「誰が一番偉いか?」と議論する弟子達。イエスは「いちばん先(当時「第一の者」とは行政の長や皇帝をも意味した)になりたい者は、仕える者(召使・奴隷の意味)になれ」と言われる。偉いのは、他人を支配して私服を肥やしたり、威張り腐ったりするような者ではない。たいへんで辛いことも「えらい」と言うが、楽ではなく苦労する立場こそイエスの生き方に近い。他人よりも大きく優れているとか、自分の能力や地位によって一喜一憂する生き方ではなく、目の前にある困難や辛く面倒なことを受容する態度にこそ「偉大さ」がある。イエスの生涯は人の上に立って人を見下す者ではなく、下に立って苦しむ道を進み行かれる。彼の行く手には受け入れ難い試練の連続であった。無理解な弟子たちを受け入れ続けて共に歩み、ご自身で選んだ者を見限らず愛し続けられた。愛するのは「えらい」事であり、辛くて痛い。だが、彼は偏見なく出会う者をどんな小さな者でも受け入れて愛し、不当な裁判も侮辱もすべて十字架上で引き受け死なれた。しかし、神は彼を復活させ、今も生きてわれらと共に歩んでおられる。どんな小さき者であっても偏見も差別もなく、ありのまま受け入れ、共に歩んでくださるのだ。このお方にあってわれらも「えらい」ことに価値を見出す。(2021.4.25)
春到来。新しい芽が生え出る季節、希望の蕾が膨らむ。息子の深刻な症状に苦しむ父親がイエスに希望を抱く。「何か、おできになるなら助けてほしい」と。「何か、ですと?信じる者は一切が可能だ」とイエスが父親に問う。即座に父親は「信じます。<信仰のない私>を助けてください」と叫ぶ。「信じる」と言うのに「信仰がない」私を助けて・・、という矛盾した願い。父親はイエスに全幅の信頼を寄せたと同時に自己の不信仰を意識したのだ。自らの<不信仰を自覚する時>こそ、神が期待しておられる<信仰が芽生える時>である。信仰は自らの側に生ずる力ではなく、神から賜る恩恵である。われらは自分に力はないという自覚にある時、必死に神に信頼せずにはおれない。だが、そこにこそ希望が存在するのだ。かつては床が抜け、水道管が破裂し、十字架塔の屋根が剥がれ、教会堂は倒されそうな状況だったこの教会。ここに登場する息子の症状ではないが事態は深刻であった。自己資金では倉庫しか建たない経済力。けれども自分たちには力がないからこそ芽生えた信仰。神を礼拝し、信頼し続ける歩み。今月、献堂から13年目にして新会堂建築費を滞りなく完済に至った。神は一切の必要を満たしてくださり、主は今も生きておられることをお示しくださっている。「祈り」は、「信仰を神に求めること」と同義的である。われらは、キリスト・イエスにおいて示された神の愛から引き離されず、今日も主を礼拝しする群れとして歩み続けることを許されている。感謝。(2021.4.18)
「モーセ。彼は人類史上初めてクラウドから十戒をダウンロードした・・・」聖書ではクラウド、つまり「雲」は神が顕現する臨在の象徴としてしばし登場する。礼拝は神の言葉を天のクラウドから教会というアプリを通じてダウンロードするのに似ているのかも知れない。神の御心を知り、慰めと励まし、生きる勇気と希望を心にインストールするクラウドサービス(礼拝)ともなり得る。高い山にてイエスの姿が純白に変わり、神々しい栄光を目撃したペトロは興奮してか、見当違いなことを口走る。栄光の姿はクラウドに隠れ、そこから神の声が響く「これはわたしの愛する子、これに聞け」もはや、そこには栄光に輝く姿ではないイエスが弟子たちと共にいた。イエスは栄光とは呼べぬ受難の道を行かれる。聖書は天における神の栄光が賛美されるが、神の身分から降りてこられた方は、受難のしもべとして十字架の道を歩まれる。災難に遭わない生き方ではなく、被害者、犠牲者の側にいる姿で地上を歩まれた。不条理と不遇の極み、苦悩する者と共に呻き、涙を流す姿で人々と共におられた。栄光の道を退け、みすぼらしく、貧しい姿で苦しみを受け、排斥され、見捨てられ、敗北、屈辱の極みである十字架にかけられ、殺される道を歩まれた主イエス。栄光の座からの方向転換、受難へと向きを変える姿でメタノイアしたお方。クラウドからの声は言う「これに聞け」と。(2021.4.11)
「終わった・・・。」と、人間が終止符を打つような出来事を神は句読点とされる。神のご計画の中では、人間の宣告するピリオドは、大いなるカンマ(区切り)に過ぎない。絶望や挫折、そこから新しく展開する道、神が一切のことを良い方向に仕上げてくださる希望が存在するのだ。「神を愛する者たちつまり(神の)計画に従って召された者たちのためには、一切が良い方向へと働く、ということを我々は知っている」(ローマ8:28田川訳)。その根拠はキリスト・イエスにおいて示されたお神の愛にある。「彼はもう終わった・・」と、神と人から見捨てられる結末に思えたイエスの十字架。だが神は、イエスを復活させ、死という命の終焉を復活の初めとされた。常識では信じられない。だからこそ信じるべき希望が差し出されている。コロナ危機にあってわれらは変化を余儀なくされた。今までの常識が通じず、発想も根本からの転換が求められる時代に置かれている。しかしそこでもわれらは、すべてが最悪に向かう道に招かれているのではなく、この方によって示された神の愛、一切が良い方向へ働く道に招かれている。たとえ、人と人が離されるこの時にあっても、神の愛からは離されない。「もはや、死も、命も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8:39)この確信は、更新されて行く。(2021.4.4)
メシアを巡っての齟齬。対立するペトロとイエス。原文では互いを「叱る」という動詞が3度も登場する。自分の考えるメシアであってほしいとイエスを叱るペトロ。その思い違いを「後ろに引き下がれ」と厳しく叱るイエス。「叱る」状況は、自らの意思が強烈に、最大限に表明される。そこに妥協や曖昧さはない。それほどまでに人間のエゴは強く、神さえ押しのけて前面に出る事がある。叱られねばならない貪欲、鈍さ、愚かさがある。「ユダヤ人の王」という罪状書きで十字架の道を歩むイエス。人々は愚かだと嘲弄し、「王なら自分を救え」と侮辱する。王なら、自分を救える。配下の者を意のままに、自分を守るためは賢く敵対者を排除し、処罰する権限さえ行使し得る。だが、イエスは自分を救わない。十字架につけられたまま降りない。「他者は救ったが、自分は救えない」メシアなのだ。われらの内にも利己心という王が居座る。イエスを否定するペトロ同様、自己保身に必死になってしまう。イエスは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節) と、自分だけを見つめる生き方に闘いを挑む道へとわれらを招く。その道では自分を救えず、このお方と共に十字架から降りることができない。愚かに見える。だが、そこでこそイエスと共に「自分は救えなかったが、他人は救った」という道に結ばれる。彼の言う「十字架の道」とは、自分の重荷ではなく、他者(隣人)の重荷を背負う道にあるからだ。憎しみや争い、差別や分断。現代人の抱える多くの課題は神を畏れず、自分を世界の中心に据える王として周りを支配しようとする人間の利己心、罪から生じる。そこから救うためにイエスは十字架につけられたまま降りられない。(2021.3.28 受難週)
「すれ違う」・・「互いに触れ合うほど近くを通って、それぞれ反対の方向へ行くこと」「出会うはずのところを出会わないでしまうこと」(広辞苑より)イエスとファリサイ派、イエスと弟子たちの間にある「すれ違い」。前者は目の前に待望のメシアがいても、神の御心とは反対に彼を殺そうと企てる。弟子たちはイエスの教えが理解できず、対話にも齟齬がある。その時はイエスの言葉の真意が見えず、悟れなかったのだ。この出来事の直後、盲人がイエスに何度も触れられることにより、段階を追ってはっきりと開眼する記事がある。弟子たちも段階を追って心の目が開かれたのだろうか。イエスの十字架と復活の出来事を経たのち、ようやく悟るようになるのだ。ガリラヤの日常でイエスと共に歩んだ道のり。後になってそれを思い起こす度、あの時も、この時も、肌が触れるほど近くにいたのに、心は遠く鈍感だった。すれ違っていたと知る。確かなことは、たとえ当時は無理解であっても、弟子として失格であっても、<イエスは彼らと共にいた>という事実である。われらもまた、恐れにとわられる時、将来に不安を覚える時は、きっとすれ違っているだけなのだろう。出会おう思えばといつでも出会えるほど真近にイエスはおられる。目には見えなくても、常に共におられる。どのような状況にあっても必ず希望は存在するのだと、今日もイエスはわれらと出会おうと共に歩み続けておられる。だからこそ、すれ違うままで終わらず、神の愛に出会うことができるのだ。(2021.3.21)
東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所の事故から10年。われらには二つの時間感覚がある。これまで必死に生き、募った10年。そして2時46分を指したまま止まった時。忘れたい、忘れてはいけない、相反する葛藤の中でわれらはどこに想いを致すのだろうか。変わりゆくものと、変わらないもの。痛みを経験した者にとって年月を数える事はあまり意味を持たない。何年経っても悲しいものは悲しいのだ。2011年3月に発令された原子力非常事態宣言が未だに解除されていない。悪いことは考えない方がよい。嫌なことは忘れよう、と向き合わねばならない事実に目を背け、忘れてはいけないことすら<知らない>という人たちも少なくない。われらにとって困難であった日々、われらを追い詰め、不安にした日々、また、われらの中に苦しみの痕跡を残した日々、頭の中から記憶が消えても、事実は消えるわけではない。聖書は告げる。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。」(16節)神は、忘却を拒否するかのように消せない痕跡として目を注ぎ続ける。それはイエス・キリストの十字架の釘痕に、私たちの目を向けさせる。愛は忘却の道を選ばない。常に覚え心にかけ、痛みに向き合って共鳴し、共に苦しみ呻いている。われらは忘れる事もあるが、神は忘れずにいてくださる。われらが痛んだ事、不安だった事、苦しみの痕跡を覚えていてくださる。そこにゆだねるのだ。イザヤ書はこの後、回復の預言に向かって進む。「主は、シオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。慰めは痛みの痕跡なしには起こり得ない。癒すために主は覚えておられる。(2021.3.14)
昨今、政府高官が某企業から過剰な接待を受けていた?との報道を受け、行政に対する疑念が向けらている。イエスによる接待もある意味で過剰なのかも知れない。何せ少量の元手で数千人が接待され、皆が満腹したというのだから・・。事の次第はこうである。イエスは目の前にいた空腹の群衆を案じておられた。既に3日も食べ物がない状態。誰かが携帯食を持っていたとしても、ここは自分のものを死守したいところである。ところが、その状況で自分の食べ物を差し出した者がいたのであろう。イエスのもとに7つのパンとわずかな魚が集まった。彼はそれを自分のもとに留めず、裂いて分け与えられた。このようにして、自分よりも相手を思いやる行動から奇跡が起こる。その結果、4000人が満腹し、パン50個は入る籠が7つも余ったという・・・。昨年のコロナでは、マスクが店頭から消えた。台風が来ればトイレットペーパーがなくなる。他人の事など念頭から消え、余計に得ようと必死に行動し、われ先にと自分のものを死守しようとするところでは、いつも物資が足りなくなる。それがわれらの世の現実だ。だが、イエスのもとでは自分のものを割き、分け与える構図の中で、不足するのではなく皆が満ち足りて行ったのだ。神の国では与えると、増えるという逆説が実現している。奇跡というのは、時に自分よりも相手の幸せを願う心に起こり得る愛だ。イエスによる接待は、他人の益のために、自分のものを差し出すところに溢れる過剰なまでの恵みを幾度も証ししている。われらもこのお方から愛を受けている。ゆえに、与える生き方へと招かれている。(2021.3.7)
AI(人工頭脳)が人間を癒す現代。だが、AIには人間の気持ちを汲み取ったり、心の痛みに共感する事までは決しては出来ないという。イエスのもとに連れて来られた耳と舌が不自由な人。彼を癒される際、イエスは彼の耳と舌に触れられた。この人にとっては、目の前にいるお方の行為が、自分自身に関心を抱いている事と伝わったであろう。そしてイエスは天を仰いで深く息を付き、嘆息される。「呻く」とも訳される言葉だ。これまでこの人が背負って来た苦しみ、言語に出来ない呻きに共感、共苦するかのような嘆息。イエスはそれ程までに人の苦悩を一緒に引き受けられる。「エッファタ(開け)」、イエスの言葉が響き渡り、それまで不自由であった人の耳と舌が開けた。イエスと共に歩む道では、われらの筆舌に尽くしがたい深い嘆きや呻きに対して共鳴されるお方が真正面におられる。そして最後まで見捨てず共にいて面倒を引き受けられるという救いへと導かれる。われらが仰ぐべきはこの救いであり、開かれるべきなのはこのお方のみ声を聞く耳である。そして語るべき舌は神への賛美と感謝であり、イエスにおいて顕された神の愛と救いの偉大さである。(2021.2.21)
「祈り」は呼吸に似ている。神の意志(息)を「聴く(吸う)」側面と、自分の意志を「願う(吐く)」という両義性を持つ。マザーテレサは「祈りとは、自分自身を神のみ手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を聴くこと」と言うが、前者に強調点があるように思う。今日の箇所では後者を併せ持つ。願いが拒否されているかのような神の意志を受けつつも、諦めずに全集中で粘り強く求め続ける祈りが状況を変えたのだ。ここでは「御心のままに」と黙従の信仰にのみ価値を見出す高尚な姿勢に疑問を呈するだけではなく、神の意向に接しても「否」と対話できる余地さえ与えられている。聖書には至る所に同様な事例が見受けられる(アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエスのたとえ等)。神はご自身の意向を示しつつも、そこで深くわれらの意志との対話を望んでおられる、ここに神の御心が聴こえて来ないだろうか。とすれば何とわれらは容易に願いを取り下げることが多いのだろう。全てを集中させて神に聴き、また全力で神に求める。一方通行では息切れするだろう。祈りは神との霊的呼吸であり絶えざる対話である。(2021.2.14)

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