牧師紹介 Profile


 田中 信矢 Shinya TANAKA

 

 1969年熊本生まれ札幌育ち。放送大学教養学部、元(株)銀座コスモ天地堂札幌エスタ店勤務。会社員時代に神の愛に気づきキリストの伝道者を志す。日本福音宣教会アンデレ宣教神学院卒、Shepherd University(LA)大学院神学部卒。

日本バプテスト連盟札幌新生キリスト教会牧師を経て南光台キリスト教会8代目牧師に就任。妻と子(2人)の4人家族。

 

 現在、東北学院大学、東北学院中高他、地元キリスト教学校の礼拝説教や講義にも携わるかたわら、定期的に保育園で園児たちに聖書のお話もしている。また、仙台市内ホテルのチャペルにてキリスト教結婚式の司式を挙行することもある。


礼拝メッセージ(牧師コラム)「先週の説教から」


『新しい革袋』マルコによる福音書2章18−22節

「目からウロコ」「豚に真珠」等。いずれも出典は聖書である。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」もその一つ。「新しい思想や内容を生かすためには、新しい形式が必要」という意味で使われている。イエスのおられるところでは祝宴のような喜びがあり、楽しみがあり、感謝の歌声が響く(イザヤ513)世界が実現していた。一方、正しさを巡って、昨今のマスクや自粛警察と呼ばれるような存在から非難の的とされたイエス。そこで語られたのが上記の言葉である。イエスにとっての関心事は、相手に正しさを強要する関わりではなく、ただありのままの人間を愛し、共に歩むことであった。それゆえイエスは正しく生きる事ができず、罪人とされた人々の重荷、悲しみ、そして他者の罪を背負う者となられた。そこにイエスの正しさ、罪なき姿がある。「新しいぶどう酒」はイエスご自身と深く結び付いている。「ぶどう酒」は当時も常飲され、祝宴には欠かせない存在である。形式によらない新鮮で豊かな喜びをもたらす源泉は、「主イエスが共におられる」という恵みから到来するのだ。コロナの時代、「新しい生活様式」が推奨される。「新しい革袋」が必要だ。今までの常識が通じず、発想も根本から転換が求められる時代にあって主の招きがひときわ新鮮さを増す。われらが時に変化を受け入れられず、喜ぶことが困難な状況にあるからこそ、主イエスと共に歩む道に招かれている。この方に絶えず心を向けて歩む日々にこそ、活き活きとした喜びが発酵し、芳醇なる感謝が熟成されていく。共におられる主イエスを喜ぶ心。それは新しい革袋としてどのような変化のある時代にも潤いをもたらす福音となるのである。2020.7.26


 『主イエスの招き』マルコによる福音書2章13−17節

あるクリスチャンが強盗事件に巻き込まれ、被害者として法廷の証言台に立った。そこで被告人の罪状と共に処罰に関する内容が告げられ、意見を求められた。生活苦による犯行で加害者本人も悔いている様子。証言者は寛大にも情状酌量の意を示そうとして思わず「わたしも<罪人>ですから・・・」と言ってしまった。「え!?」表情を変えた裁判官。法廷の雰囲気が一瞬にして変わる。即座に気付いて「ああ、私はクリスチャンで宗教的な意味です・・」と弁明し、その場が和らいだそうである。▼当時、不正な利を貪る者として疑惑の渦中にあったユダヤの徴税人。レビもその一人であった。彼が不正に関わっていたかは不明であるが、レビはイエスの招きに応じ、新しい人生を歩み始める。レビは自分も「罪人」と自覚していたのであろうか。ギリシア名では「マタイ」。後に12弟子の一人に名を連ね、一説には「マタイよる福音書」原本の著者として、キリストの福音記者をとなったと伝えられる。彼にとってイエスの招きは、自分を救い、人生を全く新しく変える転機となったのだ。主イエスは言う。「健康な人に医者はいらない。わたしが来たのは正しい者を招くためではなく、罪人を招くためである」と。一方、自らを「正しい者」との自認していた当時の宗教的な指導者や学者たち。やがて彼らは自分たちの主張する正しさをもって救い主である罪のない主イエスを十字架につけることになる。自分は本来、人を裁けるような正しい人間なのではない、という神の前で抱く宗教的な自覚。主イエスの招きは「自分の正しさ」ではなく、自らの罪を知り、赦しを求めている人にこそ救いをもたらす恵みとなる。2020.7.19 


『罪を赦す権威者、主イエス』マルコによる福音書2章1−12節

 皮膚が剥がれ落ち、身体が崩壊していくかのような「ツァラアト」の人を清められたイエス。その話題は今で言えばトレンド入りし、周辺地域に拡散された。数日後、イエスがおられた家では人々が押し寄せ、ひしめき合う状態であった。するとその場所の屋根が剥がされ、一人の中風の人が釣り下される。屋根が崩され、破片が落ちてくる状態は、皮膚が剥がれ落ち、身体が崩されるような症状で苦しんでいたツァラアトの人を連想させる。周囲にいる皆があっけに取られている中、主イエスはすべてを理解したかのように宣言する。「子よ、あなたの罪は赦される」と。身体の神経が麻痺する障がいを負っていたこの人はツァラアトと同様、神から有罪の判決を受けていると考えられていたのだ。罪を赦すことができるのは神以外にいない、冒涜だ、と学者たちの心は炎上。そこで主イエスは罪を赦す権威者として中風の人に、「起きて床を担いで歩け」と命じられる。主の権威は、苦しめれ、虐げられ、自分ではどうすることもできない悪しき束縛から解放する救いとして行使される。人間にとって癒しよりも優先されるべきなのは神から罪に問われない事。不幸や悲しみ、困難、苦しみが神からの刑罰ではないと思える事だ。人は因果応報で、不幸をもたらす犯人探しをするが、そこではツァラアトや中風の人たちのように、いわれもない苦しみを強要され、差別される人たちを生み出す温床になってしまうことがある。しかし、主イエスはその差別や苦しみ、罪からわたしたちを解放される。罪を贖う主イエスの十字架、その権威によって。2020.7.12


『感染者?に触れ合う主イエス』:マルコによる福音書1章40−45節

「重い皮膚病」と訳された「ツァラアト」。以前は感染力の強い病とされたが、実際は感染力も遺伝性も立証されていない。COVID-19では2mだが、当時この患者は数キロレベルのソーシャルディスタンスが要求された。社会から隔離されてひとり孤独に暮らさねばならず、人前に出ようものなら「私は汚れた者だ!私から離れろ!」と叫び、自分が感染源であることを叫ばねばならない規定があったのだ。(レビ記13章参照)さらに罪人に対する天罰的な病とされていた。当時は患者に触れると汚れに感染し、罪が移るという認識だった思われる。だが、主イエスはこの患者と触れ合う。そして「深い憐れみ(感情が強く突き動かされる様子)」で、いわば感染者に手を差し伸べる。この病を罹ったばかりに受ける想像を絶する身も心も張り裂けそうな苦しみ、腸が千切れるような痛み、それをもたらすものに対する憤り、主イエスは感染者とされる者と苦痛を共にされるのだ。そして主イエスは言う。「わたしの心だ、きよくなれ」するとたちまち、患者はきよくされた。主イエスとの出会いには真の触れ合いがある。そこでは命、生への共有、共鳴がある。主イエスは苦しみにある者の痛みに触れると同時に手を差し伸べられ、ご自身のきよさ、喜び、望みと力を供給される。(2020.7.5)


『権威ある教え』マルコによる福音書1章21−39節

 主イエスの教えに人々は驚嘆した。どのような「教え」であったのだろう。あらゆる宗教や教祖などは、その教理(教え)が重要視される。だが、マルコ記者はイエス教えの内容については触れていない。ただ「権威ある教え」に非常に驚く人々の反応が伝えられる。主イエスの教えは、人々を苦しめる悪しき者から解放する「わざ」そのものであった。権威には服従が伴う。悪しき霊、病いさえも主イエスの言葉に服従した。即ち、「権威ある教え」とは実質、人々をその悲しみや苦しみ、悪しきものから救い出す神の力、そのものなのだ。ゆえに「宣教(ケリュグマ)」と呼ばれたのである。主イエスは弟子たちと共に巡回して宣教し、大勢の人々をその悪しき束縛から解放して自由を与え、罪の縄目を解くわざをされた。今もわれらと共に、主イエスは宣教のわざを果たそうと共に働いておられる。(2020.6.28) 


『弟子への招き』マルコによる福音書1章15−20節

 師弟関係というものは、弟子の方が志願するのではなかろうか。だがイエスの場合、みずから歩み寄って声をかけ、弟子へと招かれる。だとすればこの招きは恵みそのものである。われらがイエスのおられる場所を捜し求めるのではなく、イエスの方からわれらのいる場所を捜し求め、われらを見出し、そこで招かれるのだ。招く前にイエスが彼らを見つめておられた姿が印象的だ(16,19)。招く者ひとり一人のあるがまま、至らぬ部分を含めた存在全体を見つめて受容するかのような深い眼差し。イエスはすべてを承知のうえで彼らと共に歩もうと招かれるのである。イエスの招きに応じるということは、弟子の側ではなく招く側に一切の備えがあるという恵みに気付かされる。弟子たちの前途には時にイエスの心を理解できず嘆かせ、期待に応えるどころか裏切ることもある。しかしイエスは食する暇も寝床の枕ももたず、ただひたすら人々にしもべのように仕え、招いた者をこの上なく愛し続け、十字架でご自身の命をささげる程にすべてを与えて歩まれた。すべては招く側のイエスが背負い、愛を注ぎ、忍耐を尽くして最後まで弟子として受けいれ、弟子と共に働かれるのである。弟子(マセーテース)とは、その主であるイエスの生き方、全存在に学ぶ者である。われらも主イエスと共に歩む者として招かれている。(2020.6.21)


『荒れ野にて』:マルコによる福音書1章11−13節

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」(マルコ1:11)聞こえてきた天からの声。その後、イエスは「荒れ野」へと追いやられる。(2)「荒れ野」とは人が生きる事が非常に困難な環境であり、命の保証もなく、寂しく孤独な場所である。イエスは最初から受難の道を歩まれた。獅子は子を崖から落とすと言われるが、イエスは荒れ野へと捨てられるような日々を送られる。われらもまた、あたかも神に捨てられるかのような経験へと導かれる事がある。だが、それはイエスと結ばれ神の子として歩む道なのであり、一時的な鍛錬期である。「主はご自身の神聖にあずからせるという目的で、われらを鍛えられる」という(ヘブライ122-11節参照)。なぜなら「あなたは神の実子」とされているからであり、神に「愛されているから」というのだ。荒れ野の道とは当座は喜ばしく思えぬが、後に大いなる神の愛に気付く時が必ず来る。誰とのつながりもなく切り離され、自らの価値を見出せず、一切の営みが絶たれるかに思える荒れ野にて、イエスもそこに共におられる。そしてイエスのもとでは自分に敵対するような存在、命を脅かす野獣のような存在さえも共生する平和(シャローム)が到来する。(2020.6.14)


『福音のはじめ』:マルコによる福音書1章1−11節

 ▼横田めぐみさんの父親である滋さんの葬儀がキリストの教会で執り行われた。当時中学1年生であった娘が拉致被害に遭い、これまで半世紀近くも被害者救出を訴えて来られた。妻の早紀江さんは娘と同級生の母親から聖書を勧められた時、「泣いて苦しんでいるのに、こんな小さな字の本をどうやって読めるのか」との思いを抱きつつも教会に通い始め、めぐみさんが成人した1984年にバプテスマ(洗礼)を受けておられる。「キリスト教なんかわからない」と言っていた滋さんも2017年に入信された。愛する娘を奪われ、恨みや憎しみに満ちても不思議ではない。しかし加害者を呪うような生き方から、回心を祈る生き方へと導かれていった。キリストの福音を信じ、信仰を持たれたこのご夫妻、記者会見においても「滋さんは天国に生きました!」そこで再会できるのだ、という大胆な希望を語ることができるのは、イエス・キリストによる福音に裏付けられた、神の救いの約束から来る根拠のある確信といえよう。私たちも神の愛のもとで、同じ希望に招かれている。▼公生涯のはじめにバプテスマを受けられたイエス。彼は回心や悔い改めが必要であったのではなく、私たち同様、救いを求めて苦しんでいる人たちの哀しみを共にするためである。かつて出エジプトの際、民は水の中を通って救い出された。道なきところに道が備えられたのだ。イエスも私たちの道として公の歩みを始められた。「福音のはじめ」それは主イエス・キリストが私たちと共に生きる道を歩まれたという出来事からはじまる。(2020.6.7)


『キリスト教会の誕生』ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝:使徒言行録2章1−47節

「愛されたかった人生でした」とのコメントを最後に亡くなった人気女子プロレスラー。日々押し寄せる誹謗中傷の洪水に誰が耐えられよう・・・。『邪悪なこの時代から救われなさい』とペトロは勧め、彼の言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に3000人ほどが仲間に加わる。この群れはエルサレムに誕生した最初のキリスト教会であった。かれらは喜びを周囲に広げ、イエスの教えである「汝ら相愛せよ」との言葉に生き合い、民衆全体から好意を寄せられていた(47節)。たとえ周囲から愛されていないかに思えても、創造主なる神からは誰もが愛されている。ガリラヤ出身の小さな一団は、聖霊という神の愛の息吹に満たされ、取るに足りない弱く小さな存在が、やがて全世界を変える偉大な神のわざに用いられる器となっていった。誰もが愛されるために存在することを全世界に伝えるために。(2020.5.31)


『時の支配者復活の主イエスと共に⑦使徒言行録1章3−11節

「時の政権」という言葉を聞くが、世界中の国の指導者が権力を独占するケースが増えている。民主主義の視点において危惧する声があがる一方、国民に利益が得られるならば構わない、と問題視しない声もある。古今東西、国民が自信を失い、不安や弱さを抱えていると強いリーダーシップに惹かれてしまうのだ。ローマ帝国による圧政からの救世主と人々から期待されたイエス。彼は無残にも極刑によって処罰される。しかし「復活」によってあらゆる世の支配から解き放たれ、強大な時の権力によっても滅ぼされない「神の国」が示された。弟子たちはこのタイミングでイエスが国を再建すると考えた。だがイエスは聖霊を待ち望むようにと指示をされる。聖霊の働かれるところでは、イエスの人格、生涯においてあらわされた神の国(支配)が到来する。嘆き悲しみが喜びに、苦しみが救いに、絶望が希望に変えられていく。上に立つものがすべてを仕切り、意見の合わない者を排除したり、暴力で弱者を虐げる国ではなく、上に立つ者が一番下(しもべ)になって仕え、人々を救う世界。如何なる者であろうと見捨てられず、その尊い命の価値を認められて誰もが愛される世界だ。世にある権力は永続しない。しかしイエスの支配は終わることがない。復活のイエスは聖霊として今も働いておられる。われらはこのお方に従い行く。その時、われらは気付くであろう。この世にあっては神の国の住民とされており、手元には必要な恵みが速やかに給付されている事を。「時(タイミング)」というものを人間は支配できないが、神は偶然や出会いをも支配し、時宜に叶った必要な恵みを与えようと導かれる。自らの力によらずとも、「時」を支配される神の愛に信じ、希望と感謝の道を歩むのだ。(2020.5.24)


「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる〜復活の主イエスと共に⑥」:

マタイによる福音書28章16−20節

「Good byeという別れの挨拶は、God be with ye(you)が短縮された言葉と言う。相手の無事を願い、決して孤独でない事を意識化し得る激励とも言えよう。マタイによる福音書では「インマヌエル(神はわれらと共におられる)」という言葉を最初から最後まで貫き、福音の総括として伝える。目下、教会における礼拝の結びの祝祷では詩編121編が朗読される。この世の中がどのような状況下にあろうとも、たとえ世の終りに思えるような事態となろうとも、われらの助けは天地を造られた主から来る。このお方は不眠不休でわれらと共におられ、とこしえに見守られるお方である。ボンフェッファーは「忘却は愛のない時に生じる」と語っている。愛のひとつの側面は常に相手を覚え、心にかけ、決して忘れない。われらは神が共におられることを忘れ、気付かない事がある。だが、神はそのような時でも変わらず常に愛をもって、忘れず、常に覚えて「共にいてくださる」のだ。「思い煩いは何もかも、神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Ⅱペトロ5:7)と聖書は語る。復活のイエスは「わたしはアルファであり、オメガである(最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである)。」(黙示録22:13とご自身をわれらに示しておられる。「見よ、わたしは世の終りまであなたがたと共にいる」この言葉は神の真実、誠実なる約束である。試練の時、病苦にある時、困難や悲しみ、そして回復と喜びを迎える時も、時宜に叶うよう全てを備え、愛のうちに一切の必要を満たされる。最初から最後まで神は共におられる。あなたは一人ではない。(2020.5.17)


『あなたは、わたしに従って来なさい〜復活の主イエスと共に⑤』:ヨハネによる福音書21章15−25節

「♩ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね。そうよ、母さんも長いのよ」作者のまどみちお氏によれば、象の子は自分が象であることを喜んでいるのだという。理由は大好きな母と同じだから・・・。母の日は教会から始まった行事であるが、作者のまど氏も青年時代に教会で洗礼を受けている。メルロ・ポンティー(幼児心理学者)は、隣の子の玩具を見て泣きわめく姿に、自分と他者の違いを区別することの出来ない未熟性が「嫉妬」となってあらわれていることを指摘しているが、大人といえども社会にあっては他者と比較しながら一喜一憂する。復活の主イエスはペトロを愛し、彼のあるがままを受容しつつ、彼が果たすべき使命へと導かれた。一方、同じ弟子であり、主イエスに愛されたと者と自称するヨハネ。ペトロは彼の行く末をイエスに問う。しかしイエスはあくまで、ペトロ自身を招く「あなたは、わたしに従ってきなさい」と。人は他者との違いに劣等意識があったとしても、自分を完全に認めてくれる存在によって個性を喜び、自分にしか果たせぬ使命に専心する。神は他者と比較しながら個人と関わることをなさらない。ひとり一人をかけがえのない高価で尊い存在として愛されるからだ。主イエスを通して現される神の愛は全ての者に等しく及ぶ。2020.5.10  


舟の右側に網を打て〜復活の主イエスと共に④』:ヨハネによる福音書21章1-14節

 復活の出来事は実に不思議であるが、弟子たちを覚醒させ、確信を強める事はあっても、打ち消すような事には決して至らなかった。復活の主はティベリアス湖畔(ガリラヤ地方)にご自身を現された。弟子たちとの思い入れの深い出会いの場所、馴染みの場所であり、日常そのものである。岸辺に立ち、弟子たちに親しく問いかけるイエス。彼らはイエスだと気付かない。復活の主は可視的な姿に限定されず、以前よりもさらに恵みと自由な姿を通して、彼らの日常と共にあることを伝えようとされた。▼「舟の右側に網を打て・・」聖書では<右>は神の側を示す。反対は人間の側だ。われらは自分の最良と思う方法で生命の糧を得ようとするが、時にそれは不漁に終わる。神の指し示す言葉に従ってこそ最善があり、希望に繋がる出口を見出す。われらはこの世を歩む途上で、いつも新しい指示と、認識を必要とする。それは常に新たなる目に見えない敵に遭遇したり、今までになかった困難に直面したり、これまで考えた事のなかった問いに直面するからだ。だが、たとえ未知の経験、われらを震撼させるような恐れに囲まれたとしても、復活の主イエスが共におられ、われらのために先回りして全てを整えておられる。復活のイエスの姿は、われらの判断では気付かぬままかも知れない。しかし、常に神の側に立ち、自らの無力を認め、日常の様々な出来事を通して問われている<声>に耳を傾けて生きるならば、「舟の右側に網を打ちなさい」と弟子たちに語られたように、われらにもその時なすべきことを示され、必要を備えられる復活のイエスに出会うのだ。主は今日も生きておられる。2020.5.3    


『見ないで信じる人は、幸いである〜復活の主イエスと共に③:ヨハネによる福音書202429

  ット上で配信されたTOGETHER at HOMEというチャリティーライブ。世界的に有名なアーティストらが参加し、各自宅から希望の歌を繋いで全世界にエールを送っている。グラミー賞を何度も受賞している米国の歌手テイラースィフト(Taylor Swift)は、重い病気と診断されてしまった母親にささげた曲「soon you'll Get better」を披露している。彼女はこの楽曲で、「I pray to you. Desperate people find faith,so now I pray to Jesus too…」とイエスに祈り、病床にある者を励ましている。「すぐに良くなる!」この言葉には、見ないで信じるという信仰が表明されているようにも思う。

▼目下、礼拝に集まれる者とそれが出来ない者がいる。他の弟子たちと一緒に集まれなかったトマスであったが、復活のイエスは彼に出会われた。懐疑心の典型とも呼ばれるトマス言葉をそのまま受け止め、誠実を尽くされるイエス。復活のイエスは裏切りも疑いも不信仰もすべてを受容する姿で個別に出会われたのだ。トマスはそのイエスに出会い、「わが神、わが主よ」と告白する。神は<群れ>を養われるが、その呼びかけや出会い至っては<個人的>であり、親密に関係される。信仰は多勢の者が集まって和気藹々としている場所ではなく、むしろ人と人とが引き離される時、荒野のような寂しさと厳しさの中で、孤独へと放り込まれた状況でこそ飛躍し、深められる。人と人を遠ざけるウィルスが蔓延する状況下ソーシャルディスタンスが求められているが、神との信仰的距離は近いほど救いとなる。その意味で信仰とは神との密着にある。それは不安の中でも神の言葉に信頼し、全身全霊を委ね切ることである。あなたは独りにされているのではない、復活のイエスと出会う者とされているのだ。この時期こそ、主を喜ぼう。2020.4.26


『あなたがに平和があるように!〜復活の主イエスと共に②』ヨハネによる福音書20章19−23節

 外出できずにいるのはわれらだけではない。イエスの十字架の死後、弟子たちにも共通項がある。彼らはウィルスではないが、外に出ることで身の危険を覚えていたのだ。ユダヤ人たちを恐れ、復活したと伝えられるイエスに会うことにも不安であった。主を裏切って逃げて来た弟子たち。彼らは密集し、家には鍵をかけて密閉、密接の状態にあった。彼らの内には恐れと恥という名のクラスターが発生していた・・。そこへ、復活の主イエスが顕れて真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げる。主イエスによる「平和」、それは単に争いのない状態にとどまらない。「平和」とはすべてのことが<正常な状態>にあることだ。平穏、無事、安心に過ごせる事、いのちが充足し、生きる意欲に満ちる事、人と人の距離が隔てられておらず、互いに責め合うことなく和合している状態を内包する。しかし何よりも復活の主イエスが与える平和は、<神との和解>である。「あなたがたに平和があるように」と復活の主イエスは何度も語られる。不安を払拭できず恐れの中に埋没している弟子たちにとって何と爽やかな風が吹いた事であろうか。出口の見えない息苦しい状況にあって、何と恵みに満ちた希望の光が差し込んだ事だろう。彼らは主を見て喜んだ。この平和は空風のように、吹いて素通りするような平和ではなく、試練や絶望、死を前にしても萎縮しないほどの揺るぎない平和である。それは自分で獲得するものではなく、主イエスによって与えられるものである。こう言う表現は相応しくないかも知れないが、この時期にあえて言うならば、われらは平和のクラスターなのである。主イエスの平和を広げる<群れ>とされているのだ。われらは復活の主イエスからこの平和をいただいて、この世に遣わされる。主の恵みを広めるため、喜びを分かち合うため、確かなる望みをもたらすために。2020.4.19   


『復活の主イエスと共に』<イースター礼拝>:ルカによる福音書24章13−35節

「暗い顔つき」で歩いていたエマオ途上での二人の弟子。かつて抱いていた希望が総崩れとなり、失意と落胆から来る表情であろう。そこへ復活のキリストが近づき、共に歩み始める。かれらは一緒に歩くお方が主イエスだと気付かない。だが、共に歩むうちに心燃やされ、明るさを取り戻し、遠ざかっていた群れに再び向かう原動力となっていった。われらも二人の弟子と無縁ではない。集まりが遠ざけられ、目が遮られており、主イエスが共におられることに気付かぬまま、不安の中で顔を強張らせ将来に暗澹たる思いを宿している。しかし、主は生きておられる。きょうも私の側に近寄り、一緒に歩んでおられる。疲れ切った夕暮れ時には癒しを、悲しみのあるところに慰めを、望みを失ったところに確かな希望を種蒔いていかれる。非常事においては、生きるために必要なものの真価が問われ、淘汰されていく。われらの信仰において無くてはならぬ最も大切な福音の拠り所は「主イエスの復活」の出来事である。2020.4.12


『主イエスと共に』マタイによる福音書18章19−20節

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)と主イエスは言う。しかしわれらは今、最も集まることが困難な事態に直面している。「人をみたらコロナと思え」言わんばかりに接触を避け、人と人を遠ざけながら身を潜める日々はいわば集合受難期である。しかし、われらは主イエスの名のもとに<心>が集められている。互いに疑心を抱かざるを得ない日常にあっても、「イエス(神は救いの意)」という主の名は信じるに足る。事前に洗浄も消毒も不要。そのままで身も心も寄せてすがることができるのである。前代未聞の逆境下、主が共にいてくださる。教会暦は受難週に入った。十字架の道を忍ばれ、すべての苦難をその身に受けたられ主イエス。われらも主と共に歩む。主イエスと共にあるなら必ず、回復と希望の道にも繋がっているはずだ。2020.4.5   


『閉塞感からの脱出」詩編13編1−6節

「主よ、いつまでですか・・・。」(2-3節)詩人は終わりの見えない苦しみに、ひたすら神に向かって窮状を訴える。出口の見えない暗黒のトンネルで不安や思い煩いが心を去らない。果たして終息の見えない感染症、不安との闘いはいつまで続くのだろうか。▼昨今カミュの「ペスト」が再びベストセラーとなっているという。ペストが蔓延する事態の中で繰り広げられる出来事は現代にも通じる。互いに疑心を抱く人々の相互不信、後手に回り続ける行政の対応、愛する人との過酷な別離。不条理が取り巻き、極限状況下における未知の災厄に挑む人々の闘いでは「自分の職務を果たすこと」や「誠実さ」が問われている。▼詩人にとって自らなすべきことは、神に信頼し続けることであった。彼は一条の光が差すように望みを見出す。それは「神の慈しみ(ヘセド)」であった(6)。「誠実」とも訳される言葉だ。移り変わりの多い世においても、神は変わることなく誠実を尽くされる。「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛した。それゆえわたしは、あなたに誠実(ヘセド)を尽くし続けた」(エレミヤ31:3)。神の誠実さに依り頼むことが、望みを繋ぐ脱出の道だ。神はわれらを苦しみのまま捨て置かれない。主イエスが世の光、望みとして共におられる。ゆえにわれらも誠実に、落ち着いてなすべき務めを果たそう。2020.3.22  


『献堂12周年に寄せて』歴代誌下7:11−17/マタイによる福音書18:19−20

『南光台キリスト教会の皆さんは、いつも私たちに〝感謝に始まり感謝に終わる〟その気持ちを伝えてくださいました。そのことが常にクライアントに信頼されているという安心感につながり、私たちのエネルギーの源になりました。以前の教会堂は40年で建て替えられましたが、新会堂は私自身がこの世を去っても末長く存在できるよう設計したつもりです。南光台キリスト教会が、いつまでも皆さんに愛され続けるように心から願っています。』献堂にあたってビフォーアフターでお馴染みの「匠」こと建築士である本間貴史氏から頂戴したありがたきコメントである。感謝にたえない。この度、分離発注方式の好例としての本が出版され、当教会の建築事例が紹介されるとの事である。▼献堂式においても朗読されるソロモンの祈りと神の応答(歴代誌下7章参照)。古代イスラエルの時代、神にささげられた「神殿」は、疫病や災害など人間の力の及ばない領域、どんな窮地に立たされても望みを繋ぐ祈りの場所、万民の拠り所であった。主イエスはご自身を「神殿」(ヨハネ2:21)とされ、その名において集められる所を祈りの場とされた。(マタイ18:19-20)▼今、多くの人が不安の中にあり、根拠のない情報に振り回されてしまう現実もある。だが、われらは常に主イエスとその言葉を根拠に歩む。われらが祈り求めるのは、自らの目的達成にあるのではなく、主が望んでおられることがこの地になるためである。不安や恐れにとらわれる事は神が望んでおられることではない。祈りにおいて主イエスに繋がっているならば、恵みにも繋げられている。それは同時に、共に神を崇める感謝に繋げられるのだ。「感謝」は安心を招く。未だに杉の木の香りをほのかに残すこの会堂。建物はいずれ老朽化するとしても、その本質は主イエスにあって常に新しい。(Ⅱコリント5:17) 2020.3.15


 『バベルの塔」創世記11章1−11節

完成に終わったバベルの塔。神は言語を混乱(バラル)させ、神のようになろうとする人間の野望を止められた。巨大な塔の建設は、おそらく権力の座にある者がその支配下にある者たちを強制労働させていたことによるものと考え得る。だとするならば、人間は互いの言葉が通じなくなった事で、世界に散らされたというこの原初史は、人間同士が相手をモノのように扱うという的外れな生き方から守られ、解放されてゆく救いの物語として現代に問うことができよう。・・・9年前、「安全だ、安心だ」とする言葉が乱れた。人間の過信、驕りから来る言葉が通じなくなったのだ。神の創造物を破壊することによってエネルギーを得ようとするシステムの背後では、必ず誰かが犠牲にされている。今も廃炉のために命の危機に晒されながら、ある意味で強制労働をさせられている現状がある。災害時や緊急時において顕在化する社会の歪み。残り少ない資材を求め必要以上に欲してしまう人間のエゴ。巨大なマモン()を得ようと欲望を積み重ね続ける塔の建設は中断されなければならない。そこでは神ではないものが神とされてしまう。神を畏れて歩むことのない人間の業績は未完に帰結する。既に与えられている恵みを見つけて謙虚に、互いの命を尊び合う道を歩みたい。神は常に、われらを救いへと導いておられる。2020.3.8    


『われらの創造主』詩編139:14-17

「あなた(創造主)は、わたしの内臓を造り母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。」詩編139:14,17

 

間の誕生は奇跡に等しく、その命、体の仕組みは神秘に満ちている。母の胎内に宿った0.2mmほどの受精卵には60兆個もの細胞があり、その人にしかない情報やプログラムが既にインプットされている。われらに備わっている臓器は完成品で、何一つ実験中というものはない。人間は母の胎内で心臓から形成されるというが、心臓は24時間休むことなく血液を全身に送り出すいわばポンプの役割を果たし、時速にすると約200キロの速さ(30)で循環。その量は1日約8トンにも及ぶ。人間の体の仕組みを調べるほど驚きの連続だが、その目的は生きるために形作られ、すべてが見事に機能している。聖書によれば人間は創造主である神によって造られ、皆、生きる事を望まれて誕生したのだ。創造主は既に免疫力という特効薬に相当する機能を人間に備えられた。ある研究者によれば、インフルエンザを患ったわが子の咳を浴びながらも看病する母親が不思議と感染しないのは、母親の脳内で「オキシトシン」というホルモン物質が分泌をはじめ、「セロトニン」という脳内神経物質と関係して作用することにより、免疫力が活性化するためではないかという。このような自然治癒力は普段から相手の身になって行動し、頭や背中をさすり親身になって看病したり、人を心から褒めたり、感動や感謝をすると高まるというのだ。創造主のわざを讃えずにはおれない。2020.3.1


『恵みの一雫』ローマの信徒への手紙5章12−21節

浜に停泊しているクルーズ船。最初はたった一人の感染者であった。当然その方も被害者であるのは自明の事だが、たった一人の存在によって多くの方がたに影響が及んだのだ。聖書には「一人の人」によって「罪」が世に入り、死がすべての人に及んだという(ローマ5:12)。仮に「罪」という存在をウィルスに喩えるならば、一人の人によって全人類が罪に感染、致死率は100%・・。という事であろうか。最初の人、アダムは自らの意志で神に背信したが、非を認めず責任転嫁をし、自らを神と対等の位置に捉えて正当化した。このような自己絶対化は神に対する罪となり、それが神と人との関係、人と人との関係、更には自然との関係までも破壊させる。アダムは人間と同義である。一方、主イエスは天からのアダムとして地上に降り、己を捨てて十字架にかかり、神への全き従順により救いの道を開かれた。「 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(同19節)もはや罪という名のウィルスはキリストが十字架で流された血の雫により、あたかもワクチンのように信じる者に救いをもたらしてゆく。この恵みは雫のように上から聖霊として注がれ、われらを和解と平和をもたらす主イエスの似姿へと造り変えてゆく。一雫、一雫がやがて大河となるように、日々主を求め、他者を潤す者でありたい。2020.2.16    


『バレンタインと信教の自由』:ガラテヤの信徒への手紙5章1節(信教の自由を覚える礼拝)

世紀、時のローマ皇帝は戦力の劣化を招かぬよう兵士らの恋愛や結婚を禁じた。しかしキリスト教の司祭であったバレンタインは純粋に結婚を望む者たちのために式を挙げ、処刑されたという。彼の殉教日が2/14。カトリック教会では聖人とされた。所謂「バレンタインデー」の起源とされる説である。▼かつてわが国も生き方や宗教が強制され、言論が規制され、一個人の命よりも国や宗教が大事とされた結果、多くの命が失われた歴史を持つ。▼杉原千畝(1900-1986)は政府やナチス軍よりも神を畏れ、聖書の言葉に後押しされるようにして自由を行使した。彼は人命の尊さを選び取って「命のビザ」を発給し続けた。彼の決断によって救われた命は6000名以上に及ぶ。マルティン・ルターは「キリスト者はすべてにおいて自由の主人であって誰のしもべでもないが、すべての者に仕えるしもべである」と言った。愛によって自ら選び取る道には自由がある。(2020.2.9)  


『主の死を告げ知らせる」コリントの信徒への手紙第一 11章26節

「死」の出来事は人と人を引き離す「別れ」であると同時に、どんなに遠く離れていても、生きている兄弟や家族、友人など故人と関係のある人たちを一つの場所(弔いの場)に呼び集める招集力を有している。どんなに多忙であろうと遠方であろうと、たとえ互いに顔を合わせることが困難になっている場合であっても、ある意味で強制力を持つ。われらは主の晩餐の度毎に集められる。そこでは「主の死」が告げ知らされる。それは主イエスの「死」という出来事が、あらゆる関係を和解につなぎ、救いにつなぎ、命につなぐ恵みを得させていくからである。「主の死」はわれらにとって贖罪としての意義を持ち、「主の死」が救いへの神との契約、主とひとつとされる関係性に繋げられるのである。主にあってひとつのからだとされることを覚え、われらは復活と主の御国を待ち望むのである。「マラナタ(主よ来たりませ )」2020.2.2(日)   


『神の国とは何か?』マルコによる福音書1章15節

ーマ帝国における支配は皇帝の権力下で「Pax Romanaローマの平和」が謳われていたが、実際は武力による統治を否めず、植民地であるガリラヤ・ユダヤの下層市民は圧政に苦しめられていた。一方、ナザレのイエスはガリラヤで「神の国の福音」と説きはじめた。その神の国を、皇帝を頂点とするローマ帝国におけるヒエラルキーの構図と対比させ、あえて可視的に表すならば、帝国とは真逆の逆三角形型構図となり得る。即ち「上に立つ者が仕える者になる」(マルコ1043)という世の支配とは逆説的な愛の支配(国)なのであった。皇帝に君臨する人間が神格化されていく中で、神の国では神の身分であるキリストが人間として、しかも社会の構図でいえば、最も底辺に生きるしもべのような姿で人びとに仕える生涯を送られた(フィリピ2;6-8)。その最たる姿は、他人の罪を背負って十字架にかけられローマ軍によって処刑されるという敗北に見えた。しかしキリストの復活により、神の国は滅亡するどころか世界中に拡散したのである。キリストは私たちを含む全人類の罪を背負われ、救済のわざを果たされたのだ。現代でも所謂パワーハラスメントが横行し、上層部にいる者たちの罪や不正がその配下にいる者たちに押し付けられ、重荷を背負わされてしまうケースが頻発する例を見ると、イエス・キリストが自ら示された神の国は「福音(ユアンゲリオン)」として響く。2020年1月26日(日)   


『礼拝暮らし』ローマの信徒への手紙12章1−2節

仰生活とは礼拝を中心とした生活である。「生活」と「暮らし」は似た意味だが、後者の方がより長期的で腰の座った生き方、自らの選び取りによる責任性、生(なま)の命の現場に立脚した意味に通じるように思う。その意味でわれらは「礼拝暮らし」をしているのだ。「礼拝」は人間が作り出したものではなく、神からのオファー(申し出)による。神は人格対人格の関係においてご自身を差し出して(オファー)してくださるので、われらはその神に応答する。神が何よりもわれらの暮らしに関わり、その細部に至るまで愛を差し出してくださるので、神に至上の価値を置く礼拝が引き起こされるのだ。パウロは「われらがなすべき礼拝(ライトゥルギア)」として、「自らを生きた聖なるいけにえとしてささげなさい」と勧告する。親は子が何を喜び、何に悲しむのか弁えている。そして子が幸いを得るためには時に自身を使い切る。弱っている時には寝ずに看病することもある。われらが神に自らをささげるのは、他ならぬ神ご自身が、われらのためにすべてを与え尽くしておられるという愛の真実に基づく。まさにイエス・キリストが自らをいけにえとしてささげられ、ご自分を無にしてしもべのように仕えられたと

いうという出来事が前提なのだ。「見よ、われらを見守る方は、眠る事もまどろむ事もない」(詩編121:4)

2020.1.19(日)   


『迷走からの脱出』イザヤ書30章18-21節

山道に迷うと同じ所をグルグル回ると言われる。ドイツのある研究グループによると目隠しをして一定の方向に歩ける距離は20m程度。方角がわからない状態で進むと大抵は同じ場所を回るという。人生に於いても同様な事は起こり得る。自分の立ち位置を見失い、どうして良いか判らずにいると迷走する場合が多い。新年となったとはいえ毎年、同じ事の繰り返し。将来に対する明るい兆しが見えず、混迷という名の濃霧に取り囲まれて右往左往する事もあろう。しかしたとえ視界が遮られても「耳」がある。騒ぎ立つ心を静め、呼びかける声を聞こう。確かな道にわれらを導く声がある。その声の主は、災いではなく恵みを与えようとして待ち構えておられる。迷いや行き詰まりがあっても、神はわれらの道を知られ、その道のりすべてに心を配っておられる(箴言5章21節)。たとえ先が見えずとも、神とその御言葉を信じて歩もう、恐れずに。神はその愛によって恵みと祝福の道を備えておられるのだから。2020.1.12   


『恵みによる選び」申命記7章5−7節 2020年新年礼拝

ーベル賞に選ばれる約20%はユダヤ人が受賞している。彼らは神の選民と呼ばれており、聖書が指し示す神の証人的役割を担っている。とはいえ、彼らが選ばれたのは元来「優秀」だったからではない。最も「貧弱」な民族で

あったがゆえに神が選んで愛し、宝の民とされたという(申命記7:7)。われらを取り巻く世の選考基準とは明らかに異なる。主イエスによって選ばれた弟子も然りである。ペトロは特段地位や身分が高かったわけではない。熱心ではあったが保身のため主を否んでしまうような弱さを持っていた。使徒パウロに至っては以前、キリスト信徒の敵であった。世の基準では途中で切り捨てられても不思議ではない者でさえ、神は自ら選んだ責任において変わる事なく誠実を尽くされる。「神の賜物と招きとは取り消されない」(ローマ11:29)というのだ。神の選びは偶然でも、人間の身分や資質、功績や実力によるのではない。ただ、神の恵みと主権によるのである。あなたも神の選びのうちある。それは母の胎内に宿る以前から(ガラテヤ1:15)、さらに天地創造の前に遡る(エフェソ1:4)。神

は愛において選び、信じる者を救われるのだ。このような恵みの世界があることに目を向け、謙虚に歩みたい。

2020.1.5    


『感謝の歌声』イザヤ書51章1−3節 年末感謝礼拝2019

ザヤ書51章の背景には、イスラエル民族の苦難の歴史、恐れと苦痛を味わう経験がある。かつては繁栄を極め、将来的にも安泰と思えた状況が一変し、エルサレムの都は敵国に滅ぼされて陥落。もはや人の住むところとは呼べぬ荒れ果てた廃墟となった。祖国に住めなくなるばかりか、遠い異国の土地に連行されてしまう。しかし、そのような憂いの多い民に神は語りかけられ、恐れと苦痛を味わっている人々に慰めと回復の希望を告げられた。たとえ荒れ野という厳しい環境、周囲には喜びや楽しみの要素、憩いの場所が皆無のような状況であっても、神はそこを歓喜と感謝の歌声が響くところに回復することがお出来になるのだと。かつて神は、アブラハムとサラを顧みて慰め、イサク(笑い)をお与えになった。この出来事に目を注げ、と預言者は語るのだ(2節)。アブラハムは、ただ「神の約束の言葉を信じた」(創世記15:6)。▼第二イザヤ書では「慰め」が大きなテーマの一つだ。イエス・キリストのご生涯を題材として構成されてあるヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」は、「慰めよ、慰めよ」と告げるイザヤ書40章の言葉で始まり、救い主(メシア)到来の預言へと繋がる。クライマックスでは有名な「ハレルヤコーラス」が、信仰者にとっては実に神への賛美と感謝の歌声として響く。神は辛い状況下でいきなり「感謝」という高いハードルを与えるような方ではない。苦難を経た者にとって感謝の歌声は「慰め」から来るのではないだろうか。救いの岩として切り出されたメシアである主イエス。彼は私たちが経験する以上の苦痛、苦渋をお受けくださった。ゆえに、私たちがどんな苦痛の経験、たとえ孤独に思えるような厳しい状況に置かれようともメシアは寄り添い、枯渇した魂に、泉のような慰めと恵みを注がれる。2019年、実に様々な事があったが、イエス・キリストの慰めもまた豊かにある事を信じたい。来たるべき新しい年、主にある希望を抱きつつ迎えたいものである。2019.12.29   


『ベストを尽くして』マルコによる福音書12章28−31節

ンタッキーフライドチキンで有名なカーネルサンダース(Harland David Sanders。幼い時から母親に連れられて日曜日は教会に通い、母親から「神と人に喜ばれる生き方をしてベストを尽くす」事を学ぶ。後にサンダーズカフェを経営し、客をもてなすために尽力。食べる人に喜んでもらおうと秘伝のスパイスを調合して完成したオリジナルチキンは、今も世界中で愛される味だ。晩年の講演会では「神と人から喜ばれる動機でベストを尽くことの大切さ」を語っていたという。▼ベストを尽くして神を愛し、隣人を愛すること。それが最も重要な戒めと聖書は告げる。神はまさにベストを尽くして、われらを愛し、御子イエス・キリストを世に与えた。キリストはご自身の利益を無にして、しもべとして死に至るまで仕えられた。▼12/4アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲氏。彼はキリスト教学校である西南学院中学校での学生時代に聖書に触れ、福岡にある日本バプテスト連盟の教会でバプテスマを受けてクリスチャンとしての歩みをはじめられた。医師となり、大干ばつと紛争が続く過酷なパレスチナの地域で、難民の医療体制を整え、食料支援や農村復興に取り組まれた。訃報に深い悲しみ抱きつつも、哀悼の意を表し、彼の言葉に耳を傾けたい。「誰もそこへ行かぬから、我々がゆく。誰もしたがらないから、我々がする」彼はアフガニスタンの人びとのためにベストを尽くされた。イエス・キリストは誰も来たくないこの罪の世に降り、誰も引き受けたくない十字架を背負い、愛を尽くされた。われらもベストを尽くしたい。

(2019.12.15礼拝説教より)   


『恐れることはない』:ルカによる福音書11章26−38節

エスの母となったマリア。今でこそ聖母とも称されるが、当時の彼女は結婚前に夫によらない子を宿す身。それは社会から差別を受け、排除されてしまう者となることを意味する。しかも乙女のまま、聖霊による妊娠という。前代未聞、普通ではない。同じ女性、妻、母親であっても<訳あり>となるのだ。真実を口にしたところで誰が信じるだろうか。ある意味、差別される側に置かれたのがマリアでもあろう。

しかし、天使は「恐れることはない」と彼女に告げる。自分だけ・・・。そう思わざるを得ない出来事にわれらは恐れを抱く。周囲との比較の中で自分一人違っている、取り残されている、そう思うと恐れが心を占める。また、将来に不安を抱えるとき恐れを抱く。だが、まさにその心にイエスが宿られる。福音書を読むとイエスは差別を受け、社会的に排除されようとして孤立する者に近づき、共に歩まれた。その意味ではイエスは真っ先に駆けつけるようにマリアの内に宿り、生涯彼女に寄り添われたのだ。世の中には、誰にも言えない自分にしかわからない事実のゆえに、心傷つき、理解されないまま置き去りにされてしまう人がいる。クリスマスキャロルは「イエスよ、心に宿りたまえ」という祈りに満ちている。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」(ルカ130)マリアのみならず、今もイエスは信じる者の内に宿りたもうお方である。(2019.12.8礼拝説教より)    


『私のもとに来なさい。休ませてあげよう』:マタイによる福音書11章28−30節

「すべて疲れた者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とキリストは呼びかけられる。果たすべき責任や義務を背負い、周囲の期待や結果を出すため労苦する日々。時にその重圧に耐えかね、疲れを癒すための処方を誤り、社会において取り返しのつかない負の軛(くびき)を背負う例も耳にする。聖書の時代、過酷な労働を強いられ、決して逃れられない関係の総称として「軛(くびき)」という言葉が用いられた。本来は荷物を運ぶために家畜の首に巻いて使用する木製の道具である。主イエスは「私の軛を負いなさい」と招く。当時、2頭の牛を1つの軛につけたのを「1軛の牛」(Ⅰサム117)と呼んだ。キリストの言われる「私の軛」とは、「主イエスと繋がる(共なる)軛」であろう。それはどこまでも自分のもとに来る者に寄り添い「一緒に歩もうとされる」主イエスの軛である。動けなくなると共に足を止め、倒れたなら共に伏す。常に共にあるのだ。それを拒み、反発すれば双方に痛みが伴う。主イエスは優しく続けて語られる。「私に学びなさい」と。「私の弟子となれ」と同義である。柔和で謙遜なお方が、弟子の抱えている重荷を共に負ってくださるのだ。弟子の足までも洗うへりくだったお方が、権威や暴力で強いるのではではなく、優しく愛をもって一緒に歩んでゆかれる、それが主イエスの軛である。「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いのだ」と。あなたは一人で重荷を背負っているのではない。主イエスを通して、われらは本物の<安らぎ>に出会うのだ。(2019.12.1礼拝説教より)

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書11章28−30節

  


『神はわれらの逃れ場』:詩編62:1−9節

欲の秋というが、味を豊かにする最高のスパイスは「空腹」である。どのような旨味を醸し出す調味料も「空腹」には敵わない。世の中で人生を豊かにする出会いは多くあろう。しかし人間は時にどんな物や人も満たされぬ欠乏、霊的な空腹を経験する。数学者・物理学者であり発明家のパスカル(1623-1662)は、聖書の示す神との出会いに涙しながら「歓喜」に満たされた。神以外の何物によっても埋まらぬ心の空腹領域、即ち「渇望」を経験する時、そこでこそ、われらは歓喜の泉、神の愛と慰めに出会うのだ。だとすれば、渇望は最高の恵みとなり得る。

ダビデは王からの妬み、子らの反逆により荒野に追いやられ、長期にわたり身の置き場がない命の危険、人に信頼することのできない状態を余儀なくされた。だが、彼はそこで神を渇望する信仰が養われ、真の安らぎを得る居場所を見出していった。われらもこの世で生きる限り恐れ悩みは尽きず、どこへ逃れようと安心安全神話は崩れゆく。そのような現場で、詩編の言葉はわれらを神へと導く。「神はわれらの逃れ場」と。まことの逃れ場は救い主、イエス・キリストのもとにある。(マタイ1128節)わたしのもとに来なさい。わたしを呼べ。と主は招かれる。どこを向いているのか、あなたの救いはわたしだ。あなたの望みはわたしにある、と。どのような危機、苦難、窮乏、孤独にあっても、向かうべき恵みの場所が備えられている。あなたに向かって広げられた両手、主の愛から引き離すものはない。(2019.10.27礼拝説教より)


『主われを愛す』:ヨハネによる福音書11章28−36節 / 2019年度召天者記念礼拝

する者との死別。その苦悩は想像を絶するもので、到底ひとりで背負い切れるものではでない。マルタとマリア、彼女らはラザロという愛する兄弟を喪った悲しみの中に置かれていた。彼女らはやり場のない感情をイエスに投げかける。「主よ、もしあなたがいたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに・・・」愛する人を喪った悲しみは心の傷として深く刻印される。その傷を癒す特効薬というものはない。知り得る事は、この心の傷口の痛みが深くて強いほど、それは真実に相手を<愛した>という事の証しなのだ。泣きながらイエスに訴える兄妹たち、一緒にいた周りの人たちも泣く中、聖書で最短節であるにもかかわらず、最もよくイエスのご人格を伝える言葉が記されている。「イエスは涙を流された」と。誰を責めるのでも、何を恨むのでもない。ただ、そこにある悲しみを受け止め、一緒に涙を流されるイエスが今も共におられる。先に主のもとへ召されたK姉の愛唱讃美歌「主われを愛す」。召された故人は神の愛する尊い命である。神にとっても、われらにとっても、その事実は変わらない。われらは「死」を通してイエス・キリストの言葉に聴く。その中で主は復活の場所へとわれらを導かれる。故人はわれらの住む世界とは次元の異なる場所に移されている。とはいえ、神の愛というひとつ屋根の下、隣の部屋にいるものと考えよう。再会という来たるべき時まで。2019.10.20礼拝説教より)


『救いの光が差し込む時』:ヨハネによる福音書12章46−47節

城清治さん(95)は、現役の世界的影絵作家である。人間の生き様、人生そのものを「光と影」をモチーフに描き、作品からは生きる喜びや愛が伝わってくる。まさに祈りの芸術だ。彼は学生時代、教会で影絵劇をしたことがきっかけで牧師の叔父に励まされ、この世界に入ったそうである。▼「世」を救うために「光」として来たイエス。光が差し込むと影が露わになる。眩しさに比例して影は濃くなる。人間の一生には「光」と「闇()」が混在する。どの部分が光で闇なのか?私たちは神によって照らされてはじめて気づくのかも知れない。しかし、神は「世」を裁くためではなく、救うためにこそ照らされる。漢字の「世」は「十」を三つ合わせた形から、従来は「家長が家を治める期間」(三十年)、「人の一生」を表す会意文字として成り立った。福音書が示す「世」と重ね合わせるなら、私たちの「一生」、そのすべてを愛される神がおられる。イエス•キリストの一生、ゴルゴダの丘に立てられた三本の真ん中にある主の十字架と重ねると、そこには神の愛、恵みの光が差し込んでくる。。(2019.10.13礼拝説教より)


『恩赦の生涯』:使徒言行録26章12−18節

使徒パウロは以前、キリスト教徒を攻撃する迫害者であった。ダマスコ途上で復活のキリストに出会い回心。新約聖書にある多くの書簡を手がける大伝道者となる。パウロ回心の背景にはステファノのとりなしの祈りが思い起こされる。▼最近NHKで放送された『逆転人生「ヤクザから牧師へ 壮絶な転身 人生はやり直せる」に出演した鈴木啓之氏。番組では割愛されたが、かつて不誠実な夫が回心するに至る背景には妻による長年の祈りがあったという事実がある。▼人は誰もが恩赦の生涯だ。誰にも迷惑をかけない人間などいまい。身も心も本来あるべき正しさから離れ、的外れな生き方をするのが、聖書の語る罪人の原義だ。このままで良いのだろうかと時に迷いながら、自分の至らなさを痛感しながら、とあるきっかけで自らの正体に絶句しながら、それでも生きている。生かされている。恩赦は自分の功績によらず、ただ一方的に与えられる恵みだ。イエス・キリストは今もすべての者のために十字架につけられたまま、とりなし祈っておられる。ここに命を与えられた神からの恩赦、生かされる根拠がある。もっとも権威ある「ゆるし」が宣言されているからこそ人は変わることができ何度でもやり直せるのだ。あなたは祈られている。(2019.10.6礼拝説教より)


『ただ、祈るしかありません』:コリントの信徒への手紙 第一3章7節

「あなたがたは聖書を持っています。だから、自分で自分を治めなさい。」ミッションスクール女子学院初代院長「矢嶋楫子」の名言である。彼女はキリスト教矯風会の初代会長として封建社会にあった時代の女子教育、女性の人権向上のために生涯をささげた。▼楫子は数ある校則を撤廃した教育者としても知られている。その根拠は「神の愛に感じて、してはならないこと、すべきことの判断ができる人間になることを教えるのが私たちの教育。育てられるのは神です。私たちは祈るしかありません。」との言葉にも表明されている。楫子自身の経験に裏打ちされているのだろう。▼私たちは共に生きる相手に対し少なからずある要求を抱きながら接している。たとえ、どんなに確信のある価値観、正義であったとしても、相手に押し付けた時点で愛から遠ざかってゆく。愛はただ信じ、たた望み、それでも変わらなければ、耐えるしかない(コリント第一13章7節)。本人に気づかせ、成長させるのは神なのだ。私たちはただ、祈るしかない。だが、祈りこそは他者になせる最大の愛の行為のひとつと私は思う。誰も傷付けず、確実に届けられる。振り返れば私たちは祈られて事に気づき、祈られて救われ、祈られて神の恵みを知る者となったのではないか。だから私たちもただ祈り、神にゆだねよう。

(2019.9.29礼拝説教より)  


【「ラグビーの起源とされたクリスチャン」:エレミヤ書9章22−23節】

グビーラグビーワールドカップ2019日本大会が開幕した。「ウェブ・エリス・カップ」優勝トロフィーの名称にはラグビーが生まれるきっかけになった人物の名前が付いている。1823年、英国の名門私立学校ラグビー校の学生だったエリスが、フットボールの試合中にボールを持ったまま走り出したことが誕生秘話とされている。またラグビーの「One for all, all for one」というチーム精神、試合終了を告げる「No side」(試合が終われば敵味方なく互いに健闘を称え合う)など、「キリストの紳士たれ」という精神が根底にある。エリスは卒業後、牧師となって神と人に仕えた。▼クリスチャンは立派な人物であるというイメージをしばしば抱くが、神の前では誇らしいものが皆無なのがキリスト者の自覚であろう。真実は不明であるが、ラグビーが意図的ではないものの結局、反則から生まれたのであれば、誇らしいことではない。だが驚くべきことに、時に自慢できないような人間の生の姿から、神は思わぬ恵みを引き出されることがある。自分の良さや誇り、力にのみ目を向けるのではなく、弱さのうちにも計り知れない恵みを与える主を知る事、そこに私たちは招かれている。神は恵みを与えることを喜びとすると預言者は告げる。「恵み」それは本人の力が及ばない領域に働く神の善意である。(2019.9.22礼拝説教より)

 

「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」エレミヤ書9章22−23節


【「そのトゲ、とれますか?:コリントの信徒への手紙第一15章55−58節】

のトゲが足に刺さってしまったTちゃん。どうしても取れず、医者に取ってもらった。「君を苦しめていたのはこれだよ。持って帰る?」即座に何度も首を横に振る彼女。トゲは時に人に苦痛をもたらす総称でもある。▼淀川キリスト教病院のチャプレン藤井理恵さんの記事が朝日新聞に連載中だ。彼女は病院付き牧師として、死の恐怖に怯える患者の「たましいの痛み」に向き合う。必要に応じ「聖書にはこう書いてあって、私はこんなふうに信じている」と伝える。「あなたの存在はなくならない」「死を超えた命がある」その言葉を聞く中で死と向き合えなかった患者が、極限状態の壁に小さな穴が開いて一気に別の世界に入っていくように、劇的に変わる様子が綴られていた。▼「死のトゲは罪である」とパウロは言う。罪は、自ら抜けぬトゲとして生れながら人間の中心に突き刺さっている。われらを苦しめる根源、「死のトゲ」は神に取り去っていただく他ない。イエス・キリストは罪を取り除くために十字架に死なれ、復活によって死に勝利された。彼によって死のトゲは取り去られたのだ。

 <2019/9/1「先週の説教より」


【続・平和をつくりだす人たちは幸いである〜平和主義者勝海舟:マタイによる福音書5章9節】2019/8/25

 戸無血開城を実現した勝海舟。新渡戸稲造の武士道によれば、「刀は丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあり、人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった」と海舟の談話を紹介し、武士の究極の理想は平和であることを示している。それはイエス・キリストが示された「剣をさやにおさめよ」という平和の道に通じている。海舟は日清戦争や朝鮮出兵に猛反対していた。彼は明治新政府の顧問的立場から西郷隆盛に意見を求められ「耶蘇教黙認意見」を提出。それから2年も経たずに禁教令が解かれている。ジャーナリスト守部喜雅氏は海舟が晩年、米国伝道師から受けた祈りの後、涙を流し「人生で一番素晴らしい時であった」と感謝を表した逸話を紹介している。<勝海舟最期の告白より>海舟は来日したキリスト教徒のホイットニー一家と懇意にし、その娘クララは海舟の三男、梅太郎の妻となった。クララの手紙によると、海舟が亡くなる2週間前、はっきりと本人の口から「私はキリストを信じる」と告白したという。     <2019/8/25「平和礼拝」牧師コラム/先週の説教より


【『平和をつくりだす人たちは幸いである。』マタイによる福音書5章9節】2019/8/11

「朝鮮独立運動などに身をささげた韓国人しか埋葬されない共同墓地(韓国:忘憂里)に今も大切に葬られている日本人がいる。山梨出身のクリスチャン、浅川巧(1891-1931)だ。墓碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」とある。▼巧は兄の伯教と共に日本の植民地となった朝鮮に渡り、地元の伝統陶器を研究しその価値を広めた。当時民族に対する偏見が強い中、巧は朝鮮の人たちの暮らしや文化に深い尊敬を抱き、朝鮮語を学び彼らと共に生活した。朝鮮服を愛して普段着ていたことから日本人から受ける侮辱も経験した。やがて彼の生き方は朝鮮民族の心を開き、固い絆で結ばれて行く。▼巧は自然を愛し、当時伐採により禿山となっていた朝鮮の山々の緑化に尽力し、生涯をささげた。働いて得た僅かな収入も現地の貧しい子らに寄付して学校に通わせた。浅川巧は40歳で天に召されたが、葬儀には村人たちが老若男女問わずかけつけ、競って棺を担がせてほしいと願い出たという。高校の英語の教科書にも「韓国と日本の友情を種まいた人物(A Sower)」として紹介され、映画化もされた。▼浅川巧は、国家間の政治情勢を超え、偏見や先入観を持たずに相手の習慣や文化に関心を持ち、お互いの良いところを知り、好きになることから真の親善が生まれることを行動で示し平和をつくりだした。     <2019/8/11「平和礼拝」牧師コラム/先週の説教より


【『学問のすゝめと信仰のすゝめ』出エジプト記20章12−17節】2019/8/4

「学問のすゝめ」で有名な福澤諭吉。彼は自分の子らに「ひびのおしえ(日々の教え)」を与えた。その第二編にある6つの掟は聖書の十戒がベースになっていると言わざるを得ない。第一に「神(ゴッド)なる創造主を畏れ敬い、その心に従うべきこと」が教えられている。彼は禁教令が解かれていない時代、キリスト教宣教師を慶應義塾の教壇に立たせるだけではなく、子らの家庭教師として雇い、自宅の隣に宣教師を住まわせ懇意にしている。諭吉はキリスト教徒とはならなかったが、長男の一太郎は米国留学をしてキリスト教徒となり、次女の俊も洗礼を受け、四女の滝はキリスト者となってYWCAの会長を務めた。信者でない福澤諭吉の教えは、本人の預かり知らぬところで不思議にも「信仰のすゝめ」となり、実を結んだことになる。一時期はキリスト教を排撃する立場の教育者であったが、晩年、新聞の社説にてかつてキリスト教を排斥したことは誤りであったと自己批判をし、日本もキリスト教のような宗教の必要性を説いた(1884.6.6.7「時事新報」)。キリスト者津田梅子の父、津田仙は諭吉を「キリスト教の友」と呼んでいる。 <2019/8/4牧師コラム/先週の説教より


千代(仙台)に及ぶ慈しみ』申命記5章11節 】2019.7.28(日)

 戒の第二戒は「偶像」を造ることの戒めである。「どういう意味かわかる?」とT君(小学校4年生)に聞くと、「神さまはいつも一緒だって意味さ」と解答。脱帽である。偶像を祀ることは場所が限定されるばかりではなく、ともすれば個人のみならず、結局子々孫々背負わされる事にもなり得る。聖書の示す真の神はわれらと共におられ、われらを背負われるお方(イザヤ46:3-7)だ。▼この戒めは、神を愛する者には、幾千代に及ぶ慈しみが約束されている。伊達政宗は一時期であるがキリスト教を推奨した。以降、神の慈しみは時代を超え今もこの地にも及んでいる。押川方義はわが国初のプロテスタント教会を組織した一人であるが、牧師、教育者として仙台の東北学院、宮城学院を創立し、幾多もの学生に影響を与えた。▼長男は大河ドラマ「いだてん」に登場する押川春浪で、かつて夏目漱石と人気を二分した日本初のSF小説家である。次男の押川清に至っては、日本プロ野球創設者として野球殿堂入りをしている。神の慈しみは多岐に及ぶのだ。▼今、この教会に置かれているわれらも神の恵み、慈しみのもとにある。この地域に、この国に神の恵みが広がる事を信じたい。   

 <2019/7/28牧師コラム/先週の説教より


【『今日を精一杯生きて』詩編118:24】2019.7.14(日)    

 や夕方、大量発生する小さな虫をご存知であろう。網戸をすり抜け、油断すると口の中にも侵入する。多種ある中、例えば「ユリスカ」や「チビクロバネキノコバエ」は僅か0.5mm、大きくても2mm程度。不快害虫と言われるが毒性もなく無害なため、とりたてて対策はなされない。おそらく蚊より弱く、虫の中でも最弱だ。不明な点は多いが、一説によればその寿命は34時間の種もあるという。人間が手を出さずともたった1日にも満たない生命を精一杯生きているのだ。▼「蝉のように(作:齋藤虹太)」という詩を紹介したい。

「蝉は成虫になると

 一週間しか生きられない

 その一週間で 

 精一杯 鳴く

 力強く 鳴く

 楽しく 鳴く

 蝉は僕らに教えている

 たとえまだ

 前に希望が見えなくても 

 その時を

 今を

 精一杯生きろ

 力強く生きろ

 楽しく生きろ と」

 (八乙女中学校文集「こだま」64号掲載作品)

100歳寿命と言われるが、人生は長いようで短い。今日、精一杯に神を愛し、今日、精一杯に目の前にいる生命を愛し、慈しみたいものだ。精一杯力強く、精一杯優しく、そして精一杯楽しく。

<2019/7/14牧師コラム/先週の説教から「今日を精一杯生きて」>


【『偉大なる神』2019/7/7(日) 詩編127:1

  光台教会は710日、宣教開始53周年を迎えた。最近、老後の年金以外に2000万円が必要だという試算が公表され物議を醸しているが、この教会はあるアメリカ人女性が老後のための私財を「仙台での宣教のために」とささげられた献金が呼び水となって多くの方がたの祈りが結集し、この地に建てられた。11年前には新会堂が建築され、震災を経験し、無牧師を経て今がある。▼「偉大な神さま」この言葉は初代牧師C.Sボートライト先生がよく語られたようである。これまで紆余曲折がありながらも、神がこの教会を守り、導いて来られた。更にこれからも先立ち、伴い、背後にて支えてくださるはずに違いない。私たちの信じる神は、偉大な神であり、そして万事を益とされるお方である(ローマ8:28)。▼教会は人間の計画や知恵、力によらず、ただ神の選びとご計画によってのみ築かれるものである。神のご計画でなければこの教会は世に存在すらしていない。ゆえに今ここに在る人も、神のご計画のうちに選ばれ、集められたといえよう。これから加えられる人も然りである。▼どんなに立派な功績といえども、神ご自身によらなければ、それはむなしい(詩編127:1)。教会は今後も変わることのない主と共に歩み続ける。神のみ心であれば必ず道は開かれ、必要は満たされ、希望が絶たれることはないと信じる。私たち自身の力が乏しくとも、私たちと共におられる神が偉大であれば、それで良いのだ。

<南光台キリスト教会宣教開始53周年記念礼拝>


   【「連続殺傷事件、相次ぐ事故を受けて〜神は何をしておられるのか」:歴代誌下36章1117節 

「地獄耳」があるなら「天国耳」もあるのかな?辞書を手に娘の疑問。母親曰く「神さまのみ言葉をよく聞く人じゃない?」「あ、そうか」と娘は納得。昨今、相次いで痛ましい殺傷事件、事故が頻発している。悪が暴走するこの状況下、神は一体何をしておられるのだろうか。南ユダ王国滅亡の危機が迫っていた時代、悪しき道を歩むゼデキヤ王に神は預言者エレミヤを通して語り続けておられた。王も国民も自分たちは滅びるはずないと心奢っていた。神は憐れみをもって繰り返し正しい道に立ち帰るよう何度も天からの使者を送り働いておられたが、彼らは聞く耳をもたずに剛情になって神の言葉を拒み続けるのであった。自らの意志で救いを拒否し続ける者をどうして救えよう。彼らはついに滅びに至る・・。大事故を起こしたドライバーの多くは、事故前に似たようなケースでヒヤリとする出来事が何度かあったと証言する。だが、注意を怠り続けた矢先に大事故に・・。かつて秋葉原連続殺傷事件の加害者は、犯行前の行動をネットの掲示板に書き込んでいた。「使う予定の道路が封鎖中とか。やっぱり、全てが俺の邪魔をする・・」(6時10:掲示板書より)本人は邪魔でも私はそれが悪事を思いとどまらせるように働く出来事、涙を流して必死に働く天の声に思えてならない。私たちはどうであろうか。「なすべき善はすでに心に告げられている」と預言者ミカは言う(ミカ6:8)。心を静めてへりくだり、神の語り掛けに聞き従う「天国耳」を求めずにはいられない。2019/6/30礼拝説教要約> 


沖縄命どぅ宝の日 2019/6/23(日) 聖書:マタイによる福音書26章52節   

 623日は「沖縄命どぅ宝(命こそ宝の意)の日」です。74年前、沖縄では約20万人の人たちが戦争で亡くなりました。今でも国の約7割に及ぶ米軍基地が沖縄に押し付けられています。綺麗な海には民意に反して基地が強引に作られ、広く青い空からはいつ軍機が落下するかわからない脅威にさらされています。兵士による女性への暴力事件も起こっています。/混雑する車内で足を踏まれる苦痛は、踏んでしまっている者に伝わりません。私たちは沖縄の人たちの足を踏んだまま、平和な生活を続けているのではないでしょうか。「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ。基地をもつ国は基地で亡び、核を持つ国は核で亡ぶ」(伊江村「ヌチドゥタカラの家」の正門に刻まれている言葉)沖縄の平和はわたしたちの平和に直結します。

2019/6/23(日)牧師コラム/先週の説教から



南光台教会 歴代牧師

 

1.196667年  C・S・ボートライト宣教師

2.196769年  ラルフ・本城宣教師

3.196971年  C・S・ボートライト宣教師

4.197276年  小櫻俊治牧師

5.197677年  仙台教会副牧師 庄司眞牧師

  197793年  庄司眞牧師

6.199398年   濱野道雄牧師

7.19982015年 井形英絵牧師

  (20153月〜20163 無牧師)

8.20164月~  田中信矢牧師