2024/04/07
この世にはだれ一人として自らの意志で生まれた者はいない。「いのち」は、創造主である神の意志によって授けられるものだ。このお方を無視した人生からは、永続する喜びは決して得られず、虚しいだけである。創造主なる神の望まれる道を歩んでこそ、本来の「いのち」が輝く。各々の「いのち」には神のプランがあり、それは災いではなく将来と希望を与える神の約束である(エレミヤ29:11)。われらの歩む道は何時如何なることが起こるか知り得ないが、神は御心のまま一切の出来事を無駄にせず、益としてくださる。創造主が「いのち」を授けたからには、たとえ老いて無力になっても見放されず、神が共にいて背負い、責任をもって救い出される(イザヤ46:4)。神が望まれる道では、振り返るとそこには恵みが後を追ってくる(詩編23:6)。その道の先には、揺るぎない希望がある。われらが今、立っている道はイエス・キリストであり、主イエスが共に歩んでおられる道である。このお方にあってわれらは常に喜び、祈り、感謝の道へと招かれるのだ。(2024.4.7)

主イエスの復活の出来事が信じられず「疑う者」がいたことを福音記者は記している。「復活」は非科学的であり、自然の法則に反する。ゆえに「疑う」ことは健全な人間の証しである。だが、もし「復活」がないのなら、キリスト教は存在していない。椎名麟三は戦後、突き抜けた懐疑論を経てキリスト教作家となったドストエフスキーの書物に触れて信徒となり、自らの体験を通して「信じられない者」の側に深く共感を抱きつつ信仰について述べている。「悪魔の強情(1960年発表)」という随筆には、著者が嘘発見器にかけられる即興劇が登場する。「キリストの復活を信じるか?」の問いに「もちろんです」と答えるのだが、機器は大きく反応しそれが「偽り」と判定される。翌日、再び同じ項目について診断を求める。今度は「あなたは復活を信じるか?」の問いに「いいえ」と回答する。ところがそれも「偽り」と診断されるのだ。機器が正確で精密であるほど「嘘」と記録される。結局、昨日の判定は誤りであり、彼はキリストの復活を信じ、イエスと出会ったという証明書が発行される。その晩、機器が自滅するというオチだ。復活の主イエスは、信じること、信じられないことを超えて、その両方をしっかりと支えられる。信仰ある者も、疑う者もその姿のまま丸ごと受け入れて、「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたともにいる」と復活のご自身を示し続けられる。いくら自分を見つめても答えも、救いもない。主イエスを見つめるところに答えがあり、救いがある。(2024.3.31)

時の支配者が権力や金で世を支配し、自らが利益を得る生き方を貫こうとする中、主イエスは損得勘定とは無縁の生き方で愛を貫かれた。いのちに優劣をつけ、地位や名誉を守るためにはあらゆる不正、虚偽、武力までも総動員して邪魔者を排除しようとする世にあって、主イエスは善人にも悪人にもすべての人に向けられている神の愛を説き、自らも弱さにおかれた者たちを尊び、敵に対しても愛で応じられた。何の利益を得ることなく世に捨てられ、孤独に苛み、死におびえ、絶望的な苦しみの中にある者たちに伴われたキリスト。彼は十字架を通してこの世の闇を明らかにされた。主イエスの十字架は、「光」として隠れた人間の罪を暴く。同時にキリストの十字架は、「光」としての神の愛を明るみにして救いを与える。どんなに悪しき勢力に囲まれたような闇夜を歩む日々にあっても、闇が光に勝ることは決してない。われらは十字架の光に照らされて生きるいのちに招かれている。たとえ小さくても光に導かれ足もとが照らされるならば、いのちは輝くのだ。(2024.3.24)

わたしの咽喉が痛い時、あの子の咽喉も痛み、わたしが夜咳をする時、あの子も眼をさまして咳をする。わたしがママから叱られて泣く時、あの子もわたしと一緒に泣いてくれる。夕陽にうつるわたしの影法師のように、あの子はいつもわたしと一緒だ」(遠藤周作「聖書の中の女性たち」)11歳で死なねばならなかったこの少女にとって、影法師のように一緒に痛み、咳をし、泣いてくれる「あの子」。それはキリストだったという。辛い病床でひとりぼっちに思えた少女にとって「あの子」の存在は唯一の慰めだったに違いない。傷を持つ人の傍に佇み、その人「そのまま」を受け入れてくれる存在。イエス・キリストは、様々な思いに苦しみ悩む人々、悲しむ者の側におられた。このお方は傷を持つ人を孤独にさせずに寄り添い、「共にいる」ことによって神の愛を示すお方であった。主イエスは、本質的にご自身とまったく変わらないお方、聖霊を与える約束をされた。このお方は真理の霊としてわれらをキリストに導き、慰め主として今も共におられる。(2024.3.17)

主よ、東日本大震災から13年を数えました。私たちは今日、あの日の出来事を思い起こします。広い地域でたくさんの被害を受けました。家族や友人を亡くし、故郷、生活、仕事など、様々なものを失いました。大きな分断の痛みと悲しみ、深い喪失感の中、今日まで歩んできました。何年経ってもまだまだ心の深いところにある闇は埋まりません。しかし、あなたへの期待と、あなたの「共にいる」という約束、さらに多くの人々の祈りと励ましの中、今を生きています。これからも、今日を生き、明日に向かう力と恵みを与えてください。そして悲しみの中にある方々や、痛みを持つ方々と心を合わせ、一つにしてくださり、一緒に生きることができますように。特に、能登半島地震をはじめとしたさまざまな国や地域での自然災害被災の方々へ、祈りを合わせます。・・・たくさんの祈りの課題を覚え、被災の方々や世界で新たに起こる苦難の方々と共に祈りつつ、支え合い、子どもたちにこの経験を伝えながら心を高く上げ、前に向かってすすむことができますよう、主よ、導いてください。そして主よ、あなたの平和が実現しますように。私たちの信仰をいつも新しくし、希望に生きる者としてください。救い主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン(2024.3.11)

安心・安全な場所。「治安」という観点からは1位アイスランド、2位デンマーク、3位アイルランド(trip.com2023)日本では、1位鳥取県、2位島根県。犯罪遭遇率が最も低いのは秋田県(警視庁2022犯罪統計「刑法全体の認知件数」による)。「国や国土」という観点からはどうだろう?日本は、自然的条件から地震、台風、豪雨、土砂災害、津波、火山噴火、豪雪などによる災害が発生しやすい国土である。一方、世界ではカタール・バーレーン・アラブなどの中東は自然災害の発生が比較的少ないと言われる。しかし、ここは安全な場所だと思っていても絶対的保障はない。「安全性」は、不測の事態が起こる事を前提に、ある程度の許容範囲を想定して基準が設定されるが、「安心」の場合はその基準を定められない。なぜなら、実際に安全が担保されていても、人によって不安を感じる場合があるし、逆に危険な状況でも安心と思う人もいる。安全・安心な場所とは、個々の状況や価値観によって異なるのだ。われらは目に見える一時的なもの、過ぎ去るものではなく、永遠に存続する場所に招かれている。それはどこか?それ何か?「信仰的」な観点から言えばただ一つ。神に向かう「祈り」だ。朝の目覚めから就寝までどこにいても確保する事ができる。時間的制約も期限もなく、病にあっても、災難に巻き込まれた時も、孤独な時も、死の間際でさえも、「祈り」という場所に人間は向かう事が可能だ。「祈り」は永遠の居場所、われらのただ中にある神の国なのである。(2024.3.3)

近年「社畜」という言葉を耳にする。会社と家畜を組み合わせて生まれた造語で、低賃金や長時間労働を強いられていても文句を言えず、会社の言いなりになっている姿に対し、皮肉を込めた言葉である。聖書でのいうところの「罪」も、似た側面がある。人間は罪という利己的欲望の言いなりになって散々罪に酷使された挙句、その報酬が「死」というわけだ。「罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8が18)とあるが、現代では「承認欲求の奴隷」と換言し得る。自分が認められたい、重んじられたいとの欲求は、意識するとしないとにかかわらず日常に影響を与えている。いつの間にかSNSの長時間利用へと束縛されている事例で言うなら、結局そこで得られるのは他者との比較、自尊心の低下を持続させる可能性が高い。さらに犯罪や戦争までもが承認欲求の産物となり得る。イエス・キリストは、罪からわれらを救うために来られ、このお方が十字架によって罪の束縛から解放されたという真理は、自分が神に無条件かつ無限に愛され、全存在が承認されている真理に目覚めさせる。他者からの評価に一喜一憂するのではなく、主イエスの言葉にとどまり、神に選ばれ、愛されている弟子としての自己を確立し、他者を認め、重んじて歩む喜びと自由を生きるのだ。(2024.2.25)

本塁打王(2023)となったドジャーズの大谷選手。彼の活躍に対するファンの期待は熱い。現在はキャンプ場に高級車ポルシェに乗って登場するそうだ。約二千年前、キリストはユダヤの王と期待され、エルサレムに入城された。古代ローマ帝国の支配下で圧制に苦しんでいたユダヤの民は、「ホサナ(救いたまえ)」と叫び熱狂的にイエスを迎えた。彼を政治的な王(メシア)として期待したのだ。けれどもそのイエスは、颯爽と駆け抜ける名馬や、武装した戦車でもなく、「ロバの子」に乗って登場された。当時の人々が拍子抜けするかのようなこの出来事は、後に意味を深めていく。近年、「伏線回収」が見事な小説の物語や映画は評価が高い。ヨハネ福音書は、読者が「イエスを神の子と信じるため」と執筆目的が巻末に記されている。当初は理解出来なかったイエスの言葉、行為自体が伏線的な役割を果たしており、「イエスの十字架と復活」の出来事においてすべて回収されるような展開がある。イエスはエルサレムという場所で、十字架へと凱旋された。武器を取って敵を倒すためではなく、敵を赦すために。十字架によってご自分の命を与え、多くの民を罪から救うために。われらは人生の途上において理解できない経験に苦しむ事がある。しかし、全ては無駄でなく重要な意味が隠されている。イエスを神から遣わされた救い主(メシア)と信じ、このお方を深く知るという出会いによって、この書が伝えるイエスの行動、その言葉は全て自分の救いに関係があり、このお方を信じる者にとっては一切が神の愛として回収されていく。それは時代を超え、今も信じる者を救いに導くのだ。(2024.2.18)

2月11日は「建国記念の日」とされているが、われらはこの日を「信教の自由の日」の礼拝として守る。かつて特定の人間が神格化されることによって生き方や宗教が強制される事になり、言論が規制され、多くの命が失われた歴史を持つからこそ、われらは道・真理・命である主イエス・キリストを告白する。このお方は「真理はあなたがた自由にする」と言われた。私利私欲の思いに束縛され、それが自由であるかのような生き方は、いつも周りの誰かを不自由にしている。人類が解決を迫られている多くの課題は、神を畏れる心を失い、自分を神とするかのような自己中心的な生き方、人間の傲慢、貪欲の罪によってもたらされる事にわれらは気付かされる。自由とは選び取りである。主イエスは十字架の道を選ばれた。神の身分である方が、もっとも低いところに降りて来られ、苦悩する人々、貧困や病、差別、災害や戦争で悲しむ人々と出会って共に生きる道を選ばれた。人の罪を負い十字架まで忍ばれ、われらをあらゆる罪の束縛から解放された。われらもまた、主イエスに倣う道に真の自由と希望を見出す。救いとは自分が神に無条件にかつ無限に愛されている事に目覚める事であると同時に、他者を愛する道を選び取り、共に生きる自由に目覚める事でもある。(2024.2.11)

日本バプテスト連盟協力伝道週間を迎えた。われらはアメリカ合衆国においてはプロテスタント最大の教派である南部バプテストの海外宣教によって形成された群れだ。キング牧師も南部バプテスト出身だが、彼はアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として非暴力をもって差別に対する抵抗活動を行った。肌の色や価値観の違いを超えてつながり、差別なく共に生き合うという夢。それは今もわれらに託されている福音宣教の働きである。連盟に連なる教会・伝道所は現在全国に316ある。総会決議を経て「今、共にキリストを証しする」との標語を掲げ、「今」という時代性が問う課題と向き合いつつ、機構改革に取り組んでいる。地球沸騰化と呼ばれる時代に各地で頻発する自然災害。ミャンマーでの軍事クーデター、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など世界各地で暴力が際立つ21世紀。われらは協力伝道において連帯し、今、問われている課題と現実の中で、共にキリストを証しする。敵をも赦し愛されるキリスト。人間の罪のため十字架にかけられたままなるキリスト。死より復活され、希望を与えてくださったキリスト。良き羊飼いとして今も群れを導くキリストを証しする。時代は変わっても、キリストは昨日も今日も変わることはない。(2024.2.4(日)

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