2026/07/12
詩編106編は、輝かしい成功ではなく、失敗と背信の歴史を描きながら、それでも神が民を見捨てられなかったことを賛美している。人は移ろいやすい。熱心であったかと思えば冷め、忠実であったかと思えば迷い、時には神に背を向ける。しかし神は違う。人間の不誠実を超えてなお誠実であり続け、約束を決して捨てることはない。この告白は、教会の歩みにも重なる。1966年の宣教開始以来、ボートライト宣教師夫妻の働き、教会設立、牧師の交代、新会堂建築、東日本大震災での避難所としての役割、そしてコロナ下における礼拝の継続、病いや別れなど多くの困難があった。しかし主は恵みをもって、ひとつ一つの必要を備え、今日まで守り導いてくださった。60年前の定礎式で納められたタイムカプセルには、「私たちが一本の釘の役目でも果たせたら幸いだ」と記されたカードが残されていた。建物の目立つ部分ではなく、見えない場所で建物を支える一本の釘。この精神は、目に見えないところで奉仕を支える一人ひとりの祈りや働きとして、現在も継承されている。『主は恵み深く、慈しみはとこしえに。』この告白を胸に、神の変わらぬ愛に支えられながら、これからもこの地で福音を証ししていきたい。」(2026.7.12)

2026/07/05
現代社会には、目に見えない無数の境界線が引かれている。病む人と健やかな人、仲間と部外者、成功した人と挫折した人という線引きである。人は自分が線のどちら側にいるかに一喜一憂し、ときに心の中に分断の壁を築いては孤独を深めていく。聖書には、まさにその境界線上で起こった劇的な出会いが記されている。舞台はサマリアとガリラヤの間の空白地帯。そこには社会から隔離された十人の重い皮膚病を患った人々がいた。本来なら激しく敵対していたユダヤ人とサマリア人が、歴史や宗教の壁を越え、差別と苦難の中で一つの共同体を形づくっていたのである。イエスは彼らに祭司のもとへ行くよう命じられた。彼らはその言葉を信じて歩み出し、その途中で癒やされた。しかし、神を賛美しながら引き返し、イエスの足もとにひれ伏して感謝したのは、ただ一人のサマリア人だけであった。九人は失った日常を取り戻すことを急いだが、この一人は恵みを与えてくださった方を見失わなかったのである。現代にも多くの分断がある。しかし主イエスは、人が引いた境界線のこちら側でもあちら側でもなく、その境界そのものに立って私たちを招いておられる。主の足もとこそ、誰も排除されない真の居場所であり、境界線を越えて賛美が響く、希望に満ちた新しい人生の出発点なのである。(2026.7.5)

2026/06/28
「仏の顔も三度まで」という諺は、どれほど穏やかな人でも度重なる無礼には限界があることを示す。人間関係の現実をよく表した言葉である。われらも日々の中で傷つけられ、怒り、赦せない思いを抱えることが少なくない。だが主イエスは、その常識を超えて語る。「もし相手が悔い改めるなら、一日に七回罪を犯しても赦しなさい」と。七回とは回数ではない。何度でも赦せという徹底した招きである。弟子たちは「わたしたちの信仰を増してください」と願った。しかし主イエスは、必要なのは大きな信仰ではなく「からし種一粒ほどの信仰」だと語られた。そして命じられた務めを果たしたなら、「しなければならないことをしただけ」と言いなさいと教える。和解と赦しは特別な英雄の業ではなく、人としての務めだという逆説的な励ましである。主イエスは十字架の上で、自らを苦しめる者のために「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた。この愛と赦しの御顔を仰ぐところにこそ、まことの平和がある。赦しとは罪を軽く見ることではなく、不条理を受け止めつつも憎しみに支配されない自由を選ぶことだ。アブラエーシュ博士は娘を失いながら「私は憎まない」と語り、キング牧師も「憎悪を追い払うのは愛だけだ」と説いた。報復は報復を生むが、赦しはその連鎖を断ち切る。分断の深まる時代、主が蒔かれた赦しの「からし種」を心に守り続けたい。(2026.6.28)

2026/06/21
現代社会を見渡せば、戦争や軍拡の足音が響き、スーパーでも白黒の商品が並び始めた。戦争経験者らは、今の雰囲気が戦前と似通い始めていると懸念を抱く。かつて日本が泥沼の戦争へと突き進んだ時代、街から色が消えたという。「互いに愛し合いなさい」との主イエスの言葉は、固有の色彩を持つ個人の尊厳を侵していく戦争と対極にある。沖縄戦では、本土決戦の捨て石とされ、国家の目的のために多くの民間人が命を落とした。「命どぅ宝」という叫びは、その犠牲と悲劇の中から生まれた平和を希求する言葉である。主イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と繰り返す。この言葉は、暴力や搾取、戦争はやむを得ないという動きに対して、毅然と「NO」と言える強さの源泉だ。愛とは、相手の「固有の色」を認め、それを守り抜くことに他ならない。時代は変わった、と人は言う。だが、決して変えてはならないものがある。それが「互いに愛し合う」という、極めてシンプルで、極めて困難な命令だ。武力なき平和を願う時、「そんな話はお花畑の理想論だ」と揶揄する人がいるかもしれない。しかし、「百花繚乱」という言葉があるように、色とりどりの花が咲き乱れる世界こそが本来のあるべき姿ではないか。一つひとつの命は、単一のモノクロではない。同じ白であっても、200種類以上の白があると言われるように、ひとつ、一つに代えのきかない尊厳と美しさがある。「お花畑!」。実に多様な色に満ちた平和の景色、こんな素敵な世界を作り出す理想を、容易に手放すべきではない。あなたという「色」が失われず、また相手の「色」も尊ばれるとき、われらは連帯し、見事なグラデーションをこの世界に示すことができるのだ。

2026/06/14
最高級の衣をまとい、毎日贅沢(ランプの語源)な宴にふける名もなき金持ち。その輝きの影で、できものに覆われ飢えに苦しむ貧者ラザロ。主イエスのたとえ話に登場する二人は死後、ラザロは慰めの場へと向かい、金持ちは陰府において苦しむ。驚くのは、そこでもなお和解の言葉も悔い改めもなく、「ラザロをよこしてくれ」と、自分の使用人のように利用しようとする点だ。人間の自己中心性はそれほどに頑なであり、彼が生前に築いた無関心の淵は、もはや越えられない「大きな淵」となっている。一方、たとえ話の中で唯一、名前が与えられているラザロ。地上で名を馳せたに違いないこの金持ちが無名なのに対して、神の前では「ラザロ」の名が深く覚えられ、特別な関心が示されている。ラザロは終始、口を開かない。それは、十字架のキリストの沈黙へと重なり、自分を正しく裁く方への信頼とも読める。ラザロは自分の運命に対する呪いも復讐も口にしない。さらに金持ちの苦しみに対して歓喜の言葉も発することなく、ただ慰めの中に抱かれている。地上では報われなかったかに見えるその彼の「生」。しかし、神の目にはラザロこそ輝いている。この物語の本質は単なる死後の話ではなく、与えられた命への応答、その質を鋭く問いかける。生前の態度はのちに変えられる保証はどこにもない。「今」、自分は何に信頼して生きるかが問われている。富か神か・・・。2026.6.14

2026/06/07
コンピューターの「バグ」はシステムの不具合を指すが、聖書の中にも一見、文脈がつながらずバグが生じているような記事がある。主イエスが律法と神の国の壮大なテーマを語る中、関連がないような「離縁」の話が突如として出てくるのだ。だが、ここにイエスをあざ笑うお金を愛するファリサイ派の欺瞞が現れるのである。彼らは、拠り所を神から金へと変え、人前で「正しい者」を演じるプロだったが、内実は金銭欲と冷酷さに満ちていた。その最たる理由が律法の曲解である。当時の男性たちは「離縁状さえ書けば合法だ」と、些細な理由で妻を捨てて社会的底辺へ追いやっていた。イエスが指弾したのは、神のルールを自己正当化のツールとし、神の言葉を都合よくねじ曲げた「合法という名の暴力」である。イエスは話を脱線させたのではない。不当に尊厳を奪われた人々を救おうとしたのである。「法的には問題ない」「誰もがやっている」と自己正当化しようとするとき、われらもまたイエスをあざ笑う者と同じところに立っている。その陰で傷つき、苦しんでいる者の存在をイエスは見逃さない。正しい生き方に対して不具合(バグ)が生じているのは、富(マモン)に仕える者か、神に信頼する者なのか。真実な心を取り戻す復旧作業を神に委ねよう。

2026/05/31
聖書にある「不正な管理人のたとえ」は、主人の財産を撒き散らしていると告げ口された管理人がクビの直前、債務者の借金を減免し将来の居場所を確保した物語だ。主人は彼の抜け目のなさを褒める。不正を容認したのではない。破滅の危機を前に、残された資源を「人とのつながり」へと投資したその「賢明さ」を評価したのだ。ここで語られる富(マモン)の語源は「アマン(信頼する・拠り所とする)」にあり、祈りの結びに唱える「アーメン」と同根だ。人間が何に全幅の信頼を置くのかという問いがここにある。富の奴隷となるか、神に仕えて富を支配するかが問われているのだ。今年創立140周年を迎えた東北学院。初代副院長の宣教師W.E.ホーイは相続するはずの遺産を放棄して1885年に来日し、自ら私財を差し出して学校を建てた。また、未亡人の香味ちかが、校舎建設のために老後資金の銀貨12枚を捧げた逸話は今なお語り継がれる。彼らは富を神からの預かり物とし、富ではなく神に仕える道を選び取った。現代世界は紛争や核、AIの脅威など、人類がマモン(利権)を主人として拝んできた結果の構造的破局に瀕している。「神と富との両方に仕えることはできない」と聖書は断言する。われらはみな、やがてこの地上での任期を終える「管理人」だ。真の拠り所である神を信頼し、託された命や資源を隣人への愛のために用いる良き管理人でありたい。(2026.5.31)

2026/05/24
キリスト教の三大祝日の一つ「ペンテコステ(聖霊降臨日)」は、教会の誕生日である。弟子たちに聖霊が「激しい風」のように降り、彼らを世界宣教へと押し出した。神の言葉は今も世界へ運ばれ、手話や方言、一部物語を含めると4007もの言語に翻訳されているという。人間の計画を遥かに超え、聖霊の風が今も吹いている証しでもあろう。「聖霊に動かされた」(Ⅰペトロ2:21)という言葉は、「船が風を受けて押し運ばれる」イメージの用語でもある。使徒言行録に描かれたパウロの難破の記録は示唆に富む。都合の良い「南風」に誘われ人間の計算で出航した船は、やがて大暴風雨に巻き込まれ、ついに自力での操縦を諦め「流されるにまかせた」(使徒27:15,17)。しかし、自力の限界は恵みの幕開けである。絶望の暗闇の中、パウロは「元気を出しなさい」(使徒27:25)と人々を励ました。仕える神への揺るぎない信頼があったからだ。ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんが、紛争地で拘束された危機的状況下でも、持ち前の話術で場を和ませた逸話がある。普段は飛行機を怖がる彼女も「使命」に生きる時、希望を与える存在へと押し出されたのだろう。われらの人生も同じだ。自分の力で起こせる風など、せいぜいうちわ程度にすぎない。順風が止み、自力で進めない現実に直面した時こそ、見えない聖霊の風に帆を上げる時である。教会はまもなく60周年を迎える。自力を手放し大いなる気流に身を委ねるなら、われらは想像を遥かに超えた恵みの目的地へと、今日も力強く「持ち運ばれて」いくのである。(2026.5.24)

2026/05/17
有名な「放蕩息子のたとえ」には、2人の息子が登場する。弟息子は存命の父に向かって遺産を要求し、遠く離れて財産を浪費してしまう。ついに人生のどん底に落ちた弟息子。彼は罪を悔いて帰宅するが、父は遠くから彼を見つけて走り寄り、弟息子を責めずに抱擁するのであった。そればかりかすぐに身分を回復させ、宴会を開いて喜ぶのである。一方、家に留まって父に仕えていた兄息子は、帰ってきた弟を歓迎する父に対して不満と怒りを抱く。兄息子もまた、父の心から遠く離れ、自己の正しさと義務感に縛られた放蕩者の一面がある。だが父親は、自分の正しさや面子よりも、外にいた兄息子のところに出向いて彼に「懇願」するのである。その後どうなったかの結末は語られない。ただ浮かび上がるのは、二人の息子のために惜しみなく愛を注ぐ父親だ。この譬えの二人の息子は人間の比喩で、父親は神自身をあらわす。弟のような自堕落な人間にも、兄のような義務感で心が冷え切った人間にも、神はご自身の財産や命さえも惜しみなく使い尽くされる。「放蕩」とは、聖書の原語では「救いようのない(アソートース)」という状態。その視点に立つと、真の放蕩者は誰なのか?独り息子を与えるほど惜しみなく世を愛される神(ヨハネ3:16)。十字架の上でその命を使い果たした主イエス。善人にも悪人にも、物惜しみせず過剰なまでに浪費するかのような姿は、最大の放蕩者ではないか。神はわれらに惜しみなく愛を注ぎ、たとえ無駄とも思えても、信じて待っておられる。この無条件かつ無限の愛があるからこそ、救いようもない者が救われていくのではないか。

2026/05/10
風薫る五月、木漏れ日の下で心地よい風を感じる時、季節が差し出す至福を見つける。現在放映中の朝の連続テレビドラマ小説「風、薫る」のヒロイン、一ノ瀬りんのモデルは大関和(ちか)1858-1932)である。彼女はキリスト教的献身をもって、かつては賤業と見なされていた看護の地位向上に貢献し、「日本のナイチンゲール」と呼ばれた。明治時代、彼女は家同士の縁談を拒めず、二人の子の母親となるが、当時の封建的な家制度や夫の妾の存在に心を痛め、二人の子を連れて家を飛び出す。それは生きる基盤を失うに等しいことであった。だが、すでに神に見出されていた和は、上京したのち植村正久牧師に出会う。そこで聖書が語る「神の愛」を見出したのであった。彼女は伝道師を志すも、今求められているのは社会的にキリストの愛を実践することと確信し、看護の道に自分の天職を見つけたのであった。和は「私たち人間は、神によって造られました。この造り主なる神の有難い嬉しい愛と恵みを思う時、どうして空しく之を受けておられましょう。どうぞしてこの御恩の万一でも報じたいと思いましたところが、父なる神は霊にましませば、ただその戒めを報じて、其隣人を愛さねばなりません」(女子文壇・第7年第7号)彼女は神の愛と自分の使命を見つけた喜びを胸に、感染症の患者にも分け隔てなく接し、病床の患者は彼女が来ると春の風のような喜びが室内に届き、笑顔になったという。キリスト教矯風会の初代会頭矢嶋楫子らと共に女性の自立を目指す女子教育、廃娼運動、軍縮活動にも尽力した。きょうは母の日、誰かのために自分を捧げる愛の尊さを想う。われらもまた、神の愛の喜びにあずかり、恵みのうちに、自分自身の生きるべき使命を見出し、平和をつくり出す道を共に歩みたい。(2026.5.10-母の日-)

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