宗教改革においても掲げられた「信仰による義」。救いは、善行や修行など人間側の努力によるのではなく、「イエス=キリストへの信仰による」という。「信仰」と訳されたギリシア原語「ピスティス」は、「真実」「信実」「誠実さ」とも訳され、関係性を築く上で重要な「信頼性」を示す。かつて背信を続ける民に神は語られた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31: 3) また、神は「不従順で、反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(ローマ10:21)とも言われる。弟子たちは真実を否んで主イエスを裏切ってしまった。しかし、キリストは手を引くことなく変わらずに関係を構築し続けた。弟子たちが立ち直れたのは、そのようなキリストの誠実さのゆえではなかったか。神に義と認められるのは、人間側の踏ん張りや強さによるのではない。ただ、キリストの誠実さが人間を救う。救いへの要件は、優れた組織形態や教義、宗派が決定的要因になるのではなく、キリストの誠実さにかかっている。主イエスは決して裏切らない。このお方に対する信頼が主イエス=キリストへの信仰となる。(2023.9.10)

H教会のS牧師は、献身後に最初に赴任した教会を2年で辞することになった。他の教会からのオファーも断り、一般の会社に勤務するようになった。勤務終了時間が定まっている仕事に平安を覚えたという。その後、K教会から再び招聘の話が出た。「自分は前の教会で失敗した人間で、もう牧師にはなれない」と断ったのだが、「先生は傷付いておられる。でも、私たちが求めている牧師は、失敗したことの無い人ではありません。先生のその傷口からみ言葉を語ってください」と言われて奮い立ち、現在も牧師として教会に仕え、路上生活者への支援や少年院に行って宣教活動を続けておられる。主イエスは失敗し、傷付いた弟子たちを用いて偉大な働きを託され、世界中に福音を広げられた。主イエスは今もご自身のその打たれた傷によって、人々を癒される。キリスト教の礼拝の歴史的起源である主の晩餐は、「わたしを<記念>するためこのように行いなさい」という主イエスの命令に基づいている。「記念(アナムネーシス)」とは、それによって想起される人物や過去の出来事が「現在化」する意味をも含む。主の晩餐で主イエスがアナムネーシスされるとき、時間と空間を越え、今、ここで、ご自身を差し出される主イエスに招かれ、その恵みが分かち合われるのだ。(2023.9.3)

日米中韓4カ国の高校生意識調査では78.6%が「自分がダメな人間だと思う」と回答(国立青少年教育振興機構2023.6発表)。親から「お前は要らない」など否定的な言葉を受けて育つとその反動は社会的にも深刻な影響を及ぼすと言うが、あのヒトラーも幼少期に親から虐待されていたというから決して軽視は出来ない。一方、童話の王様アンデルセンは周囲からダメ出しされた文章を母親に褒められ、物語を描き続ける自信を得たという。「平和」は国家より先に、身近な関係や家庭から始まるのかもしれない。良い言葉かけは平和を創る。8/24東京電力福島第一原発事故による処理水の海洋放出が始まった。「少しだも人のいのちに害ありて少しくらいハよいというなよ」と謳ったのはわが国初の公害問題と闘った田中正造。遺品には聖書があった。聖書の詩人は遺言のように語りかける。「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編34:12-15)大きなことは出来なくとも小さな事から始められる。関心を自分ばかりではなく相手に向け、身近な人との対話を通して良い言葉を選び取る心が平和を創る。わずかな思いやりや親切、少しの優しさがやがて大きな愛のうねりとなって、平和が創り出されるはずだ。(2023.8.27)

78 年前の 8 月 6 日、米軍は広島市に原爆を投下。9 日には長崎市に投下された。太平洋戦争では 200 万人と も言われる若い人たちが徴兵されて異国の地に命を散らし、戦没者は約 310 万人と伝えられる。先日、ハリ ウッド映画 2 作品のコラージュ画像が物議を醸し出した。原爆投下をネタにする表現が発端だが、被爆者の 痛みや苦しみが届いていないという事か・・。93...


「ラララ・ランラン・・」楽しく嬉しい時に奔り出る軽やかな歌声。対照的なのは「呻(う)めき」。「う、うぅー」と、苦痛のあまり言語化できない低い唸り声だ。ローマ書の著者であるパウロは、何らかの深刻な病を患っていたようである。彼自身、ただひたすら耐えるしかなく夜もすがら「呻いた」経験をしたことだろう。しかしパウロは希望を見失わない。被造世界も共に呻いているが、共におられる聖霊が自ら言語化できないような深い呻きによって執り成し、一切が良い方向へと働くという確信を抱いている。パウロは言う。「現在の苦しみは、将来われらに現されるはずの栄光に比べると取るに足りない。」(同18節)・・宣教開始から57年周年を迎えた先日、激しい雨が上がった夕空に鮮明な半円状の虹が現れ、教会堂の上に立つ十字架にかかって見えた。たとえ黒雲や雨風に覆われるような呻めきの中に置かれても希望を抱き、この虹のような栄光を仰ぎたいものだ。主の霊の働きによって栄光から栄光へと主と同じ姿に造り変えられる(Ⅱコリ3:16)将来を望みつつ。「主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。」(詩編51:7)

ベケット作の戯曲「ゴドーを待ちながら」は、不条理演劇の傑作と言われ、1953年パリでの初演以来、世界30カ国で上演された。一本の木の下で「ゴドー」を待ち続ける登場人物。「ゴドーが来れば救われる」との期待とは裏腹に姿を見せない「ゴドー」が、いつしか芝居の主役のように感じられる。「ゴドー」とは何なのか?作者も正体を明かさず、観客に委ねられる。一説には「GODOTゴドー」のスペルから「GOD(神)」ではないかとの解釈もある。ローマへの敵意を抱きつつ神の国を待ち続けるユダヤの民。「神の国」はいつ来るか?というファリサイ派の問いに、主イエスは「観察される形では来ない。・・あなた方の間(手の届く範囲)にある」と答える。ファリサイ派はイエスを十字架につけようとする首謀者であり、ルカではイエスに敵対する側の人物として登場する。主イエスは十字架によって、敵意という壁を取り払われたお方だ(エフェソ2:14-16)。主イエスはご自分に敵対する者、裏切る弟子たちをもこの上なく愛し、包み込んでゆかれた。罪なきキリストが人の罪を背負って死なれるという理不尽さの中に、敵をも包み込んで、赦すという不条理さの中に、神の国が差し出されている。失われた者を探して救い出すため、身勝手に生きる息子の帰りをひたすら待つあの父親のように、神は赦しと和解を示しつつ十字架の木の下で、われらを待ち続けておられる。主イエスの十字架の木の下で、われらは神の国に招かれる。ここで顔と顔を合わせるように神の愛に出会うのだ。(2023.7.9)

東北の地で50年にわたってキリストの福音を証しつつ教会に仕え、キリスト教主義学校である宮城学院中学校・高等学校で延べ15年に及び校長としての職をまっとうされた大沼隆先生の遺稿説教集「困惑を乗り越えて」が教文館より出版された。当教会が無牧師時代であった2015年の礼拝でご奉仕をされた時の説教が、今回の遺稿集に掲載されている。当時の説教題は「友よ、生きよ、そして歩み出せ」。87年の生涯において、復活の主イエスの語り掛けのように何度も去来した言葉であると語っておられる。「信仰とは、困惑があっても乗り越えて生きてゆくことである」との言葉通り、人生の数々の難題に真正面から立ち向かい、幾度なく押しつぶされても耐え抜き、乗り越えて来たからこそ紡ぎ出される大沼先生の説教には、今も私たちを福音によって奮い立たせる力がある。神学校週間を迎えた。西南学院、東京バプテスト神学校・九州バプテスト神学校で学び、福音宣教者としての歩みに備える献身者を覚えて祈ることは、共に福音を証しする宣教のわざである。(2023.6.25)

沖縄では78年前、約4人に1人の命が戦争によって奪われた。軍人同士だけではなく、一般住民や青少年たちも殺し合いに巻き込まれた戦慄の地上戦。米国側でさえ「ありったけの地獄を集めた戦場」と呼んだ・・。約3ヶ月に及ぶ組織的戦いの終結日が6/23。戦時中は軍の命令は絶対で誰も逆らえない。兵士や政府は逃げ場を失った住民の命を守らず、支給したのは自決目的の手榴弾。住民は他の選択肢を許されなかった・・・。今も遺骨が埋まっている戦地の土が、住民の反対を押し切って進められている辺野古基地の造成に使用され、南西諸島には次々とミサイル基地が配備される。沖縄は今も戦場にされているのだ。絵本「もっと大きなたいほうを」(二見正直 作)を、子どもたちだけではなく、世界中の指導者にも見てもらいたい。軍備を増強すれば、相手も増強し、果てしなくエスカレートする。軍事力を強化すれば、国民が苦しむのは歴史の常だ。ヤコブ書は、戦争の原因が「欲望」にあると説く。為政者や権力者が欲望のまま利権に向かう時、国民の命は深刻な危機に晒される。われらは「もっと大きなミサイル」ではなく、「もっとも小さくされている声」を訊く道に招かれている。欲望渦巻く巨大権力のもとで声をかき消されている人々の小さき声に心を開くこと。沖縄や戦争体験者の声を訊くことこそ、予算不要の防衛力であり、戦争への真の抑止力に繫がるはずだ。(2023.6.18)

メル・ギブソン監督の映画「パッション」は、キリストの磔刑を写実的に描いている。本作の佳境の場面、神の御子イエスが十字架に架けられ、「父よ、わが霊を御手に委ねます」と言って遂に息を引き取られる。その瞬間、天から地上に向かって大きな雨の雫が「ボタっ」と十字架の下に落ちるシーンが印象的だ。独り子の死に「涙」する父なる神の愛を表現しているのだろう・・。シンガーソングライターの岩渕まこと氏の楽曲に、「父の涙」がある。「♩父が静かにみつめていたのは 愛するひとり子の傷ついた姿。人の罪をその身に背負い 父よ、かれらを赦してほしいと。十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙・・・」娘に脳腫瘍が見つかり、愛する子を亡くした耐え難い痛みの経験。それは独り子の死をみつめるしかない父なる神の愛に向かった。主イエス・キリストを通して指し示された父なる神の愛。われらは、痛みや試練の中でこそ、神とその愛に出会う。試練には神とわれらを引き合わせる目的がある。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

さらに表示する