主イエスと宗教家たちの対話が続く。最も重要な掟をめぐってはマルコによる福音書だけに「聞け、イスラエル・・」というユダヤでは祈りの際、毎日唱えられる言葉が引用されている。愛は「聞く」ことを重んじる。真剣に誠実に聞かねば、相手が大事にしていることを知り得ない。神は自ら、われらと対話を求められるように「聞け」と語られる。そしてわれらが最も重んじるべき言葉を伝えられる。「神を愛し、隣人を自分のように愛せ」と。先月,DaiGo氏というメンタリストの差別扇動発言を巡って SNSでは大炎上。茂木健一郎氏の仲介により、NPO法人抱撲の理事長であり、日本バプテスト連盟東八幡教会の牧師である奥田知志氏との対話がなされたという。彼はこれまで30年以上、路上の命、生活困窮者と向き合い、現場において隣人の声を聞き続けて来られた。NHKの番組「プロフェッショナル」でも何度か出演しておられる。同法人のHPによれば、この度DaiGo氏より寄付を呼びかけることもできるとの申し出があったが断ったとのこと。今彼がなすべきことがある。聞いて、知るべき重要なことがある。資料を送るから学んでほしいと伝え、今後対話を重ねる意向という。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。」(サムエル記上15:22)とあるように、律法学者は「聞いて」理解したようである。神の御声が届く距離にあるということか。イエスから「あなたは神の国から遠くない」(34節)、と言われる。人々は、もはやあえて誰も問うことはなく、イエスの言葉に喜んで耳を傾けた(37節)のであった。最も重要な「愛の戒め」。それは「聞く」ことから始まる。今週も聞くべき声に耳を傾けよう。礼拝において、隣人において。(2021.9.5)

復活を否定したサドカイ派とイエスとの対話。婚姻関係において当時は男権社会。女性は不利な立場であった。しかし復活においては「めとったり、めとられたり」とすることなく、「天使のようになる」と言う(25節)。天使といえば白い衣をまとい、背中には大きな翼があって男とも女とも特定できない存在のイメージがあるが実際はどうであろう?原文には「天にいる天使」とあり、「天にいる」ということに強調点があるという(田川訳)。死人たちが起き上がる(復活)時には、一人ひとりが「天(神のもと)で、神に仕える存在として(性別も死も超えて)生きることが示唆されている。そのような存在の回復をイエスは「復活」と表現している。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語られる神。古代の族長であった彼らは地上にあっては既に死者である。だが、神の前では生きている存在として語られる。われらにとっては死んだ者であるが、神のもとでは起き上がって今も生きている者として在る。神の前では一人ひとりの存在が重んじられ、たとえ地上の命が尽きても、天に属するものとして起き上がり、神といつまでも共にあるということ。一人ひとりの神として、神のもとに在る。その「神のもとで」、「神に仕えて生きる」ということ。それが生死を超えた永遠の命の有り様なのではないか。愛なる神のもと、いつまでもお仕えするという最高の存在価値にわれらは招かれている。(2021.8.29)

皇帝に納税すべきか否かを問われるイエス。どちらを答えても失脚するように仕向けられた策略的質問である。そこで彼はデナリ貨幣を持って来させ「肖像と銘は誰のものか」と聞く。「皇帝のもの」と答える質問者。「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」とまさに神対応。本来帰属すべきところを指し示すこの言葉は、われらの責任を深く問いかけ、あるべき姿を喚起する。社会的義務と宗教的義務は必ずしも別個のものではなく、いずれも神に従う道にある。キリストはローマ帝国の権力と制度のもとで十字架刑に処せられたが、神はその国家権力を通して人類を罪から救う血路とされた。「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」神の支配のもとにあるのだ。コロナは変異株に置き換わり、爆発的猛威が世界に蔓延している。地とそこに満ちるものは神のもの(詩編24:1)とある。だとすれば、コロナも神の支配下にある。われらは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のためである(ローマ14:8)コロナもわれらも、元来は神に帰属する。恐れは、安心であれ安全であれすべてを自分の手中に納めようとする過程にある。すべては自分のものではく、神のものと捉えるならば、たとえそこに危機はあってもただ粛々と日々なすべき務めを誠実に果たそうという姿に本来の生き方を見出すのではないだろうか。われらはこの命を、この時代に創造主から預かっている。神に栄光を帰するために。(2021.8.22)

このたとえ話は、直後にある10-11節(詩編118:22の引用)と一括りで読むべき内容であろう。「隅の親石」は、建築物の中心となる重要なもので欠落すれば全体が総崩れになるほど主要な働きを担う。皮肉にも建築家が不要だと廃棄した石が、建物にとって主要な存在となるという不思議な話である。後代においては、ユダヤにおいては要らないと排除されたキリストが、世界を救う要石となると理解されていった。それにしてもこのたとえに登場する農夫たち、相当な悪党に思えないだろうか。園主から畑を委ねられるが、オーナーの要求を無視して侮辱を重ねる。遂には農園を奪取しようと園主の息子を殺して外へ投げ捨てたというのだ。持ち主が報復するのは不思議ではない。むしろ農夫たちの方こそ外へ追放されるべきであろう。だが、不思議とそうならない展開がある。パウロはかつて、キリスト者を暴行し排除していた首謀者の一人、たとえ話の農夫たちのようでもある。けれども彼は滅ぼされず、神から捨てられない。当初は敵であった彼は後に回心し、実に新約聖書中13通の手紙を手掛け、キリスト教成立において「主要」な働きを担う使徒となったのだ。赦し難い相手、要らないと排除したい存在が、包括的な神の御手の中で主要な存在となり得る世界がキリスト教の歴史にはある。隅の親石としてのキリストは、どのような者であってもただ信じて望み続け、耐え続け、一人も破滅しないよう全人類を支える隅石。誰も不要とせず全体の下で執り成される主イエス・キリストにおいて神の愛が示されている。(2021.8.8)

8月は平和月間。戦時下においては、プロパガンダなど情報が操作されたり、権力者の言いなりになる傾向が顕著になる。「権威トレンド」とは林修氏の造語。人は聞く前から内容よりも「誰が」言っているかで聞く態度が異なるという。人は権威に弱く、トレンドなど時代の趨勢や傾向に影響されながら生きている。悪しき「権威性」に支配されるときは、道徳や正しさよりも権威を主張する者の言葉に「NO」が言えなくなる事態が起り得る。人類は、過ちだと知りつつ権威に抗えず、人を殺す道具として支配され、他者の生きる権利を奪い、自らの命も奪われて行くような歴史を負っている。生きる自由、権利を奪われてはならない・・・。 ここに登場する祭司長や律法学者そして長老たち。彼らは影響力のあるイエスの行動に際して権威の所在を問うが、逆に問い返される。そこに明らかになったのは、当時の権力者たちは普段から「天から」の権威を振りかざして地上で威張っていても、実際は群衆を怖がっている(32節)こと。権力者の自己保身性により権威は逆転し、彼らが普段から評価しない群衆からの支持やトレンドが権威となっているという逆説。福音記者の示す権力者批判とも読める。イエスもバプスマのヨハネも人の顔色や時代のトレンドを恐れるのでもなく、自らの使命に確信をもって堂々と生きた。そこに権威がある。主イエスは出会う人自身の苦しみや悲しみを引き受けられる行為をもって権威をあらわされた。彼はわれらひとり一人存在そのものを重んじ、生きる権利と自由に導かれる。どのような者であろうと、周囲からどう見られようと、自分自身の存在を正々堂々と、自由に胸を張って生きる権利が天から与えられているのだ。その権利は自分に、同時に他者にもある。

ジム・キャリー主演「ブルースオールマイティー」(2003年)というコメディ映画がある。神が羨ましいという主人公が数日間限定で神になる。当初は全能の力を手にして有頂天になるが神の仕事も果たさねばならない。世界中から絶え間なく届く祈りや願いが、現代的にPCデスクにメールで届く仕組みで描写される。主人公は面倒だからと「願いをすべて叶える」と一括で全選択をし「YES」のエンターキーを押す・・。すると途端に全世界が大混乱し最悪の結果となる・・・。欲に駆られた人間の願望は果てしない。各個人の願いがすべて叶う世界は実は恐ろしい事かも知れない。商売繁盛、開運祈願など多岐に及ぶ諸祈願は人間側の幸福追求や不安解消が前提となる。生きる指針や道徳は二の次で、自分は変わらず状況さえ変われば良いという利己主義が潜んでいたりする。願いさえ叶えば信仰の対象は不問だ。「祈り」は創造主との「対話」であっ人間側の一方的な願望だけではなく、それが真に最善なのか神に聴く姿勢が肝要である。イチジクに起こった出来事を通して弟子たちはイエスとの対話に導かれる。「神の信頼を持て」(マルコ11:22)と。イエスが教えられる祈りとは、われらの願いは根本的には既に聞かれているという信頼である。不幸と思える境遇にあっても神は共におられる。「対話」であれば、不信や疑いも一切をありのまま打ち明ける相手が存在する。われらの祈りの対象は、かけがえのない人生に最善をお計らいくださるお方であり、一人ひとり名を呼んで心にかけ、語りかけてくださる唯一善き愛のお方だ。このお方によっていのちの意義、目的を見出しつつ、永遠の信頼関係を築いてゆくのである。(2021.7.25(日)

不公平と格差の現実は昔も今も変わらない。特権を利用してぼろ儲けする者がいる。その陰で暴力は肯定できないが、それほど追い詰められ権利を剥奪されている人たちがいる。空腹であっても食べるものがなく、支払うあてもないのに無情にも要求されるような不条理、呪われたイチジクのような存在がある。イエスはその姿を自らの行動で代弁されるかのようだ。神殿は「すべての人の祈りの家」(17)とされる。両替人がいた場所は本来、外国人のための礼拝所だったが居場所が奪われていた。「鳩」は困窮者のためのささげもの。宗教的価値観を重視するなら金額を上乗せされても文句は言えない。結果的に追放され、貧しい者たちは神殿に入る事もできずにいる。宗教的な神聖さや常識を追求すればする程、特定の人しか礼拝できないという差別社会の縮図となっていたのだ。イエスは身をもって本来のあり方を示される。何かを伝える場合には暴力的な手段によらず「対話」が必要であることは今や常識であるが、「祈り」とは神との「対話」である。何よりも大切にされるべき神との関係における常識、対話の場が阻害されていたのだ。われらは誰もが祈りの家、神との対話に招かれている。それを妨げるものがあってはならないという明確な意思と熱意がこの出来事にはあらわれている。以降イエスは、神殿にいてすべての人と問答、対話をされる。そして追放され、酷い暴力を受ける側となられる。イチジクのように呪われる立場となられる。すべての人と対話し、救うために。教会は神との対話の家として人々を招く。(2021.7.18(日)

1966年7月10日、最初の礼拝がささげられてから55年。今も礼拝が続けられている。「継続は力なり」とは、弛まず挫けずに続けていくことの大切さを端的に述べた表現だが、われらとって「力」は、偉大なる神からの「賜物」であって、今も礼拝が「継続」されていることは「神」から来る「恵み」である。ゆえに「継続は恵みなり」と宣言したい。エフェソ書3章では神の「力」、「恵み」が何度も繰り返し登場する。また、「あなたがた」「わたしたち」と何度も呼ばれているが、それは「教会」を指す。教会(エクレシア)は、建物ではなく神によって呼び集められた者の集まりの意である。教会は、神が計り知れないキリストの愛と恵みを及ぼすところであって、教会を抜きには真の神の力、恵みを知り得ないと言っても過言ではない。われらは「教会」でキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、その偉大な愛を知るように招かれている。キリストと教会を切り離すことはできない関係である。主イエス・キリストのからだと呼ばれる教会によって、神の満ち溢れる豊かさにあずかり(19節)、神は栄光をあらわされる。われらの願い、考えることのすべてをはるかに超えた果てしない恵みが続き(21節)、世のすべての世代に受け継がれていくのだ。「われは愛す主の教会を。尊き血をもて贖われし。主のまことの続く限り、われらの幸いここにぞある」(新生讃美歌353番1.4番)

昨今、明るいニュースと言えばメジャーリーグ大谷選手の活躍だろう。閉塞感の否めない日常では楽しみのひとつ。さて、元祖二刀流といえばベーブルース。彼は不良少年だったが、神父から「君が必要なんだ」と声を掛けられたことがきっかけで、後に偉大な野球界のレジェンドとなる。誰かに「必要」とされること。それは生きる理由の根幹にあるはずだ。イエスのエルサレム入城という大事な場面で必要とされたのは「子ろば」であった。本来の生き方ができずに所有者に「つながれていた」存在。守られているようで何かに支配されおり、責任を負う立場ではないが自由ではない。イエスはその縛りを「ほどかれ」、ご自身の目的のために必要とされる。魅力的で有能さが際立ち、戦闘用や機動力として重宝される「馬」ではなく、庶民的でしかも、幼い未熟な子ろばがイエスには必要であった。平和の象徴、敵を倒す戦力や期待には役に立たない者としての入城。それが人間を罪の束縛から救う王なるメシアとして相応しいということを示すために・・。「子ろば」を必要とされた主イエス。彼はわれらに有能さや偉大さを求めておられるわけではない。未熟であっても、もう役に立たないと思っていても、あなたという存在は密接不可分の「主の必要」があるのだ。(2021.7.4)

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