小学校に入学した当初、同じ学校の上級生とのふれあい会があった。教室にゾロゾロと入って来たのは、すらっと背の高い6年生のお兄さんお姉さんたち。1年生になったばかりの小さな私にとっては、自分の背丈の倍はあるかのような巨人にうつる。固唾を飲みながらまるで高層ビルを見上げるような感覚でいると、私と目があったお兄さんが自分のところに近寄ってきてニコッと優しく声をかけてくれた。彼はその場にしゃがみこんだままの姿勢でずっと隣にいて一緒に絵を描いてくれたのを今も覚えている。主イエスは山を降りて「平らな所」に立たれた。山の頂や高い所ではなく、集まってきた人々と同じフラットな位置におられる。彼は、神の身分でありながら私たちと同じ人となり、私たちと同じところにいてくださる。威圧的に上からものを申すのでもなく、私たちと同じところにいる。生きることの悩み、苦しみ、痛みを同じように知る者として。(2024.11.24(日)-子ども祝福式-

主イエスは祈るために山に行かれ、祈りのうちにご自身の使命を見出された。祈ってから弟子たちを選ばれ、それ以降、弱さと欠けのある多様な面々の弟子たちに出会い、彼らをありのまま受けいれて共に歩み、最後まで愛し抜かれた。祈りが手段になるところでは、人間の願望達成が目的と成り下がる。祈りは手段ではなく目的である。その主要な目的は、人間を神に接近させることである。人間は不完全であるがゆえに、絶えず神に心を向けて祈るのでなければ、決して普遍的な正しさを維持することはできない。神を求めて祈り、その招きと御心に応じることによってのみ、われらはより高い次元で、神の協力者として立ち上がらされる。われらは祈りにおいて神を思索するのではなく、神を抽出する。われらは不完全さを常に知らされなければ傲慢となって感謝や恵みを見失ってしまう。しかしそこで神を求め、このお方を知ることによって、最後までわれらを愛し共に歩まれる神とその愛に出会うのである。神を知ることは人生の目的に通じているのだ。(2024.11.17)

聖書の戒めの底辺にあるのは個人の命の尊重。とりわけ弱くされた命に対する神の慈しみである。主イエスは何よりも目の前の命を優先し、大事にされた。「命のビザ」で知られる杉原千畝、彼は第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人狩から逃れてきた難民約6000人以上を救った。だが彼の手記によると一晩中、葛藤したようである。連日リトアニアの日本領事館にビザを求めて押し寄せる人たち。東京からの回答は「拒否せよ」。違反すれば昇進もなく処罰も免れない。だれもが政府に従うところ千畝は苦悶の末、ついに「命」を優先する。彼は、キリスト者として常に神に促された「愛と人道」の精神があった。「外交官としては間違ったかもしれないか、人間としては当然のことをした」と述懐している。「安息日」の戒めはユダヤのアイディンティティーと言われ、現在も安息日の規定がある。「安息日」は労働禁止であるが、「特例」がある。それは「人命救助」の場合だ。ユダヤでは現在も特例として救急車の出動などは許可される。しかし、「軍事行動」も特例という。律法の解釈を巡って本末転倒していたキリストの時代、今も主イエスの言葉がイスラエルに響く。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』ルカによる福音書6章9節(2024.11.10)

深まる秋、杜の都仙台では草木が紅葉し、色づくグラデーションの光景に思わず見惚れて足が止まる。芸術の秋、食欲の秋というが、この時期に堪能できる自然の恩恵に感謝しながら、何事もなく平穏な日常を過ごせることの有り難みを想う。季節も物事も変化に富み、世の中は目まぐるしく移り変わってゆく。何気ない誰かの言動によって心が穏やかでいられなくなったり、突然の事故や病を煩うと日常は一変する。落ち着こうとしても、なぜかコーヒーカップを持つ手が震え、動揺を抑えられない時、そばにいて平穏を取り戻す根拠を見出せるならどんなに心強いことだろう。よく発達した台風の中心には、台風の目と呼ばれる静寂な区域が生じている。暴風域にあってもその活動が中断される平穏な地帯が存在する。「安息日」は、「休み」「中断」を意味する動詞から派生した。主イエスは「安息日の主」として、われらが制御できない心の激しい荒波をも中断させて凪にし、落ち着きの場所を備えられる。詩編23編には、神と人間が羊飼いと羊に譬えられている。「主は羊飼い。・・わたしを青草の野に伏させ・・・正しい道に導き、魂を生き返らせてくださる。死の陰の谷を行く時も災いを恐れない・・・」主イエスは良い羊飼いとしてわれらと共におられる。荒れ狂う嵐のような試練の波におびえるような日にも安息の場に導き、たとえ揺らいでいてもしっかりとお支えくださる。われらはすべての恵みを備えて養われるこのお方に信頼し、平穏を生きる道にきょうも招かれている。(2024/11/3)

秋空に描かれる飛行機雲。上空を駆け抜ける飛行機を見ても今は腰を抜かす人はいない。昔は考えられなかった事が現代では当たり前になっている。もし50年前の人に最新のスマホとその機能を見せたら、きっと目を丸くして大興奮するに違いない。だが、新しいものほど最初は誤解や批判の対象となりやすい。スマホのスクロール機能は当初操作しにくいと不評だったが、今ではほとんどの人が普通に使いこなしている。新しいは普通になってゆく。主イエスの教えや行為ほど当時誤解され、批判されたものはない。けれどもよいものだったので残り、彼を排斥したグループは歴史から姿を消した。常識や習慣が常に正しいとは限らない。何事も先入観や偏見で決めつけない柔軟性。それは新しい革袋のようによきものを生み出し、新しい気付きへと心を向わせる。キリストの愛が大きく広がり、世界を変えて行ったように、よいものは必ずスタンダードになってゆく。「古いものが良い」と人は言うが、それも当初は新しいものが熟成されていったに過ぎない。思い通りにいかぬ事、価値観の異なる人との出会いもまた「新しい」に過ぎない。それを受け入れるしなやかで柔軟な心。そこから活き活きとした喜びが発酵し、芳醇なる感謝がキリストの愛と共に熟成されてゆく。(2024.10.27(日)

レビという人物は、「カネ」のために名声も家族も祖国も捨てた人物だったようである。当時、徴税人という職業はローマ帝国から委託を受け、植民地となっているユダヤの同胞から税を集めた。その際、規定の金額に上乗せして徴収した額を収入として懐に入れることができるので利回りも良かった。しかしその反面、敵国に加担する売国奴、さらに同胞から搾取して利益を得るような非道な人物として罪人とされていた。主イエスは徴税人レビに目を留め、「わたしに従って来なさい」と招かれた。すると彼は主イエスに従い、自分のために稼ぐだけの人生から、当時社会的に排斥されていた人たちをもてなし施す者に変えられた。後にマタイと呼ばれるキリストの弟子となる。一般にキリスト教ではこのような出来事を「改心」ではなく「回心」と呼んでいる。英語ではconversionであり方向転換を意味する。主イエスは言う。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31-32)と。ルカ福音書では、金銭に執着する者の末路や愚かさを引き合いに、主イエスとの出会いによって個人が「回心」する物語、そして「回心」からはじまる「喜び」へと読者を導く。(2024.10.20)

「新約聖書」改訂新版(岩波訳2023)では、体が付随になった人に向かって宣言する主イエスの言葉を現在完了形で忠実に訳している。「人よ、あなたの(もろもろの)罪は、あなたには(もう)赦されている」(20節)当時、重病人や生まれつき体が不自由な障碍者は、本人か先祖等の罪の結果と見られる傾向があった。主イエスの現在完了形での「赦し」は、神からの天罰を受けているとされ、苦しめられていた人を解放する救いの宣言であった。・・・結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病と闘いながら生涯祈りの中で文学を紡ぎだした三浦綾子。彼女の代表作「氷点」は発表されて以来何度もドラマ化や映画化もされている。この物語のテーマになっているのは、誰もが生まれながらにして宿っている人間の「罪」という問題だ。作品の中で絶望感に襲われて書いた登場人物の言葉がある。「けれども、今、『ゆるし』がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしいのです。」(三浦綾子『氷点』より)作者によれば、人間の救いは最も深いところで「自分は生きていてもよいのだ」、という現在完了形の「赦し」、そこから得られる希望をキリスト教信仰を通して伝えているのかもしれない。われらも今、神に赦され生かされている。(2024.9.22)

河北新報「みやぎひと道」に仙台教会(北四番丁)の吉永馨氏(95)の記事が連載中(2024.8.26〜全14...

長崎で被曝し、神父となった小崎登明さん(1926-2021)が生前、常に語っていた言葉がある。「他人の痛みをわかる人間になることが平和の原点だ」。主イエス・キリストの平和、その誠実さは、人の痛みや労苦を知ろうとされる歩みに現れている。湖畔にて、主イエスの面前には群衆が押し寄せていた。だが彼が目を留めていたのは2艘の舟と網を洗う漁師の姿。徹夜の努力も徒労に終わり、舟には捕獲した魚が一匹もない。彼らの様子を見ておられたイエスが近づいてペトロの舟に乗られ、群衆に神の御言葉を語られた。ペトロは一番近くで聞きながらも、おそらく全く耳に入らなかった可能性がある。生活がかかっているのに不漁だった現実は、身も心もいっそう疲弊へと向かわせる。明日からどうなる?きっと自分の事で頭が一杯だったと思う。イエスが言う「沖へ漕ぎ出し網を降ろしなさい」と。彼が答える。「夜通し働いでダメでした。でも<お言葉>ですからやってみましょう」と。一見、信仰的ともとれるが、ペトロの言葉は嫌味ともとれる。後者の場合、魚の漁れる時間帯でないのだからイエスの言葉は常識的に通じないという現実を証明して見せよう、そんな動機だ。しかし結果は、舟が沈みそうになるくらいの大漁となる。彼が驚愕のあまり恐ろしくなって罪を自覚したのは、不純な思いで従ったからとも読める。ペトロはイエスを「先生」から「主よ」と呼んで、主の弟子となった。自分の都合だけを考える限り、神の望まれる道に踏み出すことはできない。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(年間聖句)と、神の御言葉はわれらを恵みの沖へと今日も招く。(2024.8.25)

夕暮れ時。主イエスのもとにたくさんの病人が連れて来られた。彼はその一人ひとりに手を置いて癒される。以前、シルバー川柳で「お医者様、パソコン見ずにおれを診て」という作品があった。自分という存在を重んじてちゃんと向き合ってほしいという願いはだれにでもある。すぐに「薬を飲め」と言われるより、まず「だいじょうぶ?」と案じてくれる存在。「ここが痛むの?」と優しく背中をさすって側に寄り添ってくれる。そんな相手がいると人は病のなかにあっても慰めを受け、それが癒しとなり得る。一人ひとりに手を置く主イエスの「手」は原語では複数形、つまり「両手」である。片手間ではなく、相手と向き合っている姿であろう。大事なものを丁寧に扱うためには両手を使う。主イエスは効率とか組織的で素早い働きを目指すのではなく、目の前にいる者をぞんざいにされず、何より大事に接しておられるようである。敗戦79年を数える今年。戦争は全体主義が暴走する。個人の命よりも国家が大切にされてしまう。神にとって一人ひとりの命は何より大事。その愛の言葉を主イエスにおいてわれらに伝えておられる。「あなたが大切だ」と。(2024.8.4)

さらに表示する