「自分の事は自分がよく知っている」と人は言う。詩編139編の詩人はそれ以上に、創造主である神が自分を知り尽くしておられる事に心を向ける。座るのも立つのも知り、語る前に一切を熟知しておられる。何処へ行こうとも先回りしてそこにおられ、振り返っても人生のすべての道に伴っておられる。5節には「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置く」とあるが、「御手」は「掌」の意味である。怒りや暴力の象徴である「拳」ではなく、祝福と慰めの象徴である抱擁、愛に抱かれている人生への気付きである。山田火砂子監督の新作映画「われ弱ければ〜矢嶋楫子伝」では、楫子をミッションスクールの校長に抜擢したツルー宣教師とのエピソードが描かれる。過失により校内でボヤ騒ぎを起こした楫子の責任問題を追求されるべきところ、ツルー宣教師は彼女を責めるのではなく、抱擁をもって彼女を包んでいく。愛に抱かれた楫子は1879年に信徒となり、極端な男尊女卑の差別社会にあってキリスト教精神に基づいた女子教育に尽くし、女性解放運動の先駆者となった。90歳の時には米国で軍縮会議に出席し、世界平和を強く訴えている。アドヴェントを迎え、今週から世界バプテスト祈祷週間に入った。世界の諸課題を覚えて愛と平和を祈ろう。(2022/12/4)

読書の秋。聖書は「神が語る約束は必ず実現される」という証言の集大成だ。信仰の父と呼ばれるアブラハムだが、彼はスンナリと神の約束を信じきれた訳ではない。創世記を読むと彼は自己保身のために同じ過ちを繰り返している。神の約束による希望より、目前に迫る現実的脅威を恐れたのだろうか・・。希望が示されても、全面的に信じきれないのは、われらも同じだ。キリスト信仰は本質的に希望である。「なおも望みを抱いて」(18節)とあるが、希望とは方向転換のわざである。いつの時代でもわれらを取り巻く現実は喜びや感謝を奪い、生活不安や将来を懸念させる方向へ招く。ゆえに最悪なものを見ようとする心を転換し、何度でも希望に立ち帰らねばならない。18節は原文によれば「希望に反して希望において信じた」という二律背反だ。目の前の現実と望みとが矛盾なく一致しているから信じるというのは、聖書の語る希望ではない(ローマ8:24)。なおも望みを抱く事は、現実から目を逸らす事でもない。目前に仁王立ちする現実を直視しつつも、神の約束の言葉の真実さに心を向ける事。たとえ微かであっても針の穴のような隙間から圧倒的な神の言葉の真実が事柄を起こすのである。われらはいつ、如何なる時でも「なおも望みを抱いて、信じる」この希望に招かれているのだ。希望はわれらを欺かない。

「きりかぶのともだち」(作:なかやみか)という絵本がある。喧嘩ばかりでもやっぱり誰かが側にいてくれた方がよいのかな?と考えさせてくれる。「友」はいつも親しく関わる相手。常に仲が良く気が合う関係とは限らない・・・。悩み労苦する相手でも共存することで自分を助け起こす存在となり得る。鰯は天敵から身を守るように群れをなして泳ぐ。時に「イワシトルネード」と呼ばれる姿を形作り、鱗を煌めかせながら自由自在に俊敏に美しく回遊する。ある水族館に異変が起こった。群れから離脱してダラダラと泳ぎだす鰯が目立つようになり、人々を魅了し脚光を浴びていたイワシトルネードが崩壊の危機にあったのだ。飼育員が天敵のクロマグロを投入すると鰯は覚醒したのか、本来の一糸乱れぬ回遊魚としての生態系を取り戻し、再び来館者らの歓声を呼んだという。一緒にいたいと思いわない存在、自分を悩ます相手との共存が本来の生き方や使命を取り戻すことがある。神は真実なお方であるから耐えられない試練は与えない。反目し合う友がいても、もう一人、「真実な友」主イエスが一緒におられる。三よりの糸は切れにくい。教会という群れは、祈りの鱗を煌めかせながら本来の使命に生かされていく。(2022/11/13)

真実と虚偽が混在する情報網。昨今の世論は二極化の傾向にあるように思う。SNS等、自分が見聞きしたい情報だけを求め、何をフォローするかによって入手情報は偏向する。気付かぬ間に思考も偏ってしまっていないか?心苛立ち、穏やかでいられなくなる時は自らに問うてみたい。主イエスは言う。「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じ、そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14:1) 受け入れ難い出来事、認めたくない事実が目前に迫って心揺さぶられる時、不安は膨らみ警戒心が強まって自然体が崩れ、ありのままでいられなくなる。この言葉は葬儀でも朗読されるが、主イエスは死という避けられない別離の悲しみの場、平静を保つことが最も困難な時でさえ、心騒ぐ者が向かうべき居場所へと招く。望みが絶たれて動揺する時も己を取り戻す居場所が備えられているのだ。疑念が募るような由々しき世にあって人類は何を信じればよいか?あらゆる時代に、多様な民族に主イエスは道・真理・命として伝えられて来た。われらは「絶対」という根拠を持たない。それはただ神だけが有する。しかし、神を信じ、主イエスに信じるということは、換言すれば絶対的な希望を抱いて生きることに等しいのである。「主を信じる者は、決して失望させられない(ローマ10:10)。そして「希望」はわれらを欺かない。 (2022/11/6)

背信の歴史と決別するかのように、水の門の広場に「一人の人のように」集まり(8:1)、神の言葉に耳を傾ける民。かれらは「悲しみ」ではなく「喜び」に招かれた。今日にあっては主イエス・キリストによって招かれる礼拝と重なる。われらは主にあって一つのからだとされ、神の言葉に聞く。この主イエスを喜ぶことこそ、われらの力の源だ。目下、低迷する経済からの脱却を目指して子育て一時給付金や全国旅行支援などが実施されるが、今後を支えるためにはクーポン等の「点」でなく、「線」の支援かそれ以上の「面」での支援対策が不可欠と言われる。神の恵みは一過性のものではない。恵みから恵みへと「線」でつながり、招く者を慈しみとまことの「面」で包んでいく。そこでわれらは、とこしえまで変わらない神の愛に取り囲まれていることに気付くのだ。喜びと力の源がここにある。(2022/10/30)

わが国では祈願は神社。結婚式はチャペル。葬儀は仏教という宗教観を否めない。宗教を尋ねられると「家は仏教」と答えがちな日本人。迂闊に「無宗教」と答えると、道徳観念がなく信用できない人物とみなされる場合がある。特に欧米では「宗教」は相手が何を規範と考えて行動しているかを知る手掛かりでもある。昨今宗教の問題が連日取り沙汰されているが、行政も学校も宗教問題となると難儀するのが実情だ。「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)とあるが、宗教とは本来、真理や真実に基づいて束縛や奴隷状態からの解放を得させるはずではなかろうか。「宗教」の訳語は「re-ligion」。多義的であるものの「再び結ぶ」と理解される。もし仲違いした相手と再び繋がるならばそれは宗教的と言えよう。われらは独りではなく誰かとの関係の中で生きている。宗教は誰かを悪者と決めつけて敵視し、善と悪の世界に二分して関係を絶つか、あるいは自分の側につけ、同類だけで結び合うのではないはずだ。主イエスは敵とも結び合わせる関係へとわれらを導く。互いに結び直し、繋がり続ける道が信仰であり、ここに真の自由がある。その自由な繋がり、結び付きをキリスト教は「愛」と呼び、すべてを完成させる絆と信じるのだ。何より神がわれらを愛し、神との関係を和解へと結び合わされたからである。(2022.10.23)

「メメント・モリ」とはラテン語で「死を憶えよ」の意味で、中世の修道士たちの合言葉であった。Appleの創業者スティーブ・ジョブスは17歳の時、「毎日を人生最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる日がくる」との言葉に出会い、33年間毎朝鏡に向かって自分に問い続けて生きたという。死を前に問われるのは本当に重要なことだけである。死を覚悟して生きるなら、何かを失う心配よりも、自ずと今なすべき正しいことがわかる。旧約聖書に登場するヨブは、突如人災と天災に立て続けに見舞われ、財産も息子娘もすべて失う・・。彼ほど辛い経験をした人物は旧約聖書中他に例をみない。しかしヨブは言う。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と(ヨブ記1:21)。彼は無垢で悪を避け、神を畏れて生きた義人と呼ばれている。われらは何も持たずに生まれ、人生で得たものは死をもってすべて手放す。誰もが最期はひとりで死を迎える。だが、われらは孤独で苦しいまま死ぬのではない。主イエスがはじめにも今も、終わりまで共にいてくださる。死を忘れず生きることは、悪を避けて正しく生きる道へと導き、主イエス・キリストへと導く。死を忘れずに生きることは、われらを愛し、われらの罪の赦しのため十字架に死なれ、復活された主イエスを常に憶えて生きることなのである。(2022/10/16)

亡国と捕囚の憂き目にあった民に驚くべき主の恵みが実現した。主なる神に心を動かされたペルシアの王キュロスが、「帰還して神殿を再建せよ」と布告をしたのだ。エズラ・ネヘミヤ記において展開する神殿の再建は、神からの直接的な語りかけの言葉や奇跡などは見当たらないが、民は「既に『語られ、記された』」神の言葉(律法)を粛々と実行しようとする。かつてはエレミヤが何度語っても聞く耳をもたなかった民であったが、彼の預言が成就している今は以前のようではない。民は大きな喜びを共有した。 2022年3月16日に発生した福島沖地震では宮城県でも震度6強の揺れを観測した。この地震によって教会墓地が大きな被害を受け再建が求められている。墓域では6千を超える墓石の被害があって霊園側や業者も対応が追いつかず、先月ようやく調査後の見積が届いたのだが、高額に目が点になった・・・。しかし、このような時でもわれらにまず求められているのは、時がよくても悪くても神の言葉に聞き、礼拝を継続することである。「エズラ」とは、「(神の)助け」の意味があるが、神の助けは必ずあると信じたい。われらが驚くべきは金額の大きさではなく、常に神の恵みの偉大さに驚く群れでありたい。(2022/10/9)

「善をなそうとする意志はあるが、それを実行できない・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:18、7:24-25a)...

生老病死とは、われらが生きる限り避けられない根源的な苦悩を意味するという。人生は思い通りにはならず大半は苦悩の連続だ。登山でいえば一山越えるとまたその先に山が見え、それを越えるとまた次のいくつかの険しい山々が続いているかに思える。使徒パウロも現にある「苦しみ」から語りはじめる。しかし、心にあるうめきや苦悩を受け入れつつも同時に「希望」を語っている。105歳まで生きた日野原重明医師は、著作や講演の中で老いても自分の時間(いのち)を誰とどう使うかを問い掛けつつ、小さなものであってもビジョンや希望を抱いて生きる秘訣を語っておられた。エリザベス女王の国葬(9/19)では女王の愛唱歌であった詩編23編の讃美歌が歌われ、トラス首相によってキリストの言葉(ヨハネ14:1-9)が朗読された。大司教の言葉や祈りはローマ書8:35,38の言葉が引用されるなど、希望の言葉にあふれた礼拝であった。避けられない苦悩はあるが、神の愛や希望もわれらを避ける事はない。(2022/9/25)

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