牧師紹介 Profile


 田中 信矢 Shinya TANAKA

 

 1969年熊本生まれ札幌育ち。放送大学教養学部、元(株)銀座コスモ天地堂札幌エスタ店勤務。会社員時代に神の愛に気づきキリストの伝道者を志す。日本福音宣教会アンデレ宣教神学院卒、Shepherd University(LA)大学院神学部卒。

日本バプテスト連盟札幌新生キリスト教会牧師を経て南光台キリスト教会8代目牧師に就任。妻と子(2人)の4人家族。

 


礼拝メッセージ(牧師コラム)「先週の説教から」


『恐れることはない』:ルカによる福音書11章26−38節

エスの母となったマリア。今でこそ聖母とも称されるが、当時の彼女は結婚前に夫によらない子を宿す身。それは社会から差別を受け、排除されてしまう者となることを意味する。しかも乙女のまま、聖霊による妊娠という。前代未聞、普通ではない。同じ女性、妻、母親であっても<訳あり>となるのだ。真実を口にしたところで誰が信じるだろうか。ある意味、差別される側に置かれたのがマリアでもあろう。しかし、天使の第一声は「恐れることはない」であった。自分だけ・・・。そう思わざるを得ない出来事にわれらは恐れを抱く。周囲との比較の中で自分一人違っている、取り残されている、そう思うと恐れが心を占める。また、将来に不安を抱えるとき恐れを抱く。だが、まさにその心にイエスが宿られる。福音書を読むとイエスは差別を受け、社会的に排除されようとして孤立する者に近づき、共に歩まれた。その意味ではイエスは真っ先に駆けつけるようにマリアの内に宿り、生涯彼女に寄り添われたのだ。世の中には、誰にも言えない自分にしかわからない事実のゆえに、心傷つき、理解されないまま置き去りにされてしまう人がいる。クリスマスキャロルは「イエスよ、心に宿りたまえ」という祈りに満ちている。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」(ルカ130)マリアのみならず、今もイエスは信じる者の内に宿りたもうお方である。

(2019.12.15礼拝説教より)    


『私のもとに来なさい。休ませてあげよう』:マタイによる福音書11章28−30節

「すべて疲れた者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とキリストは呼びかけられる。果たすべき責任や義務を背負い、周囲の期待や結果を出すため労苦する日々。時にその重圧に耐えかね、疲れを癒すための処方を誤り、社会において取り返しのつかない負の軛(くびき)を背負う例も耳にする。聖書の時代、過酷な労働を強いられ、決して逃れられない関係の総称として「軛(くびき)」という言葉が用いられた。本来は荷物を運ぶために家畜の首に巻いて使用する木製の道具である。主イエスは「私の軛を負いなさい」と招く。当時、2頭の牛を1つの軛につけたのを「1軛の牛」(Ⅰサム117)と呼んだ。キリストの言われる「私の軛」とは、「主イエスと繋がる(共なる)軛」であろう。それはどこまでも自分のもとに来る者に寄り添い「一緒に歩もうとされる」主イエスの軛である。動けなくなると共に足を止め、倒れたなら共に伏す。常に共にあるのだ。それを拒み、反発すれば双方に痛みが伴う。主イエスは優しく続けて語られる。「私に学びなさい」と。「私の弟子となれ」と同義である。柔和で謙遜なお方が、弟子の抱えている重荷を共に負ってくださるのだ。弟子の足までも洗うへりくだったお方が、権威や暴力で強いるのではではなく、優しく愛をもって一緒に歩んでゆかれる、それが主イエスの軛である。「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いのだ」と。あなたは一人で重荷を背負っているのではない。主イエスを通して、われらは本物の<安らぎ>に出会うのだ。(2019.12.1礼拝説教より)

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書11章28−30節

  


『神はわれらの逃れ場』:詩編62:1−9節

欲の秋というが、味を豊かにする最高のスパイスは「空腹」である。どのような旨味を醸し出す調味料も「空腹」には敵わない。世の中で人生を豊かにする出会いは多くあろう。しかし人間は時にどんな物や人も満たされぬ欠乏、霊的な空腹を経験する。数学者・物理学者であり発明家のパスカル(1623-1662)は、聖書の示す神との出会いに涙しながら「歓喜」に満たされた。神以外の何物によっても埋まらぬ心の空腹領域、即ち「渇望」を経験する時、そこでこそ、われらは歓喜の泉、神の愛と慰めに出会うのだ。だとすれば、渇望は最高の恵みとなり得る。

ダビデは王からの妬み、子らの反逆により荒野に追いやられ、長期にわたり身の置き場がない命の危険、人に信頼することのできない状態を余儀なくされた。だが、彼はそこで神を渇望する信仰が養われ、真の安らぎを得る居場所を見出していった。われらもこの世で生きる限り恐れ悩みは尽きず、どこへ逃れようと安心安全神話は崩れゆく。そのような現場で、詩編の言葉はわれらを神へと導く。「神はわれらの逃れ場」と。まことの逃れ場は救い主、イエス・キリストのもとにある。(マタイ1128節)わたしのもとに来なさい。わたしを呼べ。と主は招かれる。どこを向いているのか、あなたの救いはわたしだ。あなたの望みはわたしにある、と。どのような危機、苦難、窮乏、孤独にあっても、向かうべき恵みの場所が備えられている。あなたに向かって広げられた両手、主の愛から引き離すものはない。(2019.10.27礼拝説教より)


『主われを愛す』:ヨハネによる福音書11章28−36節 / 2019年度召天者記念礼拝

する者との死別。その苦悩は想像を絶するもので、到底ひとりで背負い切れるものではでない。マルタとマリア、彼女らはラザロという愛する兄弟を喪った悲しみの中に置かれていた。彼女らはやり場のない感情をイエスに投げかける。「主よ、もしあなたがいたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに・・・」愛する人を喪った悲しみは心の傷として深く刻印される。その傷を癒す特効薬というものはない。知り得る事は、この心の傷口の痛みが深くて強いほど、それは真実に相手を<愛した>という事の証しなのだ。泣きながらイエスに訴える兄妹たち、一緒にいた周りの人たちも泣く中、聖書で最短節であるにもかかわらず、最もよくイエスのご人格を伝える言葉が記されている。「イエスは涙を流された」と。誰を責めるのでも、何を恨むのでもない。ただ、そこにある悲しみを受け止め、一緒に涙を流されるイエスが今も共におられる。先に主のもとへ召されたK姉の愛唱讃美歌「主われを愛す」。召された故人は神の愛する尊い命である。神にとっても、われらにとっても、その事実は変わらない。われらは「死」を通してイエス・キリストの言葉に聴く。その中で主は復活の場所へとわれらを導かれる。故人はわれらの住む世界とは次元の異なる場所に移されている。とはいえ、神の愛というひとつ屋根の下、隣の部屋にいるものと考えよう。再会という来たるべき時まで。2019.10.20礼拝説教より)


『救いの光が差し込む時』:ヨハネによる福音書12章46−47節

城清治さん(95)は、現役の世界的影絵作家である。人間の生き様、人生そのものを「光と影」をモチーフに描き、作品からは生きる喜びや愛が伝わってくる。まさに祈りの芸術だ。彼は学生時代、教会で影絵劇をしたことがきっかけで牧師の叔父に励まされ、この世界に入ったそうである。▼「世」を救うために「光」として来たイエス。光が差し込むと影が露わになる。眩しさに比例して影は濃くなる。人間の一生には「光」と「闇()」が混在する。どの部分が光で闇なのか?私たちは神によって照らされてはじめて気づくのかも知れない。しかし、神は「世」を裁くためではなく、救うためにこそ照らされる。漢字の「世」は「十」を三つ合わせた形から、従来は「家長が家を治める期間」(三十年)、「人の一生」を表す会意文字として成り立った。福音書が示す「世」と重ね合わせるなら、私たちの「一生」、そのすべてを愛される神がおられる。イエス•キリストの一生、ゴルゴダの丘に立てられた三本の真ん中にある主の十字架と重ねると、そこには神の愛、恵みの光が差し込んでくる。。(2019.10.13礼拝説教より)


『恩赦の生涯』:使徒言行録26章12−18節

使徒パウロは以前、キリスト教徒を攻撃する迫害者であった。ダマスコ途上で復活のキリストに出会い回心。新約聖書にある多くの書簡を手がける大伝道者となる。パウロ回心の背景にはステファノのとりなしの祈りが思い起こされる。▼最近NHKで放送された『逆転人生「ヤクザから牧師へ 壮絶な転身 人生はやり直せる」に出演した鈴木啓之氏。番組では割愛されたが、かつて不誠実な夫が回心するに至る背景には妻による長年の祈りがあったという事実がある。▼人は誰もが恩赦の生涯だ。誰にも迷惑をかけない人間などいまい。身も心も本来あるべき正しさから離れ、的外れな生き方をするのが、聖書の語る罪人の原義だ。このままで良いのだろうかと時に迷いながら、自分の至らなさを痛感しながら、とあるきっかけで自らの正体に絶句しながら、それでも生きている。生かされている。恩赦は自分の功績によらず、ただ一方的に与えられる恵みだ。イエス・キリストは今もすべての者のために十字架につけられたまま、とりなし祈っておられる。ここに命を与えられた神からの恩赦、生かされる根拠がある。もっとも権威ある「ゆるし」が宣言されているからこそ人は変わることができ何度でもやり直せるのだ。あなたは祈られている。(2019.10.6礼拝説教より)


『ただ、祈るしかありません』:コリントの信徒への手紙 第一3章7節

「あなたがたは聖書を持っています。だから、自分で自分を治めなさい。」ミッションスクール女子学院初代院長「矢嶋楫子」の名言である。彼女はキリスト教矯風会の初代会長として封建社会にあった時代の女子教育、女性の人権向上のために生涯をささげた。▼楫子は数ある校則を撤廃した教育者としても知られている。その根拠は「神の愛に感じて、してはならないこと、すべきことの判断ができる人間になることを教えるのが私たちの教育。育てられるのは神です。私たちは祈るしかありません。」との言葉にも表明されている。楫子自身の経験に裏打ちされているのだろう。▼私たちは共に生きる相手に対し少なからずある要求を抱きながら接している。たとえ、どんなに確信のある価値観、正義であったとしても、相手に押し付けた時点で愛から遠ざかってゆく。愛はただ信じ、たた望み、それでも変わらなければ、耐えるしかない(コリント第一13章7節)。本人に気づかせ、成長させるのは神なのだ。私たちはただ、祈るしかない。だが、祈りこそは他者になせる最大の愛の行為のひとつと私は思う。誰も傷付けず、確実に届けられる。振り返れば私たちは祈られて事に気づき、祈られて救われ、祈られて神の恵みを知る者となったのではないか。だから私たちもただ祈り、神にゆだねよう。

(2019.9.29礼拝説教より)  


【「ラグビーの起源とされたクリスチャン」:エレミヤ書9章22−23節】

グビーラグビーワールドカップ2019日本大会が開幕した。「ウェブ・エリス・カップ」優勝トロフィーの名称にはラグビーが生まれるきっかけになった人物の名前が付いている。1823年、英国の名門私立学校ラグビー校の学生だったエリスが、フットボールの試合中にボールを持ったまま走り出したことが誕生秘話とされている。またラグビーの「One for all, all for one」というチーム精神、試合終了を告げる「No side」(試合が終われば敵味方なく互いに健闘を称え合う)など、「キリストの紳士たれ」という精神が根底にある。エリスは卒業後、牧師となって神と人に仕えた。▼クリスチャンは立派な人物であるというイメージをしばしば抱くが、神の前では誇らしいものが皆無なのがキリスト者の自覚であろう。真実は不明であるが、ラグビーが意図的ではないものの結局、反則から生まれたのであれば、誇らしいことではない。だが驚くべきことに、時に自慢できないような人間の生の姿から、神は思わぬ恵みを引き出されることがある。自分の良さや誇り、力にのみ目を向けるのではなく、弱さのうちにも計り知れない恵みを与える主を知る事、そこに私たちは招かれている。神は恵みを与えることを喜びとすると預言者は告げる。「恵み」それは本人の力が及ばない領域に働く神の善意である。(2019.9.22礼拝説教より)

 

「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」エレミヤ書9章22−23節


【「そのトゲ、とれますか?:コリントの信徒への手紙第一15章55−58節】

のトゲが足に刺さってしまったTちゃん。どうしても取れず、医者に取ってもらった。「君を苦しめていたのはこれだよ。持って帰る?」即座に何度も首を横に振る彼女。トゲは時に人に苦痛をもたらす総称でもある。▼淀川キリスト教病院のチャプレン藤井理恵さんの記事が朝日新聞に連載中だ。彼女は病院付き牧師として、死の恐怖に怯える患者の「たましいの痛み」に向き合う。必要に応じ「聖書にはこう書いてあって、私はこんなふうに信じている」と伝える。「あなたの存在はなくならない」「死を超えた命がある」その言葉を聞く中で死と向き合えなかった患者が、極限状態の壁に小さな穴が開いて一気に別の世界に入っていくように、劇的に変わる様子が綴られていた。▼「死のトゲは罪である」とパウロは言う。罪は、自ら抜けぬトゲとして生れながら人間の中心に突き刺さっている。われらを苦しめる根源、「死のトゲ」は神に取り去っていただく他ない。イエス・キリストは罪を取り除くために十字架に死なれ、復活によって死に勝利された。彼によって死のトゲは取り去られたのだ。

 <2019/9/1「先週の説教より」


【続・平和をつくりだす人たちは幸いである〜平和主義者勝海舟:マタイによる福音書5章9節】2019/8/25

 戸無血開城を実現した勝海舟。新渡戸稲造の武士道によれば、「刀は丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあり、人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった」と海舟の談話を紹介し、武士の究極の理想は平和であることを示している。それはイエス・キリストが示された「剣をさやにおさめよ」という平和の道に通じている。海舟は日清戦争や朝鮮出兵に猛反対していた。彼は明治新政府の顧問的立場から西郷隆盛に意見を求められ「耶蘇教黙認意見」を提出。それから2年も経たずに禁教令が解かれている。ジャーナリスト守部喜雅氏は海舟が晩年、米国伝道師から受けた祈りの後、涙を流し「人生で一番素晴らしい時であった」と感謝を表した逸話を紹介している。<勝海舟最期の告白より>海舟は来日したキリスト教徒のホイットニー一家と懇意にし、その娘クララは海舟の三男、梅太郎の妻となった。クララの手紙によると、海舟が亡くなる2週間前、はっきりと本人の口から「私はキリストを信じる」と告白したという。     <2019/8/25「平和礼拝」牧師コラム/先週の説教より


【『平和をつくりだす人たちは幸いである。』マタイによる福音書5章9節】2019/8/11

「朝鮮独立運動などに身をささげた韓国人しか埋葬されない共同墓地(韓国:忘憂里)に今も大切に葬られている日本人がいる。山梨出身のクリスチャン、浅川巧(1891-1931)だ。墓碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」とある。▼巧は兄の伯教と共に日本の植民地となった朝鮮に渡り、地元の伝統陶器を研究しその価値を広めた。当時民族に対する偏見が強い中、巧は朝鮮の人たちの暮らしや文化に深い尊敬を抱き、朝鮮語を学び彼らと共に生活した。朝鮮服を愛して普段着ていたことから日本人から受ける侮辱も経験した。やがて彼の生き方は朝鮮民族の心を開き、固い絆で結ばれて行く。▼巧は自然を愛し、当時伐採により禿山となっていた朝鮮の山々の緑化に尽力し、生涯をささげた。働いて得た僅かな収入も現地の貧しい子らに寄付して学校に通わせた。浅川巧は40歳で天に召されたが、葬儀には村人たちが老若男女問わずかけつけ、競って棺を担がせてほしいと願い出たという。高校の英語の教科書にも「韓国と日本の友情を種まいた人物(A Sower)」として紹介され、映画化もされた。▼浅川巧は、国家間の政治情勢を超え、偏見や先入観を持たずに相手の習慣や文化に関心を持ち、お互いの良いところを知り、好きになることから真の親善が生まれることを行動で示し平和をつくりだした。     <2019/8/11「平和礼拝」牧師コラム/先週の説教より


【『学問のすゝめと信仰のすゝめ』出エジプト記20章12−17節】2019/8/4

「学問のすゝめ」で有名な福澤諭吉。彼は自分の子らに「ひびのおしえ(日々の教え)」を与えた。その第二編にある6つの掟は聖書の十戒がベースになっていると言わざるを得ない。第一に「神(ゴッド)なる創造主を畏れ敬い、その心に従うべきこと」が教えられている。彼は禁教令が解かれていない時代、キリスト教宣教師を慶應義塾の教壇に立たせるだけではなく、子らの家庭教師として雇い、自宅の隣に宣教師を住まわせ懇意にしている。諭吉はキリスト教徒とはならなかったが、長男の一太郎は米国留学をしてキリスト教徒となり、次女の俊も洗礼を受け、四女の滝はキリスト者となってYWCAの会長を務めた。信者でない福澤諭吉の教えは、本人の預かり知らぬところで不思議にも「信仰のすゝめ」となり、実を結んだことになる。一時期はキリスト教を排撃する立場の教育者であったが、晩年、新聞の社説にてかつてキリスト教を排斥したことは誤りであったと自己批判をし、日本もキリスト教のような宗教の必要性を説いた(1884.6.6.7「時事新報」)。キリスト者津田梅子の父、津田仙は諭吉を「キリスト教の友」と呼んでいる。 <2019/8/4牧師コラム/先週の説教より


千代(仙台)に及ぶ慈しみ』申命記5章11節 】2019.7.28(日)

 戒の第二戒は「偶像」を造ることの戒めである。「どういう意味かわかる?」とT君(小学校4年生)に聞くと、「神さまはいつも一緒だって意味さ」と解答。脱帽である。偶像を祀ることは場所が限定されるばかりではなく、ともすれば個人のみならず、結局子々孫々背負わされる事にもなり得る。聖書の示す真の神はわれらと共におられ、われらを背負われるお方(イザヤ46:3-7)だ。▼この戒めは、神を愛する者には、幾千代に及ぶ慈しみが約束されている。伊達政宗は一時期であるがキリスト教を推奨した。以降、神の慈しみは時代を超え今もこの地にも及んでいる。押川方義はわが国初のプロテスタント教会を組織した一人であるが、牧師、教育者として仙台の東北学院、宮城学院を創立し、幾多もの学生に影響を与えた。▼長男は大河ドラマ「いだてん」に登場する押川春浪で、かつて夏目漱石と人気を二分した日本初のSF小説家である。次男の押川清に至っては、日本プロ野球創設者として野球殿堂入りをしている。神の慈しみは多岐に及ぶのだ。▼今、この教会に置かれているわれらも神の恵み、慈しみのもとにある。この地域に、この国に神の恵みが広がる事を信じたい。   

 <2019/7/28牧師コラム/先週の説教より


【『今日を精一杯生きて』詩編118:24】2019.7.14(日)    

 や夕方、大量発生する小さな虫をご存知であろう。網戸をすり抜け、油断すると口の中にも侵入する。多種ある中、例えば「ユリスカ」や「チビクロバネキノコバエ」は僅か0.5mm、大きくても2mm程度。不快害虫と言われるが毒性もなく無害なため、とりたてて対策はなされない。おそらく蚊より弱く、虫の中でも最弱だ。不明な点は多いが、一説によればその寿命は34時間の種もあるという。人間が手を出さずともたった1日にも満たない生命を精一杯生きているのだ。▼「蝉のように(作:齋藤虹太)」という詩を紹介したい。

「蝉は成虫になると

 一週間しか生きられない

 その一週間で 

 精一杯 鳴く

 力強く 鳴く

 楽しく 鳴く

 蝉は僕らに教えている

 たとえまだ

 前に希望が見えなくても 

 その時を

 今を

 精一杯生きろ

 力強く生きろ

 楽しく生きろ と」

 (八乙女中学校文集「こだま」64号掲載作品)

100歳寿命と言われるが、人生は長いようで短い。今日、精一杯に神を愛し、今日、精一杯に目の前にいる生命を愛し、慈しみたいものだ。精一杯力強く、精一杯優しく、そして精一杯楽しく。

<2019/7/14牧師コラム/先週の説教から「今日を精一杯生きて」>


【『偉大なる神』2019/7/7(日) 詩編127:1

  光台教会は710日、宣教開始53周年を迎えた。最近、老後の年金以外に2000万円が必要だという試算が公表され物議を醸しているが、この教会はあるアメリカ人女性が老後のための私財を「仙台での宣教のために」とささげられた献金が呼び水となって多くの方がたの祈りが結集し、この地に建てられた。11年前には新会堂が建築され、震災を経験し、無牧師を経て今がある。▼「偉大な神さま」この言葉は初代牧師C.Sボートライト先生がよく語られたようである。これまで紆余曲折がありながらも、神がこの教会を守り、導いて来られた。更にこれからも先立ち、伴い、背後にて支えてくださるはずに違いない。私たちの信じる神は、偉大な神であり、そして万事を益とされるお方である(ローマ8:28)。▼教会は人間の計画や知恵、力によらず、ただ神の選びとご計画によってのみ築かれるものである。神のご計画でなければこの教会は世に存在すらしていない。ゆえに今ここに在る人も、神のご計画のうちに選ばれ、集められたといえよう。これから加えられる人も然りである。▼どんなに立派な功績といえども、神ご自身によらなければ、それはむなしい(詩編127:1)。教会は今後も変わることのない主と共に歩み続ける。神のみ心であれば必ず道は開かれ、必要は満たされ、希望が絶たれることはないと信じる。私たち自身の力が乏しくとも、私たちと共におられる神が偉大であれば、それで良いのだ。

<南光台キリスト教会宣教開始53周年記念礼拝>


   【「連続殺傷事件、相次ぐ事故を受けて〜神は何をしておられるのか」:歴代誌下36章1117節 

「地獄耳」があるなら「天国耳」もあるのかな?辞書を手に娘の疑問。母親曰く「神さまのみ言葉をよく聞く人じゃない?」「あ、そうか」と娘は納得。昨今、相次いで痛ましい殺傷事件、事故が頻発している。悪が暴走するこの状況下、神は一体何をしておられるのだろうか。南ユダ王国滅亡の危機が迫っていた時代、悪しき道を歩むゼデキヤ王に神は預言者エレミヤを通して語り続けておられた。王も国民も自分たちは滅びるはずないと心奢っていた。神は憐れみをもって繰り返し正しい道に立ち帰るよう何度も天からの使者を送り働いておられたが、彼らは聞く耳をもたずに剛情になって神の言葉を拒み続けるのであった。自らの意志で救いを拒否し続ける者をどうして救えよう。彼らはついに滅びに至る・・。大事故を起こしたドライバーの多くは、事故前に似たようなケースでヒヤリとする出来事が何度かあったと証言する。だが、注意を怠り続けた矢先に大事故に・・。かつて秋葉原連続殺傷事件の加害者は、犯行前の行動をネットの掲示板に書き込んでいた。「使う予定の道路が封鎖中とか。やっぱり、全てが俺の邪魔をする・・」(6時10:掲示板書より)本人は邪魔でも私はそれが悪事を思いとどまらせるように働く出来事、涙を流して必死に働く天の声に思えてならない。私たちはどうであろうか。「なすべき善はすでに心に告げられている」と預言者ミカは言う(ミカ6:8)。心を静めてへりくだり、神の語り掛けに聞き従う「天国耳」を求めずにはいられない。2019/6/30礼拝説教要約> 


沖縄命どぅ宝の日 2019/6/23(日) 聖書:マタイによる福音書26章52節   

 623日は「沖縄命どぅ宝(命こそ宝の意)の日」です。74年前、沖縄では約20万人の人たちが戦争で亡くなりました。今でも国の約7割に及ぶ米軍基地が沖縄に押し付けられています。綺麗な海には民意に反して基地が強引に作られ、広く青い空からはいつ軍機が落下するかわからない脅威にさらされています。兵士による女性への暴力事件も起こっています。/混雑する車内で足を踏まれる苦痛は、踏んでしまっている者に伝わりません。私たちは沖縄の人たちの足を踏んだまま、平和な生活を続けているのではないでしょうか。「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ。基地をもつ国は基地で亡び、核を持つ国は核で亡ぶ」(伊江村「ヌチドゥタカラの家」の正門に刻まれている言葉)沖縄の平和はわたしたちの平和に直結します。

2019/6/23(日)牧師コラム/先週の説教から



南光台教会 歴代牧師

 

1.196667年  C・S・ボートライト宣教師

2.196769年  ラルフ・本城宣教師

3.196971年  C・S・ボートライト宣教師

4.197276年  小櫻俊治牧師

5.197677年  仙台教会副牧師 庄司眞牧師

  197793年  庄司眞牧師

6.199398年   濱野道雄牧師

7.19982015年 井形英絵牧師

  (20153月〜20163 無牧師)

8.20164月~  田中信矢牧師