愛する者との死別。その苦悩は想像を絶するもので、到底ひとりで背負い切れるものではでない。マルタとマリア、彼女らはラザロという愛する兄弟を喪った悲しみの中に置かれていた。彼女らはやり場のない感情をイエスに投げかける。「主よ、もしあなたがいたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに・・・」愛する人を喪った悲しみは心の傷として深く刻印される。その傷を癒す特効薬というものはない。知り得る事は、この心の傷口の痛みが深くて強いほど、それは真実に相手を<愛した>という事の証しなのだ。泣きながらイエスに訴える兄妹たち、一緒にいた周りの人たちも泣く中、聖書で最短節であるにもかかわらず、最もよくイエスのご人格を伝える言葉が記されている。「イエスは涙を流された」と。誰を責めるのでも、何を恨むのでもない。ただ、そこにある悲しみを受け止め、一緒に涙を流されるイエスが今も共におられる。先に主のもとへ召されたK姉の愛唱讃美歌「主われを愛す」。召された故人は神の愛する尊い命である。神にとっても、われらにとっても、その事実は変わらない。われらは「死」を通してイエス・キリストの言葉に聴く。その中で主は復活の場所へとわれらを導かれる。故人はわれらの住む世界とは次元の異なる場所に移されている。とはいえ、神の愛というひとつ屋根の下、隣の部屋にいるものと考えよう。再会という来たるべき時まで。(2019.10.20礼拝説教より)