メシアを巡っての齟齬。対立するペトロとイエス。原文では互いを「叱る」という動詞が3度も登場する。自分の考えるメシアであってほしいとイエスを叱るペトロ。その思い違いを「後ろに引き下がれ」と厳しく叱るイエス。「叱る」状況は、自らの意思が強烈に、最大限に表明される。そこに妥協や曖昧さはない。それほどまでに人間のエゴは強く、神さえ押しのけて前面に出る事がある。叱られねばならない貪欲、鈍さ、愚かさがある。「ユダヤ人の王」という罪状書きで十字架の道を歩むイエス。人々は愚かだと嘲弄し、「王なら自分を救え」と侮辱する。王なら、自分を救える。配下の者を意のままに、自分を守るためは賢く敵対者を排除し、処罰する権限さえ行使し得る。だが、イエスは自分を救わない。十字架につけられたまま降りない。「他者は救ったが、自分は救えない」メシアなのだ。われらの内にも利己心という王が居座る。イエスを否定するペトロ同様、自己保身に必死になってしまう。イエスは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節) と、自分だけを見つめる生き方に闘いを挑む道へとわれらを招く。その道では自分を救えず、このお方と共に十字架から降りることができない。愚かに見える。だが、そこでこそイエスと共に「自分は救えなかったが、他人は救った」という道に結ばれる。彼の言う「十字架の道」とは、自分の重荷ではなく、他者(隣人)の重荷を背負う道にあるからだ。憎しみや争い、差別や分断。現代人の抱える多くの課題は神を畏れず、自分を世界の中心に据える王として周りを支配しようとする人間の利己心、罪から生じる。そこから救うためにイエスは十字架につけられたまま降りられない。(2021.3.28 受難週)
「すれ違う」・・「互いに触れ合うほど近くを通って、それぞれ反対の方向へ行くこと」「出会うはずのところを出会わないでしまうこと」(広辞苑より)イエスとファリサイ派、イエスと弟子たちの間にある「すれ違い」。前者は目の前に待望のメシアがいても、神の御心とは反対に彼を殺そうと企てる。弟子たちはイエスの教えが理解できず、対話にも齟齬がある。その時はイエスの言葉の真意が見えず、悟れなかったのだ。この出来事の直後、盲人がイエスに何度も触れられることにより、段階を追ってはっきりと開眼する記事がある。弟子たちも段階を追って心の目が開かれたのだろうか。イエスの十字架と復活の出来事を経たのち、ようやく悟るようになるのだ。ガリラヤの日常でイエスと共に歩んだ道のり。後になってそれを思い起こす度、あの時も、この時も、肌が触れるほど近くにいたのに、心は遠く鈍感だった。すれ違っていたと知る。確かなことは、たとえ当時は無理解であっても、弟子として失格であっても、<イエスは彼らと共にいた>という事実である。われらもまた、恐れにとわられる時、将来に不安を覚える時は、きっとすれ違っているだけなのだろう。出会おう思えばといつでも出会えるほど真近にイエスはおられる。目には見えなくても、常に共におられる。どのような状況にあっても必ず希望は存在するのだと、今日もイエスはわれらと出会おうと共に歩み続けておられる。だからこそ、すれ違うままで終わらず、神の愛に出会うことができるのだ。(2021.3.21)
東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所の事故から10年。われらには二つの時間感覚がある。これまで必死に生き、募った10年。そして2時46分を指したまま止まった時。忘れたい、忘れてはいけない、相反する葛藤の中でわれらはどこに想いを致すのだろうか。変わりゆくものと、変わらないもの。痛みを経験した者にとって年月を数える事はあまり意味を持たない。何年経っても悲しいものは悲しいのだ。2011年3月に発令された原子力非常事態宣言が未だに解除されていない。悪いことは考えない方がよい。嫌なことは忘れよう、と向き合わねばならない事実に目を背け、忘れてはいけないことすら<知らない>という人たちも少なくない。われらにとって困難であった日々、われらを追い詰め、不安にした日々、また、われらの中に苦しみの痕跡を残した日々、頭の中から記憶が消えても、事実は消えるわけではない。聖書は告げる。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。」(16節)神は、忘却を拒否するかのように消せない痕跡として目を注ぎ続ける。それはイエス・キリストの十字架の釘痕に、私たちの目を向けさせる。愛は忘却の道を選ばない。常に覚え心にかけ、痛みに向き合って共鳴し、共に苦しみ呻いている。われらは忘れる事もあるが、神は忘れずにいてくださる。われらが痛んだ事、不安だった事、苦しみの痕跡を覚えていてくださる。そこにゆだねるのだ。イザヤ書はこの後、回復の預言に向かって進む。「主は、シオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。慰めは痛みの痕跡なしには起こり得ない。癒すために主は覚えておられる。(2021.3.14)
昨今、政府高官が某企業から過剰な接待を受けていた?との報道を受け、行政に対する疑念が向けらている。イエスによる接待もある意味で過剰なのかも知れない。何せ少量の元手で数千人が接待され、皆が満腹したというのだから・・。事の次第はこうである。イエスは目の前にいた空腹の群衆を案じておられた。既に3日も食べ物がない状態。誰かが携帯食を持っていたとしても、ここは自分のものを死守したいところである。ところが、その状況で自分の食べ物を差し出した者がいたのであろう。イエスのもとに7つのパンとわずかな魚が集まった。彼はそれを自分のもとに留めず、裂いて分け与えられた。このようにして、自分よりも相手を思いやる行動から奇跡が起こる。その結果、4000人が満腹し、パン50個は入る籠が7つも余ったという・・・。昨年のコロナでは、マスクが店頭から消えた。台風が来ればトイレットペーパーがなくなる。他人の事など念頭から消え、余計に得ようと必死に行動し、われ先にと自分のものを死守しようとするところでは、いつも物資が足りなくなる。それがわれらの世の現実だ。だが、イエスのもとでは自分のものを割き、分け与える構図の中で、不足するのではなく皆が満ち足りて行ったのだ。神の国では与えると、増えるという逆説が実現している。奇跡というのは、時に自分よりも相手の幸せを願う心に起こり得る愛だ。イエスによる接待は、他人の益のために、自分のものを差し出すところに溢れる過剰なまでの恵みを幾度も証ししている。われらもこのお方から愛を受けている。ゆえに、与える生き方へと招かれている。(2021.3.7)
AI(人工頭脳)が人間を癒す現代。だが、AIには人間の気持ちを汲み取ったり、心の痛みに共感する事までは決しては出来ないという。イエスのもとに連れて来られた耳と舌が不自由な人。彼を癒される際、イエスは彼の耳と舌に触れられた。この人にとっては、目の前にいるお方の行為が、自分自身に関心を抱いている事と伝わったであろう。そしてイエスは天を仰いで深く息を付き、嘆息される。「呻く」とも訳される言葉だ。これまでこの人が背負って来た苦しみ、言語に出来ない呻きに共感、共苦するかのような嘆息。イエスはそれ程までに人の苦悩を一緒に引き受けられる。「エッファタ(開け)」、イエスの言葉が響き渡り、それまで不自由であった人の耳と舌が開けた。イエスと共に歩む道では、われらの筆舌に尽くしがたい深い嘆きや呻きに対して共鳴されるお方が真正面におられる。そして最後まで見捨てず共にいて面倒を引き受けられるという救いへと導かれる。われらが仰ぐべきはこの救いであり、開かれるべきなのはこのお方のみ声を聞く耳である。そして語るべき舌は神への賛美と感謝であり、イエスにおいて顕された神の愛と救いの偉大さである。(2021.2.21)
「祈り」は呼吸に似ている。神の意志(息)を「聴く(吸う)」側面と、自分の意志を「願う(吐く)」という両義性を持つ。マザーテレサは「祈りとは、自分自身を神のみ手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を聴くこと」と言うが、前者に強調点があるように思う。今日の箇所では後者を併せ持つ。願いが拒否されているかのような神の意志を受けつつも、諦めずに全集中で粘り強く求め続ける祈りが状況を変えたのだ。ここでは「御心のままに」と黙従の信仰にのみ価値を見出す高尚な姿勢に疑問を呈するだけではなく、神の意向に接しても「否」と対話できる余地さえ与えられている。聖書には至る所に同様な事例が見受けられる(アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエスのたとえ等)。神はご自身の意向を示しつつも、そこで深くわれらの意志との対話を望んでおられる、ここに神の御心が聴こえて来ないだろうか。とすれば何とわれらは容易に願いを取り下げることが多いのだろう。全てを集中させて神に聴き、また全力で神に求める。一方通行では息切れするだろう。祈りは神との霊的呼吸であり絶えざる対話である。(2021.2.14)
当時の手洗いは、衛生や清浄だけでなく宗教的な「穢(けが)れ」からの清めを意味した。即ち、身の潔白を示し、自分が正しさの側に立つというアピールともなっていたようだ。コロナの時代、常に誰かを悪者にして罰するという社会構図が目立つように思う。連日誰かが槍玉に挙げられ非難轟々。これはダメ、確実にアウト!攻撃する人にとって正義は自分の側にあり、悪は自分の外にある。だが、その自分が悪と見る同質の種が、自分の中に皆無だと果たして言い切れるだろうか。正しさは誰かを悪者にした時点で自分が神の座につき、戦争さえも正当化する。被害をもたらし、人を穢すものは外からや相手からではなく、むしろ加害者性は自分の内にも存在し、歴然と活動している、それに気付かされたのがキリスト者ではないだろうか。われらは主イエスの十字架のもとで己の正体を知り、そこで赦しに出会う。穢れたまま覆われ、恵みの中を生かされている・・。先の5000人の会食では手洗いなどは大した意味をもたなかっただろう。確かに衛生上の課題はあるが、イエスのもとでは差別や分断もなく、誰もが和気藹々と喜びを分かち合う時を共に過ごす神の国の平和の構図が象徴的に浮かぶ・・。彼のもとでは穢れたままで、ありのままで良い。神の前では既に正体を知られているのだから、身の潔白を明かす措置は不要である。だから悔い改めてからおいで、とも言われていない。イエスの招きのもとでは、多様な規制・規則をも凌駕する神の自由な愛が支配している。(2021.2.7)
休みたくても休めず、疲れの癒えぬまま舟上にて逆風に難儀する弟子たち。彼らは湖上を歩行されるイエスを見ても理解できないし、彼だとわからない。狼狽し、混乱の中にいる弟子たちに声を掛けられるイエス。「安心しなさい」と訳されたサルセーオは「勇気(サルソス)」から派生した動詞と言われる。コリントの手紙などでは当事者と距離がある設定でよく見受けられる(第二コリント5:6,8,,10:1,2)。理解できない事柄への距離を縮めるには<勇気>が必要だ。おそらく弟子たちもイエスが死から復活し、その姿が見えなくなった後、彼と別れて寂しく心細く、離れていると思える時にこそ、この出来事が意味を持ち、困難に立ち向かう勇気を得たのであろう。一行は再び宣教活動を続け、イエスは町の人々を癒された。彼の癒しは、病気や病人に限定されず、面倒を見る、仕える事をも意味する。即ち、救いを意味する新たな神との関係の始まりなのだ。骨髄バンクのドナーは、患者の第一候補者となれば移植日に備えて健康診断と相応の管理が求められる。常に万全を帰し、健康体でいないと命は救えないのだ。イエスは復活の体という万全な姿で今も生きておられるからこそ、どこででも、誰とでも自由に出会われ、救いを与える事ができるのだといえよう。(2021.1.31)
題名につき、コロナの時代ではNO。近頃はダメ尽くしだ。要請や規制は必ず差別や分断を生じさせる。イエスのもとに集まっていた数千人。おそらく人々は、彼を追い求めるしかない程に、生きる場所を失い、社会的にも差別の中で排除され、置き去りにされていたのであろう。彼らを見て腸が引き裂かれる想いで憐れむイエス。彼のもとでは男も女(注1)も、どの町の住民でも、制限や差別なく、全ての人が何の分け隔てもなく満腹するという会食が実現する。一方、ヘロデ王の主催する祝宴に招かれた最近耳にする上級国民のような地元有力者らの会食。権力者の自己満足のための宴会はさぞ豪華だったのだろうが、そこでは正しい人が排除され、惨たらしい殺生が行われる結末。後味は最悪だ。対比的にこの直後に置かれるこの数千人規模の会食の話。集まっていたのは上級とは対照的な人々だが、素朴であっても喜びと愛が溢れているように思う。イエスのもとでは、わずかなパンと魚であっても、今あるものでOK。そしてそこにいる誰がいても問題ない。全ての人々が受け入れられ養われていく。そこでは萎縮も恐怖も分断もなく、皆の笑顔で満ち足りる光景が目に浮かぶ。彼のもとでは当時は宗教的差別をもたらす手洗いも、罪人との接触を回避するマスクも不要。彼にあって万事がOKとされていく。そのような喜びと笑顔に満ちた神の国の祝宴が実現していた。それは彼の人々の苦しみに共感共苦するような深い憐れみに根ざした愛から来ている。あなたもOK!(※注1)マルコ原文のandres(男の複数形)は、古代ギリシャ語では男女を区別せず<人々>の意味という<田川建三訳著「新約聖書」訳と注1 p.247より>
クリスマス前、サンタクロースに何をお願いしたの?と当時2歳の息子に尋ねた。彼は「バナナ!」と即答。当日の枕元には一房10数本の大きな現物が!彼は早速パクパクと嬉しそうにバナナを頬張った。翌年、同じ質問に彼は願う。「バナナ!と、飴」少し欲が出たか・・。祝宴の席で「欲しい者があれば、何でも言いなさい。お前にやろう!」と娘の願いを聞く領主ヘロデ。この娘が口を開いて、「バナナ!」と言ってくれたら、どんなに良かったか・・。残酷にも「ヨハネの首を」と、親の言いなりになって、邪魔な存在を排除しようとする母ヘロディアの願いを躊躇なく求める娘。自らの意のまま何でも願いを叶えてやれるという、自分の権力を会衆の前で見せつけようと力を誇示するヘロデの願望。「願い」がすべて叶うというのはこの記事では恐ろしい世界である。純真な子どもを巻き込むだけではなく、正しく尊い命が罪の餌食にされる残酷な悲劇となった。この出来事を機に、イエスはいよいよ十字架という苦難の道を進まれる。彼にも願いがあった。「この杯を取り去ってほしい」と。しかし、その願いは退けられる。イエスの願いが絶たれる事によって、われらの救いが実現したのだ。罪から来る願いと欲望は時に悍ましい悲惨な結果をもたらす事があるが、罪からの救いを信じる者にとっての願いは、他者への愛と救い、平和と命をもたらす希望となっていく。われらは主イエスによってこの祝宴に招かれている。「わたしは願おう、あなたに幸いがあるように」詩編122:9(2021.1.17)

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