2025年度主題「キリスト・イエスにあって一つ〜包摂的共同体を目指して
昨年5月、水俣病犠牲者懇談会の途中、環境庁の職員が患者団体代表の発言中にマイクを切った問題が発生した。後に当時の大臣が謝罪する事態となった事は記憶に遠くない。止める事のできない犠牲者の心情、職員側としては職務遂行上の責任。どちらも必死だ。主イエスのもとに集まってきた人々も必死である。日雇い労働で何とか生き延び、その日の食べ物にも事欠く貧しい人々、差別を受け社会での居場所を追われた路上生活者や病人。主イエスは両手を広げ多様な人々を包んでいかれる。日が沈みかけると弟子たちが言う「群衆を解散させてください」と。しかし主イエスは、辛さの中に置かれている人たちの声を途中で切る事はなさらなかった。目の前にいる必死な人たちを放って置けなかったのだ。主イエスのもとでは様々な人たちの居場所が与えられ共に食事が分かち合われた。年代、経済的状況、人種、民族、社会的地位、性別などの区別がなくされるほどすべての人々が受け入れられたのだ。今年度の主題は「キリスト・イエスにおいて一つ〜包摂的共同体を目指して」(ガラテヤ3:28)である。キリストのもとでは、世代やジェンダー、文化、信仰や経験の違いを超えて一つに結ばれ、満ち足りる場所へ招かれる。
教皇フランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)の葬儀は約25万人が参列。アルゼンチン出身の彼は特に弱くされた人々に目を向けていた。貧困者に寄り添い、自らも質素な暮らしを貫きつつ世界に出向いて平和を訴え、来日した際には東北、長崎、広島を訪れ核の廃絶を訴えた。彼は幼少期から肺の病気により数年間入院生活をしている。健康な人をねたみ、神に対しても怒りを覚える日々。辛そうに呼吸をする彼を見舞った修道女が声を掛けた。「あなたはキリストと同じ息遣いですね」。この言葉が彼を変えたという。2013年に第266代教皇に選出され「キリストの代理者」としての使命を担った。主イエスは弟子たちを村々へと派遣するにあたり「何も持たずに行きなさい」と言われる。地位も金も所有していない弟子たちを受け入れたのは誰だろう?おそらく権力者などは戸惑う。喜んで迎えるのは貧しい人や孤独な人、助けや支えを必要とする病人たちであろう。主イエス自身、そのような人々と出会う旅を続けられた。5月には次の教皇が選出される。理想的な教皇は?ある枢機卿によれば「平和のために尽力し、弱い者に寄り添い、誠実に統治できる人」だという。次期教皇によって喜ぶ人、戸惑う人もいるだろう。プロテスタントでは教皇制度はない。だがキリスト者全員が「キリストの代理者」として世に遣わされている。個人的能力や所有物が重要なのではない。ありのままで「キリストを着る」(ロマ13:14)という誠実さが鍵だ。(2025.4.27)
「彼はもう終わった・・」と、神と人から見捨てられる結末に思えたイエスの十字架。だが神は、主イエスを復活させ、死という命の終焉を復活の初めとされた。「復活」それは、死という絶望の先にある希望、悲しみの先にある喜びである。復活は、暗い夜が明けて到来する光であり、長く厳しい冬が終わり、春を告げる命の躍動である。人間が終止符を打つような出来事を神は句読点とされる。神のご計画の中では、人間の宣告するピリオドは大いなるカンマ(区切り)に過ぎない。絶望や挫折、そこから新しく展開する道、神が一切のことを良い方向に仕上げてくださる希望が存在する。われらは、ここに招かれているからこそ、未だ見えない将来にむかって生きる勇気を抱くことができる。冬から春へは瞬時に変わらない。また夜明けから朝焼けに至るまでにはさまざまな色合いがグラデーションのように存在する。そのようにさまざまな葛藤、迷い、疑いがあるのが人間の現実だ。しかし、復活という希望、それは水面下に投じられる一雫のように同心円状に畝りながら着実にわれらの中で幾重にも輪を描きながら波動的に広がっていく。復活という希望が心の中心にある限り、われらの命も主イエスと共に躍動するのだ。(2025.4.20)