこか閉鎖的で抜け道がなくなる。隙はあるが「風通しの良い教会」でありたい。献金したり、熱心に学ぶから愛され、救われるのではない。ひとり一人ありのままで既に神の愛を受けている。息苦しさが一新され、恐れが締め出されるような爽やかな風を受けつつ、聖霊の風に導かれるまま歩む群れでありたい。(2022.7.17)

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから・・・。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから・・・。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから・・・。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった・・・。」(マルティン・ニーメラー)牧師であったニーメラーの内には、教会はアドルフ・ヒトラーとその追従者らにイエスの福音を伝えたのか?との痛恨が宿っていた。福音宣教の使命を果たすべき教会の責任・・。 先日は仙台で刃物をもった人物が「刑務所に入りたかった」という理由で中学生を襲撃。さらに、前首相が銃弾で打たれるという選挙中の凶行報道に誰もが耳を疑った。五一五事件や二二六事件以降、わが国は戦争へと突入した。これらの様々な事件や出来事は、急速に今後の将来を決定付ける重大な転機にもなりかねない。今日は宣教開始56周年記念日である。時代は変わろうと、如何なる時も粛々と神の言葉と福音を宣べ伝える群れでありたい。(2022/7/10)

私は8歳の時にイエスを救い主として信じ、バプテスマを受けた。式のあと、教会の人たちから握手を求められ「おめでとう!」と祝福された。ある方はハンカチで大粒の涙をぬぐいながら喜んでおられた。今でも鮮明に覚えている。クリスチャンとしての<歩みが始まる前>に祝福されたことは、後々何度も思い起こされることになった。何か良い立派な行いをしたとか、まだ何もなし得ていないのに喜ばれている。ただ、私の存在を喜び、今の自分が祝福されている。私にとっては励ましとなる実に嬉しい出来事となった。神の選びと愛は、われらが生まれる以前から存在するのだ。受け持ちのクラスの留学生が先日、ヨハネ15:16にある「選び」について自ら一所懸命に書いた「日本語」でレポートを提出してくれた。「この言葉は、あなたが神様に必要とされていることを意味しています。あなたが生きていることを選んだのではなく、神様があなたを選んだのです。神様のメッセージは誰もが愛されるべき存在であるということ。みんな悲しい日々を過ごしてきたけど、あなたは愛されているんだよ」アーメン。(2022.7.3)

教会近くの台原森林公園には「ホタルの里」がある。毎年6月は楽しみのひとつだ。蛍が飛び交う幻想的な乱舞、人為的ではない自然の光景に心が和み、癒される。ここには敵意もなく、恐怖もない。誰もがウットリと静かに平和の時を過ごす。神は平和を望まれる。さらに「敵を愛しなさい」という最も困難な道を示される。「If you want peace, you don’t talk to your friends....

6月23日は沖縄での激戦が終結した日とされる。1945年太平洋戦争末期、沖縄では3ヶ月で県民の約4人1人が犠牲になった。青い空と珊瑚礁に囲まれた自然豊かな島で起こった凄惨な歴史は、今なお語り継がれる。もう二度と繰り返されないために・・・。主人公が沖縄出身のドラマ「ちむどんどん(「ドキドキする」の意味)」が現在放映中だが、「ちむぐりさ(肝苦りさ)」という沖縄の言葉がある。「かわいそう」に近い言葉だが異なり「あなたが悲しいとわたしも悲しい」という意味で使われる。上から目線ではなく相手の痛みを自分の事として胸を痛め、辛い思いをしている人と連帯する言葉だ。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)に通じる。本土復帰50周年の節目にあって沖縄の痛みに心を向けてほしい。日本にある軍事基地の約70%は沖縄に集中している。防衛費として膨大な税金が投入され南西諸島ではミサイル基地が次々に建設されている。有事になったら真っ先に攻撃対象となるのはどこか?「沖縄の問題」とされていないか?「ちむぐりさ」という共感性を取り戻したい。(2022/6/19)

北京冬季五輪で銀メダルに輝いたカーリング女子の吉田知奈美選手。試合後の会見では「チームで大事にしてきたのは『弱さの情報公開』」と語った。この言葉は当事者研究で知られている向谷地生良さんの言葉で、北海道にある「べてるの家」の活動理念のひとつである。彼女の座右の銘である「安心して絶望できる人生」もそうだ。向谷地さんは浦河教会の会員で、100人以上の精神的疾患を経験した当事者らに住まいと作業場を提供し、共同生活をしながら町おこしに貢献している。施設では「弱さ」は克服すべきもの、強さに向かうプロセスではない。「弱さ」そのものに意味があり、価値を見出す生き方を選び取る。「強さ」や「正しさ」に支配された価値観の中で「弱さ」に向き合い、それを公開して互いの絆にしていくこと。それが尊ばれるのである。吉田選手は「メンタルは強化しなくていい。弱さでつながっているチームだから」とも語った。試合前プレッシャーで弱音をはくメンバーに「もっと緊張していいよ」と声を掛け、自らも仲間を頼る。互いの弱さ隠さず共有することが大事にされた。使徒パウロは主によって「弱さ」の中にある恵みに気付かされ、「弱さ」「無力さ」の価値を見出すに至った。彼も弱さの情報公開者である。教会も「強さ」を披瀝し合うのではなく、弱さを誇り繋がる群れである。(2022/6/12)

聖書(旧新約)の翻訳言語数は717言語。聖書の一部や分冊、手話言語等を含めると3495言語に達したとの報告がある(出典:世界ウィクリフ同盟2021.9月)。実に多様な言語に今も神の言葉が伝えられている。「星の王子さま」「ピノキオ」等のベストセラーでさえ翻訳は300言語に満たない事からも唯一無二の書だ。現在、聖書翻訳プロジェクトが進行中の言語数は2217言語、将来的には更に1892の言語に訳される必要があるという(出典:Wycliffe Bible Translators)。五巡祭(ペンテコステ)は、ユダヤではシナイ山にてモーセが神の言葉を授かった記念日でもあった。ペンテコステの日に降った約束の聖霊。そこに集まっていたあらゆる地方の人々は、各人の故郷の話す多様な言葉で神の偉大な業を聞いた(使徒2:11)。聖霊の風は今も吹いて実に多様な人々に、多様な方法で神の愛と言葉を伝え、希望を与え続けている。(2022.6.5:ペンテコステ礼拝)

今年は三浦綾子生誕100周年となる。彼女は教員時代、軍国主義教育に熱心であったが敗戦後、教科書の黒塗り作業に虚無感を抱き教壇を去った。24歳の時、結婚を目前に肺結核を発症し婚約は解消。生きる意義を見出せず自暴自棄になって入水自殺を試みるが叶わず、更に脊椎カリエスを併発し絶対安静、絶望の日々となる。その頃、幼なじみの前川を通してキリスト信仰が与えられた。以降彼女は神の愛に希望を抱き、伝道目的で執筆活動に入る。出世作「氷点」は、長寿番組「笑点」の命名に影響を与えるほど旋風を巻き起こし何度もドラマ化された。自ら病気のデパートと称しながら「こんな病気ばかりしているわたしは、もしかしたら神様にえこひいきされているのではないか」と病気を悲観的にとらえず、絶望を見つめた先で出会った神の愛によって多くの作品を生み出し、彼女の抱く希望は実に広く波及した。星野富弘さんは事故で首から下を動かせなくなって絶望の淵にいた時、聖書と三浦綾子の「塩狩峠」を読み希望を得たという。口で筆を加えて見事な絵画と詩を書き、今も人々に希望を与え続けている。「私の小説も随筆も、絶望を希望に変えることのできる神様を示したいからです。」(三浦綾子「愛すること生きること」より)われらの抱く希望は、絶望から希望を生み出す恵みの連鎖となっていく。(2022/5/29)

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