「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13:7)とある。「忍ぶ(ステゴー)」の本来の意味は「口を覆って語らない」の意と言う。われらは時々愛するものに意見をして悪いところを改めさせようする。だが、愛は相手に変わることを強要しない。ただ信じ続け、望み続け、それでも変わらない場合は「すべてに耐える」ものだと言う。イエスは多くの苦しみを担って嘲弄され、鞭打たれ、死の宣告を受けるという受難の道を先頭に立って進まれる。しかし弟子たちは相変わらず誰が一番偉いかというポジション狙い。今度はヤコブとヨハネが然るべき権力の座に就きたいと願う。三度目の受難予告にもかかわらず、彼らは全く分かっていない。一向に変わらない。自分が偉くなれることを期待し下心を抱いてついて来たのかと思うと愕然とし、イエスにとっては寂しさや孤独感が強まることであろう。にもかかわらず、彼は弟子たちを受け入れ続けて諦めない。ただ信じ、忍ばれる関わりの中で繋がろうとされる。この弟子たちへの忍耐において神の愛が示されている。同様にわれらも忍ぶ愛によって生かされている。 (2021.6.6)
 盗まず、姦淫せず、偽証せず、父母を敬う・・・。善いお方である神の戒めを守って来たと即答する人。世の中では人生の成功者であったが、永続する生き方をイエスに求めて彼は問う。イエスは彼を慈しみ、見つめながら言う。「あなたに欠けがひとつある・・。持てるものを手離して我に従え」と。彼は自分と対極に生きる者とは共生できないでいた。多くを持つがゆえに、何も持たない人の心が欠けている。彼は、顔を曇らしその場を立ち去る。その後、財産持ちは神の国には入れないという話かと思いきや、人のところでは不可能でも、神のところではできる、とイエスの言葉。それはこの立ち去った者に可能性を残しているように思う。「後の者が先に、先の者が後になる」という帰結にも繋がる。渡辺和子さんの著作※に次のような話がある。ある人が掌に入るくらいの小石を、手術前の患者に握らせる。その小石には平仮名で「だいじょうぶ」との文字。受取人は「きっと成功するんですね。」と喜ぶ。するとその方は、「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでもだいじょうぶ。そういう<だいじょうぶの小石>なんですよ」とおっしゃる・・。そういう話である。願い通りにならなくても、神は善いお方だから、決して悪いようになさらないという信頼の話だ。今朝の記事に登場する彼は、失敗してはダメだ、転んではいけない、と必死だったのかも知れない。そんな彼を慈しみの眼差しで見つめるイエス。どちらであっても神の愛は変わらないという眼差しに思える。善いお方である神を信頼せよ、永続するのは変わらぬ神の愛にあると。「ああ、主のひとみ」の作者である井置利男氏は、自分は救われないと自暴自棄に陥ったとき、裏切る弟子をも愛をもって見つめられる眼差しが自分にも向けられていることに心を打たれ、この讃美歌が生まれたという。主イエスの愛と慈しみの眼差しは今日もわれら一人ひとりに。「私が共にいる」と、だいじょうぶの眼差しを注ぎつつ。(2021.5.30) ※「忘れかけていた大切なことp.62-63」PHP出版
聖霊降臨の記念日であるペンテコステ礼拝は教会暦では毎年5月か6月頃の初夏に迎える。風薫る5月。野に咲きはじめた花の香りを運んでくれる春の風や、青々と茂った樹木の間を爽やかに吹き抜けていく初夏の風。そよぐ風に薫る若々しい緑の草木を照らす光を浴びながら思わず深呼吸したくなるような心地よい季節だ。ペンテコステの日に吹き渡った聖霊の風は、集められたひとり一人にキリストによる愛の香りを運び、新しい恵みの窓を開いて自由と希望の世界へと導いて行った。以前はイエスを裏切り、恥と自責の思いに打ちひしがれ、表舞台に出られなかった弟子たちに新しい生命の風が吹いた。自分の弱さや惨めさが茂った心を吹き抜け、枯渇した魂を神の言葉を伝えずにはおれないほどの力で満たし、神の恵みの風通しが円滑となった。もはや自分の力ではなく、上からの力によって神のわざをあらわしていく大いなる扉が開かれたのだ。聖霊は、今もひとり一人に希望の息吹を送られる。主イエス・キリストの十字架における愛を指し示しつつ。(2021.5.23)
幼いRくん。彼はイエスさまと遊んだ夢を見たと話す。かくれんぼに追いかけっこ。電車ごっこで一緒に連なり庭中を駆けまわって物凄く楽しかった!という。彼はイエスさまと両手をつないだまま見つめ合い、こう尋ねる。「ねぇ、ずっとずうっーと、いつまでも、いつまでも、僕と遊んでくれる?」するとイエスさまは「いいよぉー!」とニッコリ。満面の笑みで答えてくれたのだそうだ・・・。「夢」の中での話である。でも、子どもを祝福されるイエスは、きっとそんな人格の一面をお持ちであろうと私は思う。「大人」として神の国をとらえる弟子たち。大人社会では子どもは時に仕事の邪魔となり、追い出されてしまう場面もある。自分勝手で物事の分別において未完成のままだから、未熟な者には「大人になれ」と嗜める。しかし神の前では「大人である」ことが要求されているのではなく、「子」のままで招かれている。神の国では、自らの偉大さや実力によるのではなく、他者に連れられねばならないような<無力さ>において、即ち神に信頼せずには生きられない関係においてこそ、神の愛と祝福に出会うのだ。イエスはご自分のところに来る者を誰も拒まないお方として今もわれらを招く。それを妨げようとする者への厳しさ、激しい憤りのなかに、イエスのどんな小さな存在でもありのまま受け入れる愛と優しさがあらわれているのではないか。連れて来られた子らを腕に抱き、両手を置いて祝福されるイエス(16節)。彼のもとでは期待以上の喜びと祝福に包まれていく。(2021.5.16)
「男」を主語として離縁の可否を訪ねる場面(2節)。「女」の人権は無視されている。だが、イエスは当時の男女不平等社会において、「女」側の選択肢をあえて提示している(12節)。この視点を看過すべきではない。イエスにおいては当初から男だから、女だからという関わり方ではなく、それぞれ個別に応じられるお方のように思う。その意味で、性的差別のないジェンダーレス的?な面がある。しかし、彼自身が所謂該当者か否かという議論はここでは避けたい。聖書には男子として誕生したとある。もし、現代でいうL.G.B.T ・・・A.I.Qと言われる多様な性的指向、性自認者と出会ったならば、イエスはどう接されるであろうか?男と女という性の枠組みのゆえに苦しみ、声を上げることも出来ずに心傷んでいる方を置き去りにすることは、神の意志だろうか?「どなたでもお越しください」と教会は招く。性差別は重大な人権問題だ。日本バプテスト連盟も「性差別問題委員会」があり、われらが気付くべきこと、少数派であるがゆえに声を上げることができず、苦しみを抱えておられる人のその心の痛みというものを分かり合おうと働きかけがなされている。小さくされている者の解放を目指すのはイエス・キリストの福音の業である。イエスにあっては差別なく、すべての人を生きる居場所へと招く。もはや男も女もギリシア人もユダヤ人の区別もない。キリストにおいて一つに結ばれている(ガラテヤ3:28)。あなたも私もキリスト・イエスにおいて、ありのまま受け入れられているのだ。われらはそのような無限の包容力のなかではじめて、自分が愛されていることを知る。性別の良し悪しの問題ではない。神が主イエスにおいて結び合わせておられる愛から引き離されるものは何もない。(2021.5.9)
本書の執筆時代はローマ皇帝ネロによるキリスト者迫害の背景を否めない。キリストの名で呼ばれる者は、大きな権力の下で命を小さくされ、世の中から排除される対象でもあった。その小さき者を躓かせるような者に対する手厳しい比喩(42節)は、逆説的にキリスト者への最大限の評価とも言えよう。「地獄」と訳されている原語(43節)は「ゲヘナ」。エルサレム南方にあったゴミ処理場の谷を指し、そこでは火が消えず、犯罪者等の遺体も焼却され悪臭を放っていた。人々はここを神の裁きの場所と考えるようになる。「蛆(ウジ)」(48節)は一般に忌み嫌われる対象で最低の評価を受ける事があるが、歴とした生命である。現代では壊死した皮膚組織を治療するマゴットセラピーや食糧危機からの救世主として研究対象となっている。世の中では強い者が弱い者を虐げ、大きな者が小さい者の命を排除しようとする現実がある。しかし、権力の座で驕る者たちは自分たちが邪魔に思う存在を完全に排除できない。彼らが忌み嫌う小さな命と絶えず共生する事になる。さらに「消えぬ火」は、ここでは塩付けにされる目的があって防腐の役割を果たす。火も蛆も神の裁きの象徴であると同時に、腐敗を浄化する神の救いを示すものではないか。この記事におけるイエスの結語は「互いに平和に過ごせ」(49節)である。これまでキリストの名を巡って敵や味方(40節)、弟子たちは誰がいちばん大きい者か(34節)が問われるが、彼のもとではもはや敵も味方もなくノーサイド。イエスはわれらに恐怖を与えて脅すのでもなく、敵や罪人退治の話をしているのでもない。彼は共に生かされる道を示し、互いの断絶をもたらす壁を焼き払われるのだ。神は善人にも悪人にも雨を降らすお方というが、ここでも矛盾はない。どんな被造世界も、キリスト・イエスにおいて示された神の愛からわれらを引き離すものはない。(2021.5.2)
「誰が一番偉いか?」と議論する弟子達。イエスは「いちばん先(当時「第一の者」とは行政の長や皇帝をも意味した)になりたい者は、仕える者(召使・奴隷の意味)になれ」と言われる。偉いのは、他人を支配して私服を肥やしたり、威張り腐ったりするような者ではない。たいへんで辛いことも「えらい」と言うが、楽ではなく苦労する立場こそイエスの生き方に近い。他人よりも大きく優れているとか、自分の能力や地位によって一喜一憂する生き方ではなく、目の前にある困難や辛く面倒なことを受容する態度にこそ「偉大さ」がある。イエスの生涯は人の上に立って人を見下す者ではなく、下に立って苦しむ道を進み行かれる。彼の行く手には受け入れ難い試練の連続であった。無理解な弟子たちを受け入れ続けて共に歩み、ご自身で選んだ者を見限らず愛し続けられた。愛するのは「えらい」事であり、辛くて痛い。だが、彼は偏見なく出会う者をどんな小さな者でも受け入れて愛し、不当な裁判も侮辱もすべて十字架上で引き受け死なれた。しかし、神は彼を復活させ、今も生きてわれらと共に歩んでおられる。どんな小さき者であっても偏見も差別もなく、ありのまま受け入れ、共に歩んでくださるのだ。このお方にあってわれらも「えらい」ことに価値を見出す。(2021.4.25)
春到来。新しい芽が生え出る季節、希望の蕾が膨らむ。息子の深刻な症状に苦しむ父親がイエスに希望を抱く。「何か、おできになるなら助けてほしい」と。「何か、ですと?信じる者は一切が可能だ」とイエスが父親に問う。即座に父親は「信じます。<信仰のない私>を助けてください」と叫ぶ。「信じる」と言うのに「信仰がない」私を助けて・・、という矛盾した願い。父親はイエスに全幅の信頼を寄せたと同時に自己の不信仰を意識したのだ。自らの<不信仰を自覚する時>こそ、神が期待しておられる<信仰が芽生える時>である。信仰は自らの側に生ずる力ではなく、神から賜る恩恵である。われらは自分に力はないという自覚にある時、必死に神に信頼せずにはおれない。だが、そこにこそ希望が存在するのだ。かつては床が抜け、水道管が破裂し、十字架塔の屋根が剥がれ、教会堂は倒されそうな状況だったこの教会。ここに登場する息子の症状ではないが事態は深刻であった。自己資金では倉庫しか建たない経済力。けれども自分たちには力がないからこそ芽生えた信仰。神を礼拝し、信頼し続ける歩み。今月、献堂から13年目にして新会堂建築費を滞りなく完済に至った。神は一切の必要を満たしてくださり、主は今も生きておられることをお示しくださっている。「祈り」は、「信仰を神に求めること」と同義的である。われらは、キリスト・イエスにおいて示された神の愛から引き離されず、今日も主を礼拝しする群れとして歩み続けることを許されている。感謝。(2021.4.18)
「モーセ。彼は人類史上初めてクラウドから十戒をダウンロードした・・・」聖書ではクラウド、つまり「雲」は神が顕現する臨在の象徴としてしばし登場する。礼拝は神の言葉を天のクラウドから教会というアプリを通じてダウンロードするのに似ているのかも知れない。神の御心を知り、慰めと励まし、生きる勇気と希望を心にインストールするクラウドサービス(礼拝)ともなり得る。高い山にてイエスの姿が純白に変わり、神々しい栄光を目撃したペトロは興奮してか、見当違いなことを口走る。栄光の姿はクラウドに隠れ、そこから神の声が響く「これはわたしの愛する子、これに聞け」もはや、そこには栄光に輝く姿ではないイエスが弟子たちと共にいた。イエスは栄光とは呼べぬ受難の道を行かれる。聖書は天における神の栄光が賛美されるが、神の身分から降りてこられた方は、受難のしもべとして十字架の道を歩まれる。災難に遭わない生き方ではなく、被害者、犠牲者の側にいる姿で地上を歩まれた。不条理と不遇の極み、苦悩する者と共に呻き、涙を流す姿で人々と共におられた。栄光の道を退け、みすぼらしく、貧しい姿で苦しみを受け、排斥され、見捨てられ、敗北、屈辱の極みである十字架にかけられ、殺される道を歩まれた主イエス。栄光の座からの方向転換、受難へと向きを変える姿でメタノイアしたお方。クラウドからの声は言う「これに聞け」と。(2021.4.11)
「終わった・・・。」と、人間が終止符を打つような出来事を神は句読点とされる。神のご計画の中では、人間の宣告するピリオドは、大いなるカンマ(区切り)に過ぎない。絶望や挫折、そこから新しく展開する道、神が一切のことを良い方向に仕上げてくださる希望が存在するのだ。「神を愛する者たちつまり(神の)計画に従って召された者たちのためには、一切が良い方向へと働く、ということを我々は知っている」(ローマ8:28田川訳)。その根拠はキリスト・イエスにおいて示されたお神の愛にある。「彼はもう終わった・・」と、神と人から見捨てられる結末に思えたイエスの十字架。だが神は、イエスを復活させ、死という命の終焉を復活の初めとされた。常識では信じられない。だからこそ信じるべき希望が差し出されている。コロナ危機にあってわれらは変化を余儀なくされた。今までの常識が通じず、発想も根本からの転換が求められる時代に置かれている。しかしそこでもわれらは、すべてが最悪に向かう道に招かれているのではなく、この方によって示された神の愛、一切が良い方向へ働く道に招かれている。たとえ、人と人が離されるこの時にあっても、神の愛からは離されない。「もはや、死も、命も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8:39)この確信は、更新されて行く。(2021.4.4)

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